第19話

まさかここまでとは。

「小村さぁん・・・・・・はぁ、・・・・・・」

紅く上気した表情を浮かべ、やや潤んだ瞳で西川が小村の頬を撫ぜる。

いつの間にか西川は小村の膝の上に寝っ転がっている。

「小村さんがいる・・・・・・」

茶色い液体の入った瓶は、ほんの数時間前まで殆ど満タンだったのだが、今では底をつく手前まで来ている。


まさか、

「その綺麗な顔も、」

ここまで、

「謎が多いところも、全部好きぃ・・・・・・えへへえ」

西川の酒癖が悪いとは思いもよらなかった。


食事の前に話は遡る。


西川の後ろを通り、「膳」というラベルが貼られた瓶とグラスを食器棚から取ると、小村はおもむろに食卓に向かった。

開栓こそされているものの、あまり中身は減っておらず、尚且つ瓶には薄っすら埃が被っており、開けてからかなりの長期間手を付けていない様子が見て取れる。

西川の目を盗み、埃を払う。


食卓に着くと、小村は西川に見えるように瓶の中身を注いだ。

「小村さん、それって・・・・・・」

「どうしても一仕事終えたらこれがないと」

調理場でカレイの煮付けを作りながら、目を丸くする西川に小村は、視線をグラスに向け、ツーフィンガー分だけウィスキーを注ぐ。

勿論真っ赤な嘘なのだが、西川は疑いもしない。

「ウィスキーは苦手かしら?」

「そんなの分からないわよっ!」

飲んだことが無いのだろう。

予想通りの反応だ。

「なら私とちょっと試しに冒険しない?」

「一人でやってよ」

「・・・・・・一人は、寂しいもの」

一呼吸置き細々とした声を作り、心なしか落ち込んだような表情を作る。

はっとしたような顔をした直後、西川が逡巡する様な表情になる。


数秒の沈黙の後に、西川が答えた。

「分かったから、そんな顔しないの」

ふうと息を吐き、付き合わせてもらうわ、と続けた。

小村は、喜色満面、とまでは行かないが落胆の色を表情から消す。

一見して喜んでいるのが分かる程度には。

「ちょっとだけだからねっ!貴女も私も!」


そして今。

小村は西川の裏を暴いてやろうという心を持ったことを激しく後悔していた。

「ねえ、小村さん?聞いてる?」

西川が刺客である疑惑を少しでも抱いたことも。

「聞いてるわよ、もう・・・・・・」

先程から全く以って一言も聞いていない。

「ちょっとだけ」と言った彼女は夕飯と共に飲み始めた。

当初はむせていたものの、やはり貴女の口には合わないかしら、と少し寂しそうにすると何かしら着いて来ようとして、スタイルをストレートからロックに変えて次々と挑戦していった。

どうやら西川は試行錯誤の末、ロックが好みらしいという結論を得た。

その結果が、今小村の目の前に居る、「出来上がった」西川だ。


今なら本題をぶつけられるだろうか。

「ところで、何で私にそんなに付きまとうの?」

「付きまとうなんて、そんな・・・・・・」

見る見るうちに悲しみが顔中からこぼれ落ちる。

「っ!・・・・・・分かったわよっ!・・・・・・そう言えば、お家の人はいいの?」

言葉につまり、唐突に話題転換を図る。

実に今更な質問なのだが。

「ああ、それならいいのよお、もう言ってあるからあ」

最初から泊まり込む気満々だったのかこいつ。


頬を撫でられながら、器用にも小村は一口だけグラスの液体を口に含んだ。

その小村の膝元で西川が何かを喋っている。

小村自身はまだ二杯目だが、西川はロックだけでも既に少なくとも五杯は飲んでいる。

正確な数は本人はおろか、小村も把握していない。

最早尋問は諦めて、今や頭の中ではいつ、どのタイミングで西川を引き剥がそうかの算段を立てている。


「つまり、猫なのよ」

不意に耳朶を打った言葉が先程と脈絡が全くないことに気付き、意識を西川に向ける。

「え、と、もう一度言ってくれるかしら」

最早隠すまでも、作るまでもない困惑の色がありありと小村の顔に浮かぶ。

一体何の話だろう。

「だから、小村さんは猫じゃあないの、って話よぉ・・・・・・」

顔貌は正常で且つ、呂律はまだ回ってる。

どうやら体のアルコール耐性は強い様だが、思考回路が先にぶっ壊れるタイプらしい、と冷静に分析する。

と、ちょっと待て。

猫?

「猫はにゃあと鳴くでしょう?」

「一体何の話なのよ」

「猫は気ままな生き物よ。おまけに神出鬼没なの。貴女に似て・・・・・・」

別に気ままでも神出鬼没な訳でも無いのだが、と思ったが、言葉を飲み込む。

「貴女もにゃあと鳴きなさいよぉ」


突如、顔を撫でていた西川の手が小村の喉をくすぐる。

丁度、猫の喉を撫でるように。

「貴女っ、ちょっと、ひゃんっ!」

思いもよらず変な声が出る。

「あらぁ、可愛い声で鳴くのねえ、この猫は」

西川の笑顔に妖しいものが混じる。

更に右手で喉を撫で、余った左手が小村の腰の後ろに回る。

つつ、と腰回りを指先がなぞる。

「ちょっと、ひゃっにゃっ、んっ!」

後半はもう言葉になっていない。

「あらあ、嬉しそうな声してえ」

「別に嬉しい訳じゃっ!ないっ!って、んっ!」

何だか、私の方が尋問されていないか?


妖しい光がより輝きを増して西川の目に宿る。

その時、不意を突かれた。

アルコールのせいか、一瞬反応が遅れたが、もう遅かった。

西川にすっと腕を引かれ、小村がソファに倒れこむ。

丁度、西川に押し倒されたような体勢である。

マズい、マウントを取られた。


そのままするりと潜り込み、西川は小村に身体を密着させる。

息を切らせながらも、むしろ猫なのはお前の方だ、と冷静な感想を小村は持つ。

その感想を口にする代わりに変な、それこそ嬌声にも似た声を発するためだけに今現在、小村の発声器官は機能を発揮しているのだが。

その間にも依然として西川は小村の喉と体を撫で回している。


不意に手の動きに妖しいものが混じる。

「ちょっと!貴女っ、ちょっとっ、待ちな、さ、んっ!」

思ったより力が強い。

しかしここで、酔っ払い相手に関節技を掛けるわけにもいかない。

どうしたものかと抵抗しながら逡巡していると、西川の手が唐突に止まった。


「でね、小村さん、私・・・・・・やっぱり・・・・・・」


何かを紡ごうとして、不意に下を向く。

西川の表情を伺い知ることはできない。

そして。

ぽすっ、と音を立て西川の頭が小村の体に沈み込んだ。

「に、西川?」

動かない。


ふと耳をすませるとすうすうと寝息を立てている。

穏やかな、幸福そうな表情を浮かべ、眠りに落ちている。

二、三度呼びかけて、答えが来ないことを確認すると、小村は体勢を変え、西川を担いだ。


居間を出て、寝室に向かう。

西川をベッドに押し込むと、居間に戻る。

「本音は聞けた、と考えていいのかしら」

小さな独り言が漏れる。

ふと目線を走らせると、居間の片隅に西川の鞄を発見した。

中身を見る。

教科書、ノート、プリント、着替え。

おおよそ普通だ。

暗号表や通信機器、武器類は見当たらない。

隠している可能性も有るが、限りなくゼロに近いと判断して差し支えはないだろう。少なくとも同業者ではなさそうだ。


小村は納得したように鞄のファスナーを閉じると、そのままソファに向かい、横になった。

食卓に目を向けると、空いた皿と、飲みかけのウィスキーグラスが存在を主張している。

少し考え、「明日にしよう」と先送りにする決心を付けた。

今晩のところはアルコールと、トルコ出張の疲労が手伝う、まどろみの中に堕ちていくことにした。

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