第20話 怒り
なぜ私たちはこんな思いばかりするのだろう。
傷だらけのダイを見て思うのは、そんなことばかり。
穏やかな日々を望んだだけでなぜこんなに傷つく。
なぜいつも、普通にそこにあるはずの幸せさえ手にすることが出来ないんだろう。
幼い頃からダイと二人で探していた「幸せ」は、大金持ちになることでも大スターになることでもなく、当たり前の家庭で当たり前に過ごす、というごく些細なことだった。
クラスのほかの友達が皆普通に持っているもの。誰もがそれを幸せであるということにさえ気付くことなく、平凡に暮らしている。
そんなごく普通の幸せさえ、なぜ手に触れることさえ許されないのか。
私は自分が望むもの全てに対し、自分の手で掴むための努力をしてきたつもりだ。
ダイだってそう。掴みたいモノを掴むことを人任せにせず、自分に与えられなかったモノを人のせいにせず、ただ地道に毎日を過ごしてきた。
それなのに、待ち受けている現実はいつも私たちを裏切る。
もうちょっとで掴める、といった幻だけ見せつけて、指先が掠めた次の瞬間地に叩きつけられるのだ。
私たちはそんなにも、幸せを追い求めてはいけない人間なのだろうか。
ささやかな願いさえ、抱くことを許されないのだろうか。
いつでも私たちだけに与えられる無様な結論が、悔しくて溜まらない。
ダイが深く眠っているのをいいことに、私は声を殺して泣いた。
あれからほどなく到着した救急車で病院に運ばれたダイは、幸いなことに命に別状はなく、打撲はひどいものの骨折した箇所もなかったため、すぐに回復に向かうだろうと診断された。
ただ、精神的なダメージが大きく、消耗が激しいため、数日の入院が必要とのこと。
その診断にほっとしたのもつかの間、待ち受けていたのは現実だった。
ただの事故や不注意による怪我ではない。
明らかに人の手による負傷に、医師たちが黙っているはずもなく。
問いかけてくる医師達に私が出来ることは、知っていることをそのまま話すことだけだった。
いや、むしろ、きちんと話すことを望んでいたと言えるかもしれない。
私には、そんなに荒ぶったままのおじさんが行方知れずということがかなり大きな不安材料だったのだ。
聞かれるままに、知っている事実を述べる。
私がダイの家に駆けつけて、意識を取り戻したダイが語っていたこと。
おじさんが精神を病んでいて、外泊中だったこと。
上機嫌だったのが突然怒りはじめ、暴れ、ダイに暴力を振るい始めたこと。
散乱した荷物、荒れた家。
話を聞いた周囲の大人達が慌てた様子で動き出すのが分かった。
冷静に考えて危険だ。
これまでも見知らぬ人相手に暴れてきた事実。そのうえ今は、たった一人の肉親に対しても入院が必要となるほどの怪我を負わせる精神状態なのだ。下手すれば無差別殺人へと繋がりかねない事態と言えるだろう。
その様子をボーッと見ていたら、ダイの診察のときから傍にいた看護師さんが背中を優しく撫でてくれた。
「大変だったね」
「…でも、辛いのは、ダイだから…」
そうなのだ。今本当に辛いのはダイだ。
傷の痛み、心の痛み。
ありとあらゆる場所が痛むだろう。
「そうね、彼は本当に辛い思いをしたわ。でもね、あなただって辛かったのよ。大切なお友達がこんなことになって、それなのに冷静に救急車を呼んで、知らない人達に囲まれて受け答えもして」
そうなのかな。
私も辛いのかな。
「だから、疲れた、辛かったって、言っていいんだからね」
その言葉に、泣きそうになる。
そうか、私も辛かったんだ。
「…はい…確かに、疲れました…」
「うん、よく頑張ったね」
頭を撫でてくれるその手は温かくて、なんとなく菜々さんに似ていた。
「今日はもう遅いし、彼の横にベッド用意するから、そこで寝ていってね」
「ありがとう、ございます…」
どこまでも優しい温もりに甘えてしまいたくなる。
これまで与えられることのなかった暖かさ。
弱り始めた感情を隠すため俯いた拍子に、今まで堪えていた涙が一粒転がり落ちた。
そこから連絡を受けた警察が到着し、私は温もりどころではなく、またドタバタに巻き込まれた。
簡単な事情聴取を受け、手続きを済ませた頃には、もう動けないほどに疲れ切っていて。
ああ言ってはくれていたけれど家に帰ろう、なんて思っていたけれど、やっぱりもうそこまでの元気もなくなっていた。
足を引きずるようにダイの部屋へ。
気持ちを切り替えるため、途中にある自動販売機で暖かいコーヒーを買う。
夜の病棟の廊下ではその音すら大げさに響き、どうしようもなく孤独を感じた。
ああ、寂しいな。
もしも今、この地球上に私とダイだけが取り残されたとしても、こんなに孤独を感じることはないだろう。ただの想像だけれど。
それはたぶん、私とダイが同じ世界を共有しているからだ。
これまでずっと、お互いの心の穴を埋め合ってきたから、私たちは二人だけで世界を完結させることができる。
それでも、望まない誰かからの横槍は、人をこんなにも孤独にさせるのだ。
孤独はサミシイ。
孤独はイタイ。
孤独はムナシイ。
独りでなら生きていける。
心にダイがいる限り、この10年のように独り生きていける。
でも、ダメだ。
誰かが私たち二人を邪魔する。
普通の暮らしを望む私達をあざ笑い、力尽くでその願いを踏みにじっていく。
幸せになることができないのなら、せめて二人だけにさせて。
幸せになることを願うことさえ許されないのなら、せめて私たちの間に誰も入ってこないで。
私たちはもうこれ以上、何からも裏切られたくないのだ。
そっと病室の扉を開けた。
無機質な白い壁。そこに差し込む月明かりだけが、生命の存在を照らしている。
カーテンの奥で眠るダイは、柔らかな光に照らされて穏やかな表情を浮かべていた。
ベッドの横には、先程の看護師さんが言っていたように、付添人用の簡易ベッドが置かれている。
私はそこに、ありがたく座らせてもらうことにする。
少し古いそのベッドは、身じろぎするたびに軋んだ音を立てるけれど、何の音もしないこの部屋には、少しくらいの雑音がちょうどいい。
それに何より、今から帰ることを思うとまるで天国のようだ。
買ってきたコーヒーを開け、ゆっくり飲む。
暖かい液体が喉から胃に落ちて、その温もりに少しホッとする。
「…あぁ、終わった…」
本当に長かった今日が終わる。
実際問題、何も解決はしていない。
おじさんだって見つかっていないし、あからさまな病状の悪化に、どんな展開が待っているのかも分からない。
ダイの新たな闘いは、たぶんここから始まるんだろうけれど。
それでも今だけは、悪夢のような今日を終わらせられる喜びを感じていたい。
ダイを失う恐怖に震えていた自分自身を解放してあげたい。
包帯を巻かれ、点滴につながれたダイの左手をそっと握る。
わずかに感じる温もりが嬉しい。
月に照らされたダイの顔は、幾分青白く見えるけれど、まるで人形みたいにキレイだ。
「ダイ…」
よく頑張ったね。
その言葉がなぜか喉の奥でつかえた。
これまでもずっとずーっと頑張ってきたのに、さらに頑張らざるを得ないなんて。
言葉にならなかった「頑張ったね」を違う言葉に言い換える。
「…ありがとう」
生きててくれて。
私を呼んでくれて。
まだ腫れの引かない額の傷は十分痛々しいし、頬に残る青アザも生々しい暴力の痕を思わせる。
それでも、なんとか無事に生きている。
ダイを奪われなくてよかった。
訳の分からない衝動のせいで、ダイという存在が損なわれなくて本当によかった。
ボロボロ落ちてくる涙が邪魔で何度も袖口で拭うけれど、一向に止まる様子を見せない。
仕方なく、流れるに任せて放っておくことにした。個室しか開いていなかったことが、今はありがたかった。
飲み終えた缶を備え付けのゴミ箱に捨て、そっと体を横たえる。
次に目を開けたとき、地球上に私とダイだけになっていればいいな。
疲れ切った脳は、ぼんやりそんなことを思い始める。
もう、他人は見たくない。
私とダイ以外、誰も必要じゃない。
こんな切実なワガママでさえ、聞き入れられることはきっとないのだろう。
それでももう、あの孤独感を味わいたくはなくて。
自分たちだけがいつも満たされない、そんな不公平な世界があまりにも腹立たしくて。
堂々巡りになる思い。
悔しくて、哀しくて、愛しくて。
疲れと眠気に緩んだ脳は、そこで強制的に思考をストップさせた。
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