第19話 急変

気がつけば、部屋着のまま外を飛び出していた。

まだ風は冷たくて、上着のない体には少し堪える。

咄嗟に突っ掛けてきたスニーカーは紐もしっかり結べていない。

それでも、立ち止まることなんてできなくて。

ただひたすら、夜の町を駆けていた。


夜の町はキレイだ。

キラキラ輝く町灯りが尾を引いて、まるで流星のように視界を流れていく。

そんな灯りに導かれるよう道行く人達は、みんなそれぞれの家へ帰るところなのだろう。

暖かい部屋。帰りを待ち望む人。

そんな柔らかい景色が透けて見えるように、どこかのんびりとした時間が流れていて、爆走している私だけがこの町の異物のようだ。


それでも、いい。異物でいい。


結構な速度で走っているから、見える景色は揺れている。

どこかに焦点を絞ることは難しいけれど、それに引きずられて心がぶれることはない。

駆け抜けていく先にダイがいるのなら、私は決してこの足を止めることはないのだ。


こんなに走ったのは、いつぶりだろう。

自転車を出す手間すらかけたくなくてそのまま飛び出したから、とにかく全力で走る。

あまり食べていない疲弊した体に全力疾走は結構厳しいけれど、そんなこと言っていられない。

本能のまま、何かに導かれるまま走る。

ただ、ダイのもとへ。



ラインのメッセージは、紛れもなくダイからのSOS。

ひらがなばかりの「たすけて」は、あまりにも切羽詰まっていた。

「どこにいるの?今から行くから教えて」

既読にすらなかなかならず、気持ちばかりが焦る。

「…いえ」

こんな途切れがちなトークから、必死にダイの今の場所を導き出す。

住所すら聞いていなかったことに後悔もあるけれど、とにかく今だ。

最低限のものが入ったカバンだけを引っ付かんで外に飛び出したのだ。


ダイからのラインは、いつもダイ本来のおおらかさが滲み出るような、のどかなものだった。その内容も、送られてくるそのテンポも。

肝心なことから話題を逸らしていたせいもあるけれど、そんな吞気なラインが、ダイ本人の傍にいるときの感覚に似ていて、私は結構好きだったのだ。


でも、このラインは全く別物だ。

まるでダイではないみたい。

何の説明もなく「たすけて」なんて、普段のダイからは考えられない。

しかもその「たすけて」の一言でさえひらがなのままだ。

きっと、必死になって打ったのだろう。

そのあとになんとか情報を得ようと繰り返した、途切れ途切れのやり取りからでさえも、明確なダイの輪郭がまったく見えなかった。


ダイに、何があったのか。

何かがあったことだけは確実なのに、具体的な内容は浮かび上がってこない。

それでもそんな状態のダイに、何から助ければいいのかなど細かいことを聞けるわけもなく。


それでも、私は駆け出すことを選んだ。

だって、ダイからのSOSだったから。

たぶん、私にしかヘルプを出せないんだ。ダイは。

一人で耐えてきた10年を越えて、私に助けを求めてくれたんだ。

それならば、何も分からなくても駆けつける。

私にできるのは、ただそれだけだ。



ダイに指定されたのは、私の家から走って10分ほどの小さなアパートだった。

こんなに近くにいたことにまず驚く。

そして、指定された一階の一番端の部屋は

外から見ても、荒れていることが分かる。

ボロボロの障子、修理のあとが見える窓ガラス。

漏れ出ている部屋の灯りもどこか薄暗い。

それだけで、ダイの今が怖くなる。


ダイは、一体どんな環境でこれまで暮らして来たんだろう?


気持ちを落ち着けるために、ため息を一つ。

頭を巡りそうになる妄想を飲み込んで、現実に集中する。

これから私は、この荒れた家へ突入しなければならない。

でも、ここにはダイがいる。

助けを待つ、半身がいる。

行かなければ。


無防備なアパートの入り口から、部屋の玄関へ。

106号と書かれた扉をノックする。

「ダイ?来たよ」

声を掛けるも反応はない。

イヤな予感を押し留め、ドアノブに手をかけた。


ガチャ


鍵はかかっていなかったらしく、妙に重い音を立てながら開くドア。

「ダイ?」

そっと室内へ。

荷物が散乱していて、キレイ好きだったはずのダイの片鱗が全く見えない。

おばさんもマメに綺麗にするタイプだったから、荒れたダイの家というものを、私は今初めて見た。


なんとか足の踏み場を探しながら前へ進み、奥の部屋の戸を開けると、

「ダイっ!」

そこには、顔を腫らし、額から血を流したダイが倒れていた。


「しっかりして!」

肩を揺すりながら声を掛けるけれど、ダイは目を覚ます様子がない。

よく見れば、手足にも切り傷や打撲の痕がある。満身創痍の状態だ。

「ダイっ!起きて!」

なんとか意識を取り戻させようと声を掛けながら、ハンカチで額の血を拭う。

幸い、出血はそこまでではなかったようだ。


それでもまだ目を覚まさないダイに焦りを感じる。

もし脳にダメージを受けたりしていたら。

もし命に関わるようなことがあれば。

襲いかかるイヤなイメージを振り払うよう、持っていたカバンからスマホを取り出し救急車を呼ぶ。


落ち着け、落ち着け。

今現在ここでダイを助けられるのは私しかいないのだ。


やけに長く感じる時間に苛立ちながら救急車を待つ。

閉じられた目は、さっきまで何を見ていたのだろう。

私に助けを求めざるを得なかったほどの、何があったというのだろう。

冷えたダイの指に熱を分け与えるよう、掌で包む。

痛みもツラさも、全部分け合えられればいいのに。

私とダイは、二人で一つなのに、何もしてあげられなかった。

その事実が悔しくて、握った手に力を込めた。

お願いだから目を覚まして。


「…っん…」

ぐったり体を横たえたままだったダイが、身じろぎした。

「ダイっ!」

声に反応したように、ゆっくりダイの瞼が開かれる。

「ダイ、分かる?私のこと分かる?」

なんとかこちら側にダイをつなぎ止めるよう、必死に呼びかける。

「キョウ、ちゃん…?」

「そうだよ、京佳。ダイが呼んだから来たの」

「…あれ、僕、キョウちゃん呼んだんだ…」

あれは、無意識の「助けて」だったのだろうか。

無意識の中で、ダイは私を呼んでくれたのだろうか。


「ケガひどいから、救急車呼んだよ。だから、もう心配ないから」

そっと頭を撫でる。

痛みも恐怖も、すべてこの指先が溶かしてくれるように。

そんなささやかな願いを打ち砕くように、ダイは言葉を紡ぐ。

「…父さんは?」

「おじさん?おじさんは、入院してるんでしょ?」

何だかとてもイヤな予感がする。

「…昨日、外泊してきて…暴れた…」


ああ、やっぱりそうだったんだ。

ダイのこの怪我は、おじさんがやったものだ。

哀しそうに揺れる瞳は、怪我のツラさからだけではない。

おじさんが、ダイを襲ったのだ。

他でもないおじさんが。たった一人の肉親であるおじさんが。

それがダイにとってどれほどの衝撃だったか、想像もできない。


外泊して、退院に向けて進んでいるはずだったのに。

もうすぐまた一緒に暮らせる、とあんなに喜んでいたのに。

なんとも言えないやり切れなさが私を襲う。


「昨日、夜急に帰ってきて…いつもならちゃんと連絡、あるんだけど…」

仕事を休んだのは、外泊中のおじさんを一人にできなかったからなのだろう。

「なんか、様子違って…いつもより、すごく…上機嫌で…一緒にご飯食べたりしゃべったり…」

どこか様子の違うおじさんに心配しながらも、やっぱり一緒にいることが嬉しかったのだろう。

「…なのに、急にキレ出したんだ…」

怯えたように目を閉じる。


おじさんの急変は、いくら看病し慣れているダイでも怖かったに違いない。

「食器、全部投げて…椅子とか、机とか…何回も殴られて…蹴られて…」

思い出した恐怖からか、ダイの呼吸が早くなっていく。ただでさえ体力を奪われている状態なのに、過呼吸でも起こしたらダイの体にかなりのダメージを与えかねない。

背中を摩り、必死に宥める。

「いいよ、ダイ。何も話さなくていい」 

私はもう、ダイに辛い思いをさせたくないんだ。

「今は、何も考えなくていいから」


おじさんの行方とか、これからとか。

イヤと言うほど考えなければならないことは山積みで。

でも、何よりも今はダイ自身を労ってあげたい。体も、心も。


「痛いところ、ツラいところ、ない?」

呼吸が落ち着いてきたのを見計らって問いかける。

疲れた体を労るよう、ゆっくり頭から額を撫でて。

「うーん…なんか、よく分からない…」

全身に傷を負いすぎて、何が何だか分からないのかも知れない。

「…でも、なんか…怖くて、悔しくて…途中から何も分からなくなって…」

訥々と、言葉を零していく。

様々な感情が、ダイの中を駆け巡っていたことだけは分かる。

その切なさ、悔しさ。


「それでも…目が覚めたら、キョウちゃんがいた…いてくれた」

ダイの目が潤み出す。

これまで、必死に耐えてきたのだろう涙が、溢れんばかりに瞳に溜まっている。

「来るよ…どこでも。ダイが呼んでくれるなら」

ダイのお願いを、いつだって叶えられる私でいたいんだ。

「…ん…ありが、と…」


傷を負い、熱を持つ体は、まだ休息を求めていたのだろう。

だんだん微睡んでいくダイが、せめて夢の中でだけは幸せな一人の男の子であるように。

遠くから響いてくる救急車のサイレンを聞きながら、撫で続けている右手に祈りを込めた。





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