第6話 修羅場

 彼が好きだ。


 彼の目が好きだ。鼻が好きだ。耳が好きだ。口が好きだ。歯が好きだ。舌が好きだ。髪が好きだ。爪が好きだ。手が好きだ。足が好きだ。肌が好きだ。骨が好きだ。胃が好きだ。横隔膜が好きだ。肝臓が好きだ。膵臓が好きだ。腸が好きだ。胆嚢が好きだ。膵臓が好きだ。肺が好きだ。心臓が好きだ。脳が好きだ。心が好きだ……。好きだ。好きです。恋している。愛している。懸想している。好きだ。


 好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き。


 彼は私のもの。私は彼のもの。ずっと、ずっとそうだった。


 彼が欲しい。欲しい!欲しい!!欲しい!!!欲しい!!!!欲しい!!!!!欲しいい!!!!!!


 邪魔する者は……全員殺す。



「お、遅くなったし、家まで送るよ」

 話が終わった後、僕に抱き付いた波布さんは中々離れてくれなかった。

 一旦、引き剥がすことができても、波布さんはまた直ぐに僕に抱き付いてきた。それでも強引に引き剥がそうとすると波布さんは「きゃ!」とか「痛っ!」とか短い悲鳴を上げるのだ。

 恐らくワザだ。でも、ワザとだと分かっていても女子に悲鳴を上げられると思わず力が

ゆるんでしまう。すると波布さんはまた抱き付いて来る。十分以上それを繰り返した。

 そこで、僕は波布さんを引き剥がすため、家に送ることを提案した。波布さんは、僕に回していた腕をスッと離すと、じっと僕を見つめた。


「雨牛君が……家に……?」


 波布さんの体が小刻みに震えだす。

「あ、あの……波布さん?」

 僕は恐る恐る波布さんに声を掛ける。すると、波布さんは、勢いよく頭を下げた。

「よろしくお願いします!」

「え……あっ、う、うん」

 その勢いに圧倒された僕は、引き攣った声で頷いた。


「あっ、あの……波布さん?」

「はい」

「も、もう少し離れて歩かない?」

 波布さんは、僕の腕に自分の腕をガッチリと絡めている。まるで、獲物を絞め殺す蛇のように。

「あ、あの……波布さん?」

「嫌です」

 波布さんは僕の懇願を断ると、逆に腕をより強く絡めてきた。

「ちょ、ちょっと!」

 波布さんがさらに強く腕を組んできたことにより、僕の腕は波布さんの胸にぐっと深く押しつけられた。さっきはギリギリ当たっていた位だったので、なんとか耐えられたが、今は無理だ。とてもじゃないが耐えられない。

「お願い、波布さん……はな」

「怖いんです」

「えっ?」

「夜は暗いし、とても怖いんです」

 波布さんは潤んだ目でじっと僕見つめてくる。その涙は卑怯だ。

「……分かったよ」

「ありがとうございます」

 波布さんは笑顔で僕にくっ付いてきた。先程の目を潤ませ、怯えていた女の子は一体どこに行ったのだろう?

「はぁ……」

 深い溜息を吐き、僕は波布さんと歩き続けた。


 それから、一時間程歩き、波布さんの家に到着した(明らかに遠回りしていた)。

「此処だね」

「はい!」

 波布さんはとても嬉しそうだ。テンションが高い。


 波布さんの家は、何処にでもあるような普通の一軒家だった。もしかしたら、映画に出てくるような豪邸に住んでいるのでは?と思ったが、どうやら違ったらしい。

 波布さんはポケットから鍵を取り出し、玄関のドアを開けると、僕と腕を組んだまま家の中に入ろうとした。

 当然、このままでは僕まで波布さんの家の中に入ってしまう。

「えっ?」

 僕は間抜けな声を出す。波布さんは不思議そうに首を傾げた。

「どうしましたか?」

「いや、どうしたって……」

「さぁ、どうぞ」

 波布さんは僕の腕を引き、家の中に入れようとする。僕は思わず叫んだ。

「ちょっ、ちょっと待って!」

 僕は足に力を入れ、なんとかその場に留まる。

「あの、波布さん。このままじゃあ、僕も家の中には行っちゃうから」

「はい」

「だから、その腕を離して……」

 僕はなるべく優しく、波布さんに懇願する。すると、波布さんはまたしても不思議そうに首を傾げた。

「どうしてですか?」

「どうしてって……だから、このままじゃあ、僕まで家の中に入っちゃうから」

 波布さんはパチリと瞬きを二回すると、ゆっくり口を開いた。


「でも、家に入らなくては両親に紹介できません」


「両親?」

「はい」

「今、御両親が家の中にいるの?」

「……そうですが?」

 全身から汗がドッと噴き出した。

「離して!」

 波布さんの腕から、自分の腕を思いっきり引き抜いた。

 ガッチリと絡まっていた僕の腕と波布さんの腕だが、家に付いた安心からか、波布さんの腕から力が抜けていたため、簡単に引き抜くことが出来た。波布さんは「あっ」と短い声を発した。

 その時、家の奥から声がした。

「光?帰ったのか?」

 家の奥からした声は、とても低かった。明らかに大人の男の声だ。このままでは、玄関まで来てしまうかもしれない。


 蛇に絞めつけられたら、まず逃げられない。だけど、もし運よく逃れることが出来たのなら、やることは一つ。


 一刻も早く、その場から逃げることだ。


「じゃ、じゃあね!」

 僕は、不思議そうに首を傾けたままの波布さんを置いて、脱兎のごとく逃げ出した。



『じゃ、じゃあね!』

 そう言うと、雨牛君は走り去ってしまった。

 てっきり、私の両親に会いたがっていると思ったのだけど、違ったらしい。彼は純粋に私のことを心配して、家まで送り届けてくれたようだ。


 優しい。好き。


 運動部ではない彼は、とても可愛らしい走り方で遠ざかっていく。私は小さくなっていく雨牛君が見えなくなるまで見ていた。

 その可愛らしく、愛らしい走り方をしっかり、脳に刻みつけておくために。

「光?どうした?そんな所に突っ立って」

 後ろを振り返ると、そこに父がいた。私はニコリと笑顔を作る。

「何でもありません」

 そして、明るい声を喉から出し、家の中に入った。


 世界一素敵な雨牛君。


 貴方は必ず私のものになる。



「ふぁああ」

 大きな欠伸をしながら僕は学校へと向かう。

「よう、アマ!」

「やぁ……奏人。おは……よう」

「おう……って、また眠そうだな」

「昨日、色々あってね」

 家に帰った後、いざ眠ろうとすると、波布さんのことを思い出し、眠ることが出来なかった。

 柔らかい唇、耳を這う舌、大きく柔らかな胸……。眠ろうとする度に、それらの感触が何度もフラッシュバックした。

「おはよう!」

 明るい声に、僕と奏人が振り返る。僕の好きな人がこちらに駆け寄ってくる。

「よう、リス。おはよう」

「……おはよう」

 いつものように、僕の声は小さくなる。しかし、栗鼠山はそんなこと気にせず、ニコリと笑った。

「うん、おはよう!」


 僕達三人は世間話をしながら、学校へと向かう。その途中で栗鼠山が「……ところで、アマ」と訪ねてきた。僕は「何?」と返す。

「……えっとね」

「……うん?」

「えっとね」

 普段、栗鼠山は聞きたいことは、はっきり聞いて来る。その彼女が、何やら口ごもっていた。よっぽど聞きにくいことなのだろうか?

 僕は黙って、栗鼠山の言葉を待つ。隣にいた奏人も何も言わない。

「あのね……アマってさ」

「うん」

 しばしの沈黙の後、栗鼠山は口を開いた。


「アマって、波布さんと付き合ってるの?」


「ゴブッ!!」

 僕は思いっきり咳き込んだ。栗鼠山と奏人が心配そうに声を掛けてくれる。僕は「大丈夫」といって、深呼吸をした後、栗鼠山を見た。

「ぼ、僕と……波布さんが?」

「う、うん……付き合ってるのかなって」

 栗鼠山は上目遣いで、もう一度聞いて来る。くそ、その表情、可愛過ぎる!

 なんてことを考えている場合ではない。このままでは、誤解されてしまう。

 でも、焦って否定したら、逆に怪しく見える。僕は必死に脳みそを回転させ、冷静に、論理的に回答しようとした。

「ち、ちが、ちがが、違うよよ」

 無理だった。酒を飲んで帰ってくる父より、呂律が回っていない。

「……本当?」

 案の定、栗鼠山は疑いの目で僕を見ている。

「ほ、本当だよ!」

 僕は必死に否定する。

「でもさ、見た人がいるんだよ?」

 栗鼠山のその言葉に、思いっきり心臓が跳ね上がった。

「み、見たって……何を?」


「アマと波布さんが腕を組んで歩いている所」


(うげっ!)

 誰にも見られていないと思っていたのに、誰かに見られていたらしい。そして、恐るべき現代社会。そういう情報は、直ぐに広まってしまう。

「どうなの?アマ」

「あ、あの……」

 誤解を解こうと、僕が口を開こうとした時、背後から大きな声がした。


「雨牛君!」


 僕は勢いよく、振り返る。笑顔の波布さんが凄いスピードでこちらに走って来ていた。

「な、波……」

 僕は波布さんに止まる様に言おうとしたが、遅かった。波布さんは、そのままの勢いで僕に抱き付いてきた。そして……。


 チュッ。


 頬にキスしてきた。

「おはようございます!」

 波布さんは、とても嬉しそうに挨拶してきた。僕の頭の中は真っ白になる。

「はっ!」

 僕は、ゆっくり首を動かし、栗鼠山を見る。栗鼠山は僕達から二歩後ろに下がっていた。

「……やっぱり」

 栗鼠山はポツリと呟いた。僕の中でガラガラと何かが崩れる。

(か、奏人……!)

 僕は栗鼠山から、奏人に視線を向けた。

 奏人なら、分かってくれるかもしれない。そして、一緒に栗鼠山の誤解を解いてくれるかもしれない。そんな、藁をも掴む思いで、見た奏人は……。

「……」

 栗鼠山と全く同じ表情で固まっていた。


(……終わった)


 さらば、初恋。僕はガクリと項垂れた。

「雨牛君、どうかしましたか?」

 心の底から、僕を心配する波布さんの声が耳に入ったが、僕は答えることが出来なかった。


「少年、彼女がそうなのかい?」

 その声に、僕はガバッと顔を上げる。その人は、実に堂々と綺麗な足取りでやって来た。


 生物部部長、鰐淵先輩。


 先輩は、僕達の前でピタリと止まる。姿勢正しくピシリと立つその姿に僕は、思わず見惚れた。


「少年、君に付き纏っているという女の子はその子かい?」

 僕はコクリと頷いた。先輩は僕に抱き付いている波布さんに視線を送る。

「済まないが、少年から離れてくれないかい?えっと……」


「波布光と申します」


 波布さんは僕に抱き付いたまま、答える。先輩の目が少し大きくなった。

「その名前、聞いたことがある。そうか、君が波布さんか」

 波布さんは、学校でも有名人だ。きっと、先輩もどこかでその名前を聞いたことがあるのだろう。

「まさか、君が少年に付き纏っている女の子とね……驚いたよ。で、波布さん。もう一度言うよ。少年から離れてくれないか?」

 先輩は目をスッと細めた。まるで、獲物を狙う鰐の様に。


「何故、貴方にそんなことを言われなくてはならないのですか?」


 波布さんはぎゅっと腕に力を込めて、さらに強く抱き付いて来た。波布さんは、真っ直ぐ先輩を見つめ返えす。まるで獲物を狙う蛇の様に。


 大型の蛇は鰐を喰うことがあるが、逆に鰐が蛇を喰うこともある。蛇と鰐は、お互いが獲物であり、お互いが敵となるのだ。


「……」

「……」

 波布さんと鰐淵先輩は無言で睨み合う。そして、二人の間に挟まれた僕は、ただ震えているしかなかった。

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