第27話
27
そういえば、まだこんな稼業を始める前までは友達の家で一体何をしていたんだろう。
遠い昔の記憶。すっかり自分でもそんな過去の存在があったことを忘れている。
西川家の玄関前に立つ。
昼間に見ると、人気の無さも真っ暗な玄関を見たあの夜の記憶とは受ける印象が変わる。
すっと扉に近付き、ノブを触る。昼過ぎの時間帯。一般家庭でも主婦なら買い物に出ていてもおかしくはないし、何より紗紀の家は共働きの可能性が高い。ノブが動けば在宅、動かなければ不在と見て間違いはないだろう。
そしてある程度は予想していた結果ではあったが、力を込めてもノブは動かなかった。
すると小村はすぐポケットに手を入れ、すっと解錠工具を取り出す。西川家の玄関はやや複雑な構造のロータリーディスクシリンダー錠が取り付けられているが、小村にしてみればディンプルシリンダーやカードキー式でも無い限りはどれもほんの数秒で解錠できる以上、あまり大差ない。
事実、西川家の玄関錠は5秒で開き、そのまま招かれざる客を抵抗なく迎え入れた。
本来ならば、ある程度の下調べをしてから潜入方法を、あるいは個人へのアプローチ方法を決めるものだが、実際のところはそこまで猶予を与えられることは少ない。養成所の頃には小耳に挟む程度だったが、いざ現場で動き始めると下調べの時間すら与えられないことの方が圧倒的に多い。限りなく、行き当たりばったりの対応を迫られ、何とかかんとかこなしているのが現状だった。
ざっと玄関から観察する。靴はサンダルが一足ある他は綺麗に片付けられている。
内部を観察してみると、西川家はそれなりの一軒家だった。
玄関を入るとまず通路があり、奥にはおそらく台所。その少し手前、右側には階段。左側は居間に伸びる扉だろう。あるいは誰かの部屋かもしれない。
家の内部を観察しながら、ふと今日の昼食時に紗紀と交わした会話を小村は思い出していた。
「いつか私の家にも遊びに来たら?」
よく分からずに「考えておく」と答えたが、意図せずして小村は今、紗紀の家にいる。
潜入するという、人の家に遊びに行くというよりはその対極にある形になってはいるが。
「ごめん、紗紀」と謝りかけて、一体何に対して罪悪感を抱いているのだろう、と小村は疑問を投げかける。
これは任務だ。仕事だ。言わば、別件なのだ。
しかし。
不意に妙な考えが頭をもたげる。
もしも紗紀と鉢合わせたらどうしよう?
紗紀はどんな反応をするだろうか?
失望?
軽蔑?
それとも・・・・・・
ここに至り、自分の心境変化に動揺する。
今自分は何を考えた?
手にした解錠工具を取り落としかけ、すんでのところで工具を握り直し、ポケットに戻した。
対人感情とは距離を置いていた筈なのに。
対人感情とはもう縁を切った筈なのに。
一方で、咄嗟に豚の角煮をリクエストしたのは正解だと思った。手間と時間のかかる料理なら、その間紗紀を家の台所に釘付けにしておける。買い物にも時間がかかるだろう。
自分の中の感情に向き合うのは一先ず後回しにして、目前の任務に集中することにした。
玄関の鍵をかけ、観察を続ける。件の証拠は二階だろうか。
しかし、証拠の確保の前にまずすべきことは安全確認だった。
空き巣か、
誰もいない可能性の方が高そうだが、万が一誰かと鉢合わせたら言い逃れができない。
足音を立てずに手前の戸に耳を付ける。物音も人が居る気配もない。そのまま前進し居間の戸に目を向けるが、やはり気配はない。
しかし、すっと戸を小さく開けると、そこには小村の予想を裏切る光景があった。
居間の椅子に腰掛ける人影が1つ。女性のシルエットで、座位でよく分からないが背の程はおそらく155センチ前後。もしや紗紀の母親だろうか。
だが、経験に培われた小村の勘が何か変だと告げる。
「・・・・・・?」
気配がないのだ。背中を向けており、こちらに気付く素振りも、気付いている素振りもないが、まるでわざわざ息を殺して座っているかのような、妙な存在感の無さが違和感となって小村の勘を刺激する。
戦法を忍び込みに変えようとしたところで、この違和感の塊を前にするとどうにも小村としては安全確保に考えがシフトする。
廊下を見渡し、隠れられそうで且つ、足音が響きそうにない場所を探す。
アタリをつけると小村は壁を軽く叩いた。大抵の人間は妙な物音がすると警戒し、何かしらに構える。そのときに発する気配ばかりはごまかしようがない。
だが、小村の予想に反して反応はなく、気配も足音もない。再度覗き込むと、先程から微動だにしていない。もしや寝ているのだろうか。
近付いて確認するのはあくまで最終手段だ。
逡巡の末、小村は思い切ってペンを投げ込むことにした。百均に売ってる、十本一束の安物のボールペンを胸ポケットから取り出す。この手のボールペン程度の文房具ならば、いくらなんでもどこの家にでもある。そのため、いささか位置が不自然でもどこかから落下したと思われる公算が大きい。その上、立てる音が大きめなので気付かせやすい。
足元に落下するように投げ込む。からんと音を立てボールペンが転がるが、またも反応はなかった。
まさか死んでるのではあるまいかと不安になるが、死臭の類はしない。足元にも死亡に伴う筋弛緩の失禁痕は無い。
意を決して、最終手段の「接近」を選ぶ。
金属製の、ペンほどの小さな棒を片手に一歩ずつ距離を詰める。万が一感づかれてもこめかみの下3センチを一定の力で一撃すれば直前の記憶をきっかり五分間奪うことができる。
息を殺し、真後ろに立つ。やはり気配はない。
すっと覗き込む。
無表情な、虚ろな女の顔があった。目は開いているが、どこに焦点が合っているのか分からない。只々、なんの感情も浮かんでいない、生物図鑑の人類として紹介される挿絵のそれよりも遥かに生気のない顔で、小村は思わず声を上げそうになった。生きてる人間ではない。そもそも人間だった確証すらない。
一体これは何だ?
ここは確かに西川家だ。それだけは疑いようのない事実だ。
しかし、この家の中にあるものは何だ?
一般家庭を装った内に眠るこの謎の人形は何だ?
紗紀はこれと日頃食卓を囲んでいたのか?
頭の中で疑問が渦巻く傍で、ふと小村は養成所にあった格闘訓練用のダミー人形を思い出していた。訓練用のダミー人形も出来がやたらと精巧な割に目が虚ろで、見る者に妙な不安感を与えるデザインだった。だが、今目の前にあるこの人形からはそれを上回る不安感を覚えた。
こんなものは今まで見たことも経験したこともない。未知との遭遇に半ば混乱しているが、気を取り直す。戦法は
通常、潜入時は判断が付くまで電源を切っておく。潜入においては、微かな音でも致命傷になりかねない。そのため、任務のごく初期の段階では連絡が取れなくなることが多い。大抵は事前に打ち合わせておくか、言うまでもなく把握しているものだが、上手く連携が取れてないと時折これが早とちりされて、死亡乃至は捕縛されたものとして判断されて、任務の流れが変わってしまうこともある。
実際、小村は今までにそれが原因で2回ほど死んだことにされたことがある。
この不幸な「死亡事故」を無くすべく、当初は携帯電話以外の通信システムを構築しようとしていたのだが、下手なところで通信をすると総務省の総合通信局に目をつけられかねないという事実を前に、無難な通信装置である携帯電話を使用することにした、という残念な経緯がある。
そのまま玄関先に戻ると小村は、脱いだ靴を手に取り鞄にしまう。これで万が一誰かが来ても中に第三者がいるとは思われないだろう。
しかし。
紗紀はどんな心理状態でこの家に?
先程とは打って変わって、違う方向性で他人の心情が気になったが、一先ず答えは後回しにすることにした。
二階に上がり、廊下から間取りを観る。
階段登ってすぐに一部屋。左に進むと一部屋。右手に進んでも一部屋。
だが、よく見ると左手の通路の壁が一箇所だけ色が違う。咄嗟に小村は、外観と一階の間取りを思い浮かべ組み立てる。位置的にはこの裏にも部屋があることになる。
つまり、理由は分からないが一部屋だけ封印されていることになる。
謎の等身大人形、封印された部屋。
次から次へと謎が出てくるが、目下の目標は証拠品のデータだ。
この部屋が最も怪しいが、そのためには壁の破壊の要がある。ここを破壊することは、潜入した痕跡を残していくことを意味する。すなわち隠密の意味を全て捨てることとなるのだ。
目的は専務の部屋。
現状、封印された部屋が最もそうである公算が高い。壁の破壊を後回しにして、まず行ける部屋から行くことにしたその時、胸ポケットの携帯電話が振動し、着信を知らせた。
名前を一見して電話に出ると、聞き覚えのある男の声が響いた。
「案外宦官ってのも悪くないのかもな」
「自己紹介なら後でやってくれないかしら」
すまん、こっちの話だ、と一言謝意を示した後で「宦官」が続ける。
「物証は重役宅の部屋の鍵付き戸棚だそうだ」
「部屋の位置は?」
「えーと、・・・・・・階段上がって左手すぐ、だそうだ」
ざっと見渡すが、壁が塗り固められた部屋がそうだろうこと以外の結論には辿り着けなかった。無論、下手な誤魔化しをしているはずもない。
「・・・・・・分かった。これから捜索に移る」
電話を切り、ポケットにしまう。
やるしかない。
階段を上がり、左手に進む。
壁の前に立つと、するすると無言で靴下を脱ぎ、中に小銭を詰めた。
小銭を入れた靴下はかなり強力な打撃武器となり、即席ブラックジャックの様相を呈す。
靴下を振りかぶり、そのまま壁を叩いた。
どん、と大きな鈍い音が響く。予想はある程度していたが、これは手短に済まさないと厄介なことになる。
幸いなことに、塗り固められた壁はそこまで分厚くはなく、ぼろぼろと崩れていく。だが、立てる音自体は大きい。
五、六回ほど叩いて取っ掛かりを作ると、そのまま引き剥がした。
やや濃いニス塗りの扉が壁の下から現れる。
やはり部屋がある。
残念ながらここで間違いないらしい。
中に足を踏み入れると、鍵付き戸棚はすぐ近くにあった。
一般的な鍵で、小村の手にかかればそれこそ3秒とかからずに開く。
そして事実、ものの2、3秒でかちりと音を立て、鍵穴が回った。
鍵付きの戸棚の中からは一つの封筒が出て来た。中を検めると、どうやら件のデータの原本らしいことが読み取れる。
これで任務の目標自体は、実にあっけなく完了した。それこそ、拍子抜けするほどに。
しかし。
この破った扉の事後処理はどうしようか。
それに、あの謎の人形も。
人形については考えても結論は出そうにない。それにまさか紗紀に直接聞くわけにもいかない。どうにもむず痒さを覚えるが、一先ずは目前の瓦礫の始末について考える必要がある。
はてさてと小村が頭を抱えていると、がたん、と音がした。壁の残りが崩れたのだろうかと思ったが、その割に音が軽い。
まさか。紗紀が帰ってきたのだろうか?
通路を覗く。音のした、階段側を見ると階段を上った先にあるすぐの部屋の戸がわずかに開いている。足音を立てないように近付いて中を覗く。丁度戸は蝶番がこちら側で、通路側から押し開く構造になっている。
まさか、椅子に座ったあの女がいたりはしないだろうか。
少しずつ、小さく戸を開く。
幸いなことに、小村の予想に反してそこには何もいなかった。
ほっと胸をなでおろす。いたらおそらく今度こそ心臓が止まるところだっただろう。
だが、ここでふと小村の中の冷静な部分が警鐘を鳴らす。
じゃあ、一体誰がこの扉を開けた?
はっと気が付いて背後を振り返ろうとした小村の後頭部に階段側から強力な一撃が加わるのは同時だった。
「悪い子・・・・・・でも、悪い子って嫌いじゃないわよ・・・・・・ね、絵里・・・・・・っ」
誰かの、聞き覚えのある声がした気がしたが、小村にはもうそれが誰だか判別するほどの意識は残っていなかった。
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