第18話 季節

昔から、気が付けばベランダや公園など、屋外で過ごすことが多かった。

それにはもちろん、家の中に居たくなかったとか、ベランダでダイと過ごしていたとか、それなりに理由はある。

それでもたぶん、私は、単純に外が好きだったんだと思う。


春の匂い、夏の光、秋の風、冬の痛み。


肌で四季を感じて、それぞれの景色をこの目に焼き付ける。

呼吸のようにその行為を繰り返し、私は私であることを自然と知っていったのだ。


外の世界では、ほんの少しずつ季節が進んでいく。

少しだけ、日が長くなった。

少しだけ、風が優しくなった。

その歩みはとてもおだやかで、こんなに生きることに不器用な私たち二人を置き去りにするようなことは決してなくて。

だから、ただひたすらぼーっと外で過ごすだけで、一緒に歩いていけるような気がしたのだ。


流れる季節と、そしてダイと。


この、世間の流れから取り残されがちな私たちも、季節からは見捨てられることなどなくて。

その事実に、いろいろな季節のいろいろな夕陽を見ながら、ひどく安心したことを覚えている。


そんな日々を送っていたからか、私にはいまだに、外で自分を確かめる癖があった。


きちんと歩けているのか。

きちんと笑えているのか。

今の自分が、きちんと生きていると言えるのか。


そんな曖昧な疑問を自身に投げかける。

これは別に宗教やらまじないやらでなく、ただの問いかけなので、もちろんOKな日もダメな日もある。

それでも、ダメならダメと自分に嘘をつくことなく答えを導きだすことがなんとなく心地よくて、自分を落ち着かせたい時の儀式のようになってしまっていたのだ。


その習慣は、ダイと別れ、実家を飛び出し、一人で生きていく日々の中で、次第に確固たるものとなっていった。

良かった日、悪かった日。ベランダで、家へ帰る途中の道で、公園で。

問いかけ、答え、自分を知る。

ああ今、私は私として生きている、と。


そして何より、外の景色が日々移り変わるのを見ることが、私はとても好きだったのだ。



そんなことさえ忘れてしまっていたのは、このあまりにも目まぐるしい日々のせいなのか。


いろいろあった冬から春にかけての日々。

季節はすっかり春も半ばに入っていたようだ。

毎日毎日ドタバタと、心を荒海に乗り出した船のように揺さぶられながら過ごしていた日々。

外の景色をきちんと視界に入れたのは、随分久しぶりのような気がする。


気が付けば、毎日の通勤にコートがいらなくなっていた。

アンダンテに着くまでに汗ばんでいることも増えてきた。

全て、いつの間にか見落としていた日々の変化だ。


こんなに季節を感じなかったことなんてこれまで一度もなかった。

外の世界で自分を問いかけることも、ここ数ヵ月行っていなかった様な気がする。


どれだけ切羽詰まっていたんだろう。

思いがけないことの連続に、身も体もすり減らして。

五感のすべてが鈍くなっていたことに、今更ながら気づく。


そして、それを気づかせてくれたのは、やはりダイなのだ。


実際のところ、父に抱かれる状況は何一つ変わってはいない。

ダイを人質に取られているような、そんな不安定な気持ちも一切変わっていない。

それでも、ダイと会ったそれだけが、私の景色に色をつける。

ダイの心に私がいると知っただけで、季節の変化が私の目に、体に、飛び込んでくるのだ。


どうしたって私は、ダイによって生かされている。


一緒にご飯を食べた、ただそれだけのこと。

それなのに、世界が変わったように感じるのはなぜだろう。

踏み込まれたくない場所に踏み込んでくる一歩手前で留まって、それでもゆるゆると私を甘やかす。

そんな存在が、私にもとっくの昔からいたんだ。


そこに改めて気づいてしまったから、もう私は死ねないし、辛いけれど辛くない。

いつだってダイは私の生きる意味なのだ。


半袖のタートルネックのカットソーに薄いカーディガンを羽織り、自転車に乗る。

眩しい光に目を細め、周囲の景色に集中する。


よくよく見れば、道端の雑草の中は名も知らぬ花で溢れているし、ひなたぼっこの野良猫も増えた。

頬に受ける風はもう随分と柔らかくて、ほんのり春の匂いがする。

そんな自然の中にあり、私は私に問いかける。


 きちんと歩けているのか-今ならなんとか一歩ずつ歩けるかもしれません。

 きちんと笑えているのか-やっと、少し笑えるようになりました。

 今の自分が、きちんと生きていると言えるのか-ボロボロだけれど、とにかく生きています。


自分に正直に答えを出す。

身の回りに、何があってもなくても、季節は相も変わらず緩やかに進んでいく。

のんびりと春の光を受けながら、生命は命のコマを進めていく。

ただそれだけのことだ。

そして私は、ただそれだけのことに今もやっぱり救われている。


「おはようございます」

アンダンテのドアを開ける。

いつもより、ほんの少し軽い気がして、自分の単純さがちょっと恥ずかしい。


「おはよ、キョウちゃん」

目を細める菜々さんは、いつも通り優しい。

「キョウちゃん、なんか、ちょっと晴れ晴れした顔してる」

そして、やっぱり全てお見通しのようだ。


「なんとか、少し吹っ切れました」

別に何も変わってはいないけれど、この心の持ちようが変わったことだけは伝えたかった。

「そか。ならよかった」

やはり多くを語らず、それでいてそばにいて安心できるのは、菜々さんだからこそだ。


「岩田さん、おはようございます!」

ドアの音と共に響く明るい優衣ちゃんの声。

「おはよ、優衣ちゃん」

「こらー、菜々さんへの挨拶はどーした?」

「もちろんしますって!おはようございます、菜々さん」

「はい、おはよ」


こんな日常のやりとりさえ暖かい。

できる限り、このやさしさに浸っていたい。

だから私は、私のやるべきことをただやるのみだ。


「ところで、今日は観葉植物の日だね」

何らかの意味を含ませてか、菜々さんが半笑い気味にこちらを見る。

「あ、岩田さんの幼馴染みくん、来るんですか?」

優衣ちゃんの純粋な質問さえ、ちょっと気恥ずかしくて。

「分からないですけど、来るんじゃないですか?」

なんて素っ気なく答えてしまう。


「彼、なんか純朴そうね」

「誠実そうな方ですね」

二人から聞くダイ評も、なんだか恥ずかしい。

二人の言う通り、純朴で誠実で、何より強い男の子なんだ、ダイは。

「もう、ダイの話はいいですって」

「あ、ダイさんって言うんですね!」

ついうっかり名前を出してしまった。


「さ、キョウちゃんのダイくんに恥ずかしいところ見せられないから、ちゃっちゃと仕込みやっちゃいましょー」

「はーい」

優衣ちゃんはうれしそうに答えているけれど、こんなにダイの話をされて、いつも通りに動けるわけなんてなくて。


「何?キョウちゃん照れてる?」

「そんなんじゃないです!」

「かーわいいねぇ、名前出しただけで照れちゃって」

ほんと、菜々さんは私をなんだと思っているのか。

「だから、ただの幼馴染みなんですよ」

「ただの、ね」

全部知っているからこそたちが悪い。


もちろん、ダイとの関係は、ただの幼馴染みなんて軽いものではないから。

自分の命の半分を分け与えた、半身。

ダイと私とで出来上がる一つの命。

それでも。

「そうです、ただの、大事な幼馴染みなんです」

この命に変えても守りたいほどの。


「ちわー、大野植物ですー」

下らない話をしながら仕込みをしていたら、話題の植物屋さんがついたようだ。

「よろしくお願いします!」

振り返った先に、ダイはいなかった。


「あれ?見習いさんは?」

優衣ちゃんが不思議そうに尋ねる。

「ああ、ちょっと家庭の事情でしばらく休むそうで」


家庭の事情?


イヤな予感が駆け巡る。

家庭の事情だなんて、おじさんのことしか考えられない。

昨日はあんなに良くなっている、って言っていたのに。


「それは大変ですね」

「まあ、真面目なやつなんで、戻ってきたらたくさん働いてもらいますよ」

お兄さんが優しさを滲ませた様子でそう言うから、少し安心した。


ダイの居場所も、ちゃんとここにある。


それでも、その日はなんとなく訳のわからない不安が付きまとっていた。

くだらない理由で仕事を投げ出すような子ではないことは、私が一番分かっているから。


おじさんの様態が急変したのだろうか。

ダイは、大丈夫なのだろうか。


仕事の手が止まったら、思うのはそのことばかり。

昨日、嬉しそうにおじさんのことや仕事のことを話していたダイを思い出しては、大丈夫だと言い聞かせてみたり。


怖いけれど、知りたい。

ダイに何があったのか、知りたい。


そんなこんなで、なんとか一日の仕事を終えた。

やっと心が落ち着いて、安心してもらったところだ。これ以上菜々さんに心配を掛けないよう、平静を装いながらこなす仕事はいつもより少し疲れて。


軽く痛む腰を伸ばし、家のベッドに座る。

春と言っても夜はやっぱり冷えるから、ブランケットを肩からかぶる。


何をどう考えても、答えは分からない。

それなら、真実をまず知るしかない。

とりあえず、ラインを送ってみよう。

そう決心して、スマホを取ろうとしたときだった。


ピコン


間抜けに響くラインの音。

いつもは大して気にならないそれが、妙に耳につく。

すごいタイミングだな、と思いつつ、悪い予感を打ち消す。


ふっ、とひとつ息を吐き、スマホに手を伸ばす。

さっき自分から動こうと決意したはずなのに、いざとなると動くのが怖い。

ラインを見る、これだけのことに気合いが必要な自分に少し呆れるけれど、どうしても思ってしまう。


ラインの相手がダイなら。ダイに何かあったのなら。


それでも、訪れる現実は迎え撃つしかないことは、身に染みて分かっている。


ある種の覚悟を決めてスマホケースを開けた私の目に飛び込んできたのは、ダイのアイコン。

そして、

「たすけて」

の4文字だった。





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