第21話 激情

早朝5:30の町を歩く。

濃紺の空が徐々に白んできて、新しい一日の始まりを体で感じる。

風の冷たさもどことなく夜よりは柔らかい気がして、少し足取りも軽い。


朝目が覚めて、まだ眠っているダイを病室に残し、そのまま出てきた。

あの部屋で顔を合わせたとしても、何て言葉を掛ければいいのか分からず、また冷静に話をする自信もなかった。


要は、意気地なしなのだ。


ダイと会って今回のことを話すのは、もう少し自分自身を落ち着かせてからにしたかった。

たぶん、怖いんだ。

もしこのことで、ダイの真っ直ぐさが折られてしまっていたら。

起きたダイの目が、おじさんのことを初めて聞いた時のように、薄暗い色をしていたら。


そうだったら、きっと私の方が折れてしまうから。


今日はたまたま仕事が休みで本当によかったと思う。

いろんなことを考えて泣きながら寝たせいで、バッチリ目が腫れている。

こんな顔で仕事に行けば、菜々さんには問い詰められるだろうし、優衣ちゃんにはものすごく心配されてしまうだろうから。


一晩お世話になった簡易ベッドもなかなかに体に負担がかかったようで、腰や手足の関節が軋んでいる。

それでも、あのまま帰っていたらもっといらない思考に嵌まり込んで抜けられなかったような気がするから、ダイの横で眠れるよう許可を出し、準備してくれたことにものすごく感謝している。

ダイの傍に居ることこそが、私の心の平安になるのだから。


歩きながら肩を回す。

強ばった体を少しずつほぐしながら家へと向かう。

昨日あんなに全速力で走ったなんて、嘘みたいだ。

運ばれた病院も、幸いなことに歩いて帰れる範囲にあったため、電車やバスの目覚めを待つことなく歩いて帰ることを選んだ。


誰一人起きていないみたいに、町は静寂に包まれている。

こんな早朝に歩いている人なんて誰もいなくて、いっそ清々しいくらいだ。

生き物の気配を感じるのは、シャッターの降りた店の前や路地裏なんかを餌を探して歩き回るカラスの姿のみで、そのカラスさえ鳴き声を発さないから、ちょっと昔の無声映画を思わせる。


こんな静かな町の中、ぎこちなく歩く私は、この空間に馴染めているのだろうか。

ゴミを漁るカラスの目に映る私は、どんな過去もどんな重荷も背負っていない、普通の人間に見えるのだろうか。


自宅のアパートが近づいてくる。

ドタバタと飛び出してきた夜が、遠い昔のことのようだ。

ダイと会えて少し心が落ち着いたその翌日には、思いもかけない事件に巻き込まれ、もうまるでジェットコースターのようだ。

感情の揺れに着いていくことだけで必死で、現実感が伴っていない。


そして迎えた今日。

今日はどんな日になるのだろう。

波瀾万丈な方だった人生においても、昨日はなかなかヘビーな1日だった。

それでも、今日が昨日より良い日になるかなんて誰にも分からないから、私は今日を全力で受け止めるしかないのだ。

踏み出す足に、ほんの少し気合いを入れる。

小さな事でも、何かいいことがあればいい、そんなことを思いながら。



そんな私のささやかな願いを嘲笑うかのように、待ち受けていた現実は想像よりも残酷で。


自分のアパートの前に帰りついたとき、入り口に佇む人影。

それはあまりにもよく知っていて、あまりにも見たくない人物。


父だった。


「お帰り、京佳」

穏やかさを装った声のトーンは、かなり不穏なものを感じさせた。

「昨日連絡をしたんだが、全く電話に出る気配がなくてね。心配で見に来たよ」

「それは申し訳ありませんでした」

心にもない会話。

ただ性欲処理に困っただけだろう、と頭のどこかで思う。

「親の電話にも出ずに、どこで何をしていたのかな」

そんなことを言う父は、どこか愉快そうで。


ダイの現状を、この人はどこまで知っているのだろう。

さすがに、おじさんが暴れてダイに怪我を負わせたことまでは、まだつかみきれていないと思うのだが。


「心配する人の気も知らず、朝帰りとはいい御身分だな」

唇の端だけを上げる皮肉交じりの笑みを浮かべ、父は私を見てきた。

その目はただ欲望しか湛えていない。

その目は私ではなく私の裸体のみを見ている。


「あなたには関係ないでしょ?」

イヤラシい視線に身震いする。

この人の遺伝子を受け継いで生まれてきたはずの私を、この人は何を思って抱くのだろう。


「ふん、そんなこと言ってもいいのかな」

余裕そうな表情でにじり寄ってくる。

距離を測りかねているうちに目の前に父は居て、髪をガシッと掴まれていた。

「ほかの男と寝てきたのか、このあばずれめ」

何を言っているのか、意味が分からない。

私はこの人の女ではない。

愛されているわけではない。

なのになぜそんなことを言われなければならない?


「そんなこと言われる筋合いはないと思いますが」

何とか冷静に返す。

それでも父の攻撃は止まらない。

「お前は私だけに抱かれていればいいんだよ」

掴んだ手に力が込められ、かなり痛みを感じる。


あくまでもリードは父が取るものらしい。

なぜなら私は人質を取られているから。

自分の命より大事な、ダイという幸せになってほしい人がいるから。


それでも、なぜ?


ダイの幸せを思って抱かれてきたのに、そのダイは身も心も傷つけられて今病院のベッドの上だ。

ダイが幸せになれるから、と捧げたくもない1番憎い相手にこの身を捧げてきたのに、得られた結果はこんなに不幸なものじゃないか。


私が何をした?ダイが何をした?

私たちを不幸にするのはいつだって親だ。

腹立たしくも血が繋がっている父親が、私たちを切り刻む。

もう二人とも、身も心もボロボロだ。

止まることない血が足下に延々と流れていて、私たちはそれを止める術すら知らない。


それなのにこの目の前の男は、性懲りもなくまだ私を抱くというのか。

どこまで私を穢したら気が済むのか。


「…私に、近づかないで」

思ったよりも低い声が出て、我ながら驚く。それでももう止まらない。

思いが無意識に迸り出る。


「自分の娘を抱いて、楽しいですか?これまで娘だなんて、家族だなんて思ってなかったくせに。そうか、家族と思ってないから抱けるんだ。じゃないとおかしいもの。普通これだけこの世に存在していないように扱ってきたんだから、愛情なんてないでしょ?確かにあなたの好みのタイプだった母に、外見だけは似てたから。母が死んで、発散出来なかったんでしょ?ムダに性欲だけは強いから。私が体だけ明け渡せばそれで、あなたの性欲は満たされる。ねえ、そうでしょ」


今が朝だとか、アパートの前だとか、もう何も考えられなかった。

自分の中を走り抜ける激情が、自分でも制御できない。


「…抱かれれば、ダイは幸せになるって言ったじゃない。私さえ黙って大人しく性欲処理の道具に徹していたら、ダイは傷つく事なんてなかったはずじゃない!なんでこんなことになってるの?なんでまだ私たちのことを弄ぶのよ!!」


もうたくさんなのだ。

幸せを思って苦しい思いをして、結局不幸になる結末なんて。


「あなたの満足のために、私はもうこれ以上付き合うつもりはありません。この町から出て行って。私が初めて自分自身を生きられたここから出て行って。もう二度と顔を見せないでください」


初めてはっきり告げた絶縁宣言。

それを受け止めた父は、なぜかニヤリと笑った。


「よくわかっているじゃないか、京佳。おまえは本当にお母さんに似ているね。その

気の強いところもそっくりだ」

髪を掴んでいた手を離し、頬を撫でる。

その指使いが気持ち悪くてたまらない。

「それだけ分かっているのなら、話は早い。私は欲しいものは逃さない主義なんでね」

そういうと、父は私のみぞおちに一発。

急すぎて避けられず、まともに受けてしまった。

「さあ、お楽しみの時間だよ」

そんな声を聞きながら、私は意識を飛ばした。



目が覚めたら、私はなぜが自分の部屋のベッドに寝かされていた。

「やっと起きたのかい」

近くに聞こえた声に目を向けると、そこには裸の父がいて。

「京佳はお寝坊さんだなぁ」

そんなことを言いながら、私の体を撫でまわす。

いつの間にか、着ていた服は全て剥ぎ取られていたようだ。


気持ち悪くて吐き気がする。

やはり私は父に抱かれるしかないのか。

もう、それだけはイヤだ。

込み上げる嫌悪感に咄嗟に父を突き飛ばし部屋の隅のゴミ箱に齧り付く。

嘔吐いても吐き出されるのは胃液だけで、喉が灼けるように痛む。


「苦しむ顔も美しいね」

追いついてきた父に引きずられ、その場に押し倒された。

「こんなに痩せては魅力が半減だよ」

浮き出た肋骨に1本ずつ手を這わす。

気持ち悪さに目を逸らすと、グイッと顔を戻された。

「もっと食べないとね」

そういいつつ父は私の口に性器をあてがってきた。

噛みちぎってやりたかったけれど、歯が当たるたびに殴られまた突っ込まれる。

何度も何度も嘔吐きながら受け入れ続ける。

血と涙とでぐちゃぐちゃな顔を見て、父は満足そうに言うのだ。

「なんてイヤラシい娘だろう」

と、ニヤニヤしながら。


それからはもう、父のやりたい放題だった。

執拗な愛撫に嘔吐くたび殴られ、激しく抱かれた。

気を失えば叩き起こされ、意識を飛ばすことさえ許されなかった。


もう、このまま死んでしまいたい。


生きている限り父から逃れられないのだとしたら、私に生きている意味なんてない。

ひたすら死を願いつつ、それすら許されない状況に、ただ感情を殺すしかなくて。


日が暮れる頃になり、やっと満足したのか父は私から離れた。

「これで分かっただろう。お前が誰のものなのか」

そう言うと父は、虚ろな私に口移しで水を飲ませる。

もう抵抗することも、気持ち悪いと思うこともできない。感情が動かない。

「また来るよ」

最後に感情のない私を舐めるように見て、父は家から出て行った。


乱れた部屋も、汚れたベッドも、傷だらけの私も、何もかもがもうどうでもいい。

ただひたすら気持ち悪くて、もう動く気力すらない私はその場で吐き続けた。


寒い。虚しい。寒い。

震える体を、両手で抱きしめる。

視界が霞む。

このまま死ねるのかもしれない。


意識が朦朧としてきた頃、玄関のチャイムが鳴った。

無視していると、ガチャっとドアの開く音。

そういえば、鍵なんて掛けていなかったな、とかすかな意識の中思っていると。


「キョウちゃん?」


廊下からおずおずと呼びかける声。

なんで?なんでダイがここに?

こんな姿、見られてはいけないのに。

絶対に知られてはいけないのに。

それでも体を動かすことすらできなくて、取り繕えない。


足音が近づき、部屋のドアの開く音がする。

もう、終わりだ。

「…どういうこと?」

ダイの低い声をききながら、私は意識を失った。

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