第7話 白い大蛇は鰐を食べる
「……」
「……」
目を細める鰐淵先輩と僕に抱き付いたまま離れない波布さん。栗鼠山と奏人はどうしようかと、オロオロしている。そして、鰐淵先輩と波布さんの間に挟まれている僕は…….。
「……」
何も言えずただ震えていた。
永遠とも思える長い沈黙。その沈黙を最初に破ったのは先輩だった。
「波布さん、どうしても離れる気はないのかい?」
「はい、ありません」
先輩の問いに、波布さんは冷たい氷の様な声で、淡々と答えた。僕を抱きしめている波布さんの腕の力は一向に緩まない。
「あの、波布さん……」
「はい、雨牛君」
先輩の問いに答えた時とは打って変わって温かく弾むような声で、波布さんは返事をした。
「は、離れて欲しいのだけれど……」
「……」
「ほら、少年も離れて欲しいと言っているじゃないか」
先輩は、得意げに腕を組む。先輩に注意され、僕からも離れて欲しいと言われれば、流石の波布さんも僕から離れ……ることはなかった。
「嫌です」
「嫌って……」
「離れたくありません。今日はこのまま学校に行きます」
「えっ!?」
思わず大声を出してしまう。栗鼠山と奏人は驚き、先輩はますます目を細めた。怖い。
「な、波布さん!」
「はい」
「そ、それは駄目だ!」
「どうしてですか?」
「だって、そんなことしたら、学校で噂になっちゃうでしょ?」
「私は、構いませんよ?」
「僕が困るの!」
噛み合わない僕達の会話に、先輩が割って入る。
「波布さん」
「……はい」
波布さんの声の温度が、再び氷点下まで下がる。
「私はね、少年に相談を受けていたんだ」
「……相談?」
「ああ、『ある女の子に告白され断ったけど、その女の子が諦めてくれなくて迷惑している』とね」
「……」
「君に付き纏われて少年は迷惑している。だから……」
先輩は波布さんの目と鼻の先まで、顔を近づける。
「もう彼に近づくな」
鰐が蛇に噛みついた。僕の頭の中にそんなイメージ映像が流れる。
「……」
先輩の言葉を受け、波布さんは黙った。先輩は自分の脅しが効いのだと思ったのだろう。今度は一転して優しい声色で、波布さんに話し掛ける。
「さぁ、彼から離れてくれるかな?」
厳しい言い方をした後に、優しく諭す。これで、波布さんは僕を諦める。先輩はそう思ったのだろう。しかし……。
「雨牛君」
波布さんは先輩を無視して僕に話し掛けてきた。
「私は雨牛君にとって迷惑な存在ですか?」
「えっ?」
「私は邪魔ですか?」
「えっと……」
「私のこと……嫌いですか?」
「ええっと……」
僕は言葉に詰まる。いや、困ってはいるけど……『邪魔』とか『嫌い』という程では……。
「少年は、迷惑だと私に言った。だから……」
「貴方には聞いていません。私は雨牛君に聞いています」
波布さんはピシャと先輩の言葉を遮った。
鰐の牙から逃れた蛇。二匹は再び睨み合う。
「雨牛君」
「はっ、はい!」
二人の雰囲気に飲まれた僕は思わず、敬語で応える。
「貴方はこの方に『迷惑している』と言ったそうですが、それは本当ですか?」
「えっ?」
「本当に『迷惑している』と言ったのですか?」
「えっ?えっと……」
僕は先輩に相談した時のことを思い出す。確かにあの時、僕は先輩に『何度も告白してくる女の子がいて、迷惑している』と……あれ?違う。
「雨牛君は『迷惑している』などとは、言っていません」
波布さんの言葉に先輩は困惑する。
「君は、何を言っているんだ?」
「雨牛君は『迷惑している』などとは言っていない。そう言ったのです」
先輩は呆れたように首を振る。
「妄想も大概にしたまえ、少年は確かに迷惑していると私に……」
「いいえ」
波布さんはきっぱりと先輩の言葉を否定する。
「優しい雨牛君が『迷惑している』だなんて言葉を使うはずありません」
僕は先輩に相談した時、何度も告白してくる女の子に『困っている』と話した。確かに、『迷惑』だなんて言葉は使っていない。でもそれは……。
「そんなものは、大した違いではないだろう?」
先輩が僕の考え代わりに言ってくれた。『困っている』も『迷惑している』も同じだと思うのだが……。
「いいえ、違います。鰐淵先輩」
先輩の眉がピクリと動いた。
「どうして、私の名前を知っているんだ?」
そう言えば、先輩はまだ一度も、波布さんに自分の名前を告げていない。それなのにどうして、先輩の名前を知っているのだろう?
「調べました」
波布さんの答えに、先輩は怪訝な表情を浮かべる。
「調べた?私のことを?」
「はい」
「どうして?」
波布さんは僕にチラリと視線を送ってきた。
「雨牛君と『貴方の周りの人にも気を付けてみます』と約束しましたので」
僕は思わず「ああっ」と声を出す。昨日の朝、体育館の裏で波布さんとそんな話をした。でも、あれから一日しか経っていない。一体どうやって先輩のことを……。
「鰐淵美味先輩。内瑠小学校、入江中学校卒業。成績優秀、中間テスト、期末テストでは常に三番以内に入り、全国模試でも十番台という成績をキープ。中学時代に所属していたバスケ部ではキャプテンを務め、チームを優勝に導いた程の運動神経をお持ちのようですが、何故か高校ではバスケ部には所属せず、一人で生物部を立ち上げられました。身長171cm、体重60kg、スリーサイズは上から9……」
先輩の個人情報を波布さんは、ペラペラと喋る。先輩は「もういい」と怒鳴った。
聞いてはいけない情報を聞いてしまった僕は、チラッと先輩の様子を伺う。先輩も僕を見ており、バッチリと目が合ってしまった。
『忘れたまえ』
先輩の目がそう言っていた。僕は慌てて頷く。先輩はコホンと咳払いをすると、波布さんに視線を戻した。
「今は、私のことは関係ないだろう。それよりも、少年のことを……」
「いいえ、関係あります」
波布さんの声は静かだが、はっきりした声で断言する。
「鰐淵先輩。貴方は何故、雨牛君と私の仲を引き裂こうとするのですか?」
引き裂くって……。波布さんとはそういう関係でもなんでもないのだが……。僕と同じことを先輩も思ったようだが、その部分にはあえて触れず、質問に答える。
「……少年に相談されたからだ。だから、私は……」
「本当に?」
「ん?」
「本当にそれだけですか?」
「……何が言いたい?」
「貴方は頭の良い方です。私が何を言いたいのか、とっくに理解しているのでは?」
「……」
先輩はさらに目を細め、波布さんを見た。しかし、その目には明らかな動揺が見られる。先輩は再び僕を見る。僕と目が合うと、先輩は直ぐに目を逸らした。
「どうなのですか?」
波布さんは、先輩に鋭い視線を向ける。その視線を浴びた先輩は一瞬、たじろぐ。
蛇が鰐を絞め殺そうとしていた。
「い、いいから、まず少年から離れたまえ!」
先輩は、普段の冷静な先輩とは違い、まるで手負いの鰐のような粗さで波布さんの肩に手を掛る。そして、無理やり僕と波布さんとを引き離そうとした。
だが、波布さんは頑として僕から離れようとしなかった。
「何あれ?」
「修羅場?」
通行人が何事かと、僕達を見る。不味い。こんなところ動画に撮られて、ネットに流されでもしたら……。大変なことになる。
「せ、先輩、落ち着いて!」
僕は興奮する先輩をまず、落ち着かせようとした。すると、先輩はキッと僕を睨む。
「君は、彼女の味方をするのかい!?」
「はぇ?い、いや……」
「なら、黙っていたまえ!」
先輩はさらに力を込めて、波布さんを引き剥がそうとする。
「必ず君を助けてみせる!」
痛みのためか、波布さんの顔が歪む。僕は先輩の説得を諦め、波布さんを説得に掛かる。
「な、波布さん。離れて!」
「嫌です」
一秒も間を開けることなく即答された。こうなった波布さんはなかなか離れてくれない。
「あ、あの!お、落ち着いて!」
「そ、そうです!人が見ていますから!」
それまで、黙って見ていた(波布さんと先輩に圧倒され、動けなかった)栗鼠山と奏人が慌てて止めに掛かる。
波布さんと先輩、栗鼠山と奏人、そして僕。五人がもみくちゃになり、収集が付かなくなる。
その時だ。ニュルリと波布さんの体から白い大蛇が飛び出て来た。
「なっ?」
なんで?なんで『シロちゃん』が飛び出て来るんだ?混乱する頭で、僕は波布さんの話を思い出した。
シロちゃんは波布さんが奇妙な生物に襲われた時に飛び出て、彼女を襲おうとする生物を捕食するのだという。他にも餌を食べる時以外に周りの様子を伺うとために出てくる時があるのだとか。
僕は周囲の様子を伺う。もしかしたら、あの巨大なカナヘビのような奇妙な生物が波布さんを狙っているかもしれないと思ったからだ。しかし、幾ら見渡してもそんな奇妙な生物はどこにもいない。
もしかしたら、先輩が波布さんに危害を加えたからだろうか?
だが、これは違う気がする。何故なら、シロちゃんは先輩のことを全く見ていない。この場にいる人間全員をシロちゃんは、まるっきり無視している。
だとしたら、周囲の様子を伺う為に出て来たのか、と思った。
僕はこれが正解だと直感した。鎌首を上げて、キョロキョロと首を動かすシロちゃんは明らかに何かを警戒している。
波布さんは飛びだしたシロちゃんを見て「あらあら」と言った。先輩は、僕と波布さんが、空中の一点を見つめていることに気付く。
続いて栗鼠山がそれに気付いた。奏人は最後まで僕達が『何か』を見ていることに気付かなかった。
先輩は力を抜き、僕達が見ている所を見る。栗鼠山も同じように視線を動かした。だが、何も見えていないのだろう。二人は不思議そうに首を傾げた。
波布さんに視線を戻し、先輩は口を開きかける。
ブウウウン。
突然、凄まじい耳鳴りがさした。同時に体が軽くなる。まるで、重力がなくなったかのように。
「うぐあああああ!」
全身がグルリと回る。まるで洗濯機に放り込まれたかのように、グルグルグルと何度も何度も回った。そして、僕はドンと地面に落ちる。
「うげええ!」
激しい吐き気に襲われた僕は、その場で嘔吐く。
「はぁ、はぁ」
深呼吸をして、気分を落ち着かせる。気持ち悪いが、なんとか動けるまでには回復した。僕は、ゆっくり顔を上げる。
「へっ?」
思わず、間抜けな声が喉から出た。
僕がいたのは、僕達が通っている校舎の中だった。
(なんで?どうして?)
あまりの事態に僕は絶句する。間違いなく僕はさっきまで、登校の途中だった。それが何故、学校の中にいるのだ?テレポーテーションでもしたというのか?
そこで、はっと気づく。
(み、皆は?)
周りを見る。しかし、誰もいない。
栗鼠山も奏人も先輩も……波布さんも。
「み、皆!?みんな、何処だ?」
気付けば僕は叫んでいた。だが、何処からも返事はない。そこで、僕はさらに二つのことに気付いた。
一つは、人の気配が全くしないことだ。
いくら早朝とはいえ、部活の朝練などで既に登校している生徒はいるはずだ。しかし、僕の周りに人の気配は全くない。これは、異常だ。
二つ目は、外が暗すぎることだ。
今は、早朝。今日の天気は快晴。当然、外の天気は明るいはずだ。だが、外に光りはない。まるで、夜のように真っ暗闇だ。
(一体どうなっているんだ?)
僕は、もう一度皆を呼ぼうと、口を開きかけた。
「きゃああああああ!」
人の気配がない校舎に悲鳴が響き渡った。
僕はほぼ無意識に、悲鳴がした方向に駈け出していた。階段を駆け上がり、普段は走ることのない廊下を疾走する。廊下を走っている間もやはり、誰ともすれ違うことはなかった。
「あっ、あああああああ」
悲鳴はなおも続いている。階段を駆け上がりながら僕は気付いた。悲鳴は屋上からしている。屋上のドアの前に辿りつく。不思議なことにあまり、息は乱れていない。
僕はドアを掴み、捻った。普段は鍵が掛かっているはずのドアが簡単に開く。そのままの勢いで屋上に出た僕は、あまりの光景に目を見開いた。
そこには、白い大蛇がいた。
白い大蛇はギリギリと獲物を締め上げていた。その獲物は苦悶の表情で、空を見上げている。僕は大蛇が締め上げている獲物を見て「あっ」と声を上げた。
白い大蛇が締め上げている獲物。それは……『人間』だった。
「ううううあああああああ」
白い大蛇に締め上げられている人は、苦しそうに唸り声を上げている。すると、その人は僕の存在に気が付いた。
「うが……あああ……あああ」
苦しみの声を上げながらその人は僕をじっと見る。僕はその人の名前を叫んだ。
「鰐淵先輩!」
「しょ……ね……た……す」
先輩が途切れ途切れに言葉を発する。すると、白い大蛇はさらに先輩を強く締め付けた。ボキボキと骨が折れる音が此処まで聞こえてくる。
「あがああああああ!」
「先輩!」
絶叫が屋上に響く。僕は先輩を助けようと走り出した。でも……。
ガブリと白い大蛇が鰐淵先輩の頭に齧り付いた。
「あああ!」
勢いよく走り出した僕だったが、白い大蛇が先輩の頭に噛みついた瞬間、足が急に動かなかなくなった。まるで石にでもなったかのように、僕の足はその場から動かない。
(どうしたんだ。くそ、動け!動け!)
僕は自分の足を何度も叩いた。でも、足は小刻みに震えるだけで僕の命令を拒否する。
ゴク、ゴク、ゴク。
そうしている間にも、白い大蛇はゆっくりと先輩を頭から飲み込んでいく。
「やめろ、やめろ、やめろおおおお!」
僕は必死に叫ぶ。だが、白い大蛇は僕の叫びを無視して、先輩を飲み込んでいく。先輩の体はもう足しか見えない。
「やめろおおおおお!」
僕は喉が裂ける程の声で叫んだ。しかし、その叫びは何の役にも立たなかった。
ゴクン。
白い大蛇は先輩の体を全て丸呑みにしてしまった。
「ああ……ああ」
その場から動けない僕は、間抜けにもそれを見ているだけだった。
「……」
先輩を喰い尽くした白い大蛇は、今度は僕に視線を向けた。その目はどこまでも純粋で、どこまでも澄んでいた。
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