第8話 鰐並み
「シュー」
先輩を丸呑みにした白い大蛇は、ゆっくりと僕に近づいて来た。心臓の音が高鳴り、呼吸が荒くなる。しかし足は一向に動かず、まるで蛇に睨まれた蛙の様に僕はその場から動くことが出来なかった。
白い大蛇は僕の目と鼻の先で止まった。
「シャアー」
白い大蛇が口を大きく開ける。口の中には大きな牙が上下に四本見えた。
(ああ、喰われるな)
どこか他人事の様に考えていた僕に蛇の牙が迫る。その時、背後でガチャリと屋上のドアが開く音が聞こえた
僕はまるで、ゼンマイ仕掛けの人形の様な動きでドアの方を見る。そこにいた人影を僕は、はっきりと見た。
「雨牛君」
波布さんは、僕の名前を呼ぶとニコリと微笑む。その時、またしても、凄まじい耳鳴りがさした。
ブウウウン。
同時に体が軽くなる。まるで、重力がなくなったかのように。
「うぐあああああ!」
全身がグルリと回る。まるで洗濯機に放り込まれたかのように、グルグルグルと何度も何度も回る。
「えっ?」
気付いたら僕は、元の場所にいた。波布さんが、僕にしっかり抱き付いている。傍には、栗鼠山と奏人がいた。そして、目の前には……。
僕に抱き付いている波布さんを引き離そうとしている鰐淵先輩がいた。
学校に飛ばされる前と同じ光景が目の前にあった。
「……鰐淵先輩」
僕は自然に先輩の名前を口にしていた。
「……」
先輩は何も言わず、ゆっくりと僕達から離れた。僕は、抱き付いている波布さんの手をそっと、退かす。波布さんは何も言わず、僕から離れた。
「先輩……無事だったんですね!」
僕は満面の笑顔で、先輩に駆け寄った。僕は先輩に手を伸ばす。
バシッ。
周囲に音が響くほど強く、先輩は僕の手を払いのけた。
「先輩?」
目を見開き、先輩を見る。僕は大きなショックを受けた。先輩に手を払いのけられたことにではない。初めて見る先輩の姿にショックを受けたのだ。
「……やだ」
先輩は、蚊の羽音の様な小さな声でポツリと呟いた。
その顔には血の気がなく、まるで死人の様に真っ青だった。さらに、先輩の体は小刻みに震えている。
先輩は怯えていた。それも尋常ではない程。
「ゆ……許して」
先輩は一歩、僕達から後ずさる。
「先輩!どうしたんですか?」
僕は先輩に話し掛ける。だが、先輩は僕の言葉など耳に入っていないように「許して、許して」と繰り返す。先輩はパニックを起こしかけていた。僕は何とか、先輩を落ち着かせようとする。
「せ、先輩?大丈夫ですよ。此処には蛇なんて……」
僕が『蛇』と言った瞬間、先輩は動きを止め、大きく目を見開いた。僕は大きな失敗を犯してしまったことに気付く。何か言わなくてはと、慌てて口を開く。
だが、もう遅かった。
「いやああああああああああああああああああ!」
先輩は突然絶叫し、走り出した。
「先輩!待って!」
僕は先輩を追掛けた。
先輩は絶叫しながら、そのまま横断歩道を渡っていく。僕も横断歩道に入ろうとした時、誰かに腕を掴まれた。
(誰だ?)
後ろを振り向くと、そこにいた波布さんと目が合った。波布さんは僕の腕をしっかりと掴んでいる。
「波布さん、離……」
「駄目です!」
僕の声をかき消すほどの大声で、波布さんは叫んだ。その迫力に気圧される。
「駄目って、何が……」
キイイイイイ。ドン。
車が急ブレーキをかける音と、何かにぶつかる音が聞こえた。
僕はゆっくりと前を見る。赤い軽自動車が、横断歩道の上にいた。バンと勢いよく運転席のドアが開く。出てきたのは四十代程の中年男性。男性は「大丈夫か?」と言いながら、何かに駆け寄っていく。僕は視線を軽自動車の前に移した。
「嘘……だろ」
軽自動車の十五メートル程先に、先輩が横たわっている。先輩はまるで人形の様にピクリとも動かなかった。
救急車が来て、先輩が運ばれた後、僕達はやって来た警察に何時間も事情聴取を受けた。
『君達の関係は?』
『彼女のこと、どう思っていた?』
『彼女は何か悩んでいなかったかい?』
と、様々なことを根掘り葉掘り聞かれた。
一部始終を見ていた目撃者は僕達五人が何やら言い争っていると、突然、先輩の様子がおかしくなって走り出したと証言した。
警察は『僕達の誰かが言ったことに対して先輩はショックを受けた。そして、思わず走り出してしまい、事故に遭った』と思っているようだった。
『彼女に何か変なことを言わなかったか?』と警察には何度も聞かれた。学校や親にも似たようなことを言われたが、僕は一貫して、「知りません」とだけ答えた。
波布さんや栗鼠山、奏人もそろって「何故、先輩が突然錯乱したのか分からない」と言い、目撃者も僕達が先輩に何かを言った様子はなかったと証言した。そのため、『僕達が言ったことに対してショックを受けた先輩が走り出して、事故に遭った』という警察の見解は否定された。
結局、先輩は勉強や家庭でのストレスから衝動的な自殺を図ったということになった。
先輩はその後、何とか一命をとりとめたらしい。
だが、依然として意識は戻っていはいない。もし、運よく意識を取り戻したとしても体のどこかに後遺症を残す可能性は低くないとのことだ。
事件が一応の落ち着きを見せ始めた頃、僕は波布さんを屋上に……正確には、屋上の踊り場に呼び出した。僕がメッセージを送ると、直ぐに『はい、分かりました』と返信があった。
一足早く踊り場にやって来た僕は屋上に通じるドアを調べてみた。ドアノブを握り何度か回してみる。ドアノブはガチャガチャと音を立てたが、ドアが開くことはなかった。
「やっぱり、鍵が掛かっている」
屋上に通じるドアにはしっかりと鍵が掛かっていた。僕は顎に手を当て、考える。
「お待たせしました」
背後から声を掛けられ、振り返る。いつの間にか、波布さんがいた。
「……久しぶり」
「はい」
先輩の事故があってから、僕は波布さんと暫く会っていなかった。
『事件が落ち着くまであまり会いたくない』と僕がメッセージを送ったのだ。『嫌です』と言われるかもと思ったが、波布さんはすんなり了承してくれた。
「ごめんね、こんな所に呼び出して」
「いえ……少し痩せましたか?」
僕を見る波布さんの顔は、僕が熱を出した時に見せる母親の顔と同じものだった。僕は少し無理して、笑う。
「大丈夫。少し眠れてないだけだよ」
「そうですか……」
「うん……」
重い沈黙が続く。でも、このまま黙っている訳にはいかない。
「波布さん」
「……はい」
「聞きたいことがあるんだ」
「何でしょう?」
波布さんの澄んだ目を見ながら、僕は口を開いた。
「君が先輩を襲ったの?」
『上手くいった』
私は、心の中でほくそ笑む。彼に近寄る害虫……いや、害獣かな?うん、害獣の方がしっくりくる。何せ、『鰐』だ。害獣の方がふさわしい。
私の雨牛君に手を出すなんて、全く卑しい女だ。人のものに手を出すなんて、口に入ったものを何でも食べる鰐らしい。
しかし、傑作だった。あんなに偉そうにしていたくせに、ちょっと傷つけたら、「ごめんなさい」、「許してくれ」と連呼するんだから。
あの偉そうな口調も態度も、きっと自分を守るためのものだったのだろう。
本当は弱い自分を守るための鎧。だから、それを少し剥がしてやるだけで、簡単に本性を現す。謝るぐらいなら、最初から人のものに手を出さなければ良いのだ。そんなことも分からないなんて、頭の中も鰐並みなのだろう。
しかし、一つだけ残念なことがある。あの女が死ななかったことだ。まぁ意識不明らしいので、良しとしよう。もし、意識が戻ったら、その時にまた殺せばいいのだ。
それよりも、まだ他に殺さなければならない人間がいる。
『全く……』
私は心の中で溜息を付く。どんなに駆除してもゴキブリが寄ってくる。それもこれも彼が素敵過ぎるのが悪いのだ。そのせいで、定期的に害虫を駆除しなければならない。
『まぁ、仕方ないか』
あんなに素敵な人が私のものなのだ。害虫を駆除するのは、私に課せられた義務であり、使命なのだろう。
『さてと』
私は彼を自分のものにし続けるため、次の邪魔者を排除する計画を練り始めた。
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