第17話 ゆらぎ

「岩田さん、なんか痩せました?」

昼休みのロッカーで、優衣ちゃんに聞かれた。

「そうでもないよ。ちょっと課題が多くて疲れてはいるけど」

笑ってそう流す。

我ながら、嘘がうまくなったものだと思う。


父には週1で抱かれている。

最初は薬を使って眠らされていたけれど、今となってはそういう小細工は何もない。

ただ淡々と抱かれる。

ただ淡々と、抱かれる自分を見ている。


快楽に耐えかねて漏れでる声で、父は母を呼ぶ。

私はただの入れ物。

見た目だけ母に似た、ただの性器でしかない。

別に愛されたいわけではない。

それでも、ヒトガタになりたいわけでもない。

私は単に、人質と化したダイを守りたいだけだ。

ただひとつ、この人生に与えられた愛すべき存在を、この体で守りたい。ただそれだけ。


それでも、どんなに割りきったつもりでも、心は悲鳴をあげているようで。

何よりごはんが食べられなくなった。

みんながいる仕事の合間の賄いは普通に食べられるけれど、一人だとどうにも食が進まない。

この汚い口で食べ物を食べていいのだろうか。

この汚い存在を守るために栄養を摂取していいのだろうか。

そんなことを思うからか、無理矢理食べても戻してしまう。

「せめてこれでもすすってなよ」

お見通しの菜々さんに手渡されるゼリー飲料が今の主な主食だった。


そんなことが続いたある日のこと。

久しぶりにダイから届いたライン。

「久しぶりに、ごはんでも行かない?」

壁越しに話して以来、ダイからの初めてのコンタクトだった。


会いたい。それはもちろん。

こんな汚い私を、とか考えていた時はもう過ぎていた。

私が本格的に壊れてしまう前に、できる限り会っておきたい。


それでも、やっぱり迷ってしまうのは、私が変わってしまったからだ。

昔から、なぜかダイは私の変化に気づく。

風邪を引いたとか、食欲がないとか、捻挫したとか。

そういうところだけ案外鋭いダイのことだ。

痩せたこととか父にいろいろされていることとか、私は隠し通せるのだろうか。

なんといってもダイは父にとって格好の人質で、そのことを、ダイ本人にだけは知られてはならないのだ。


それなのに、「じゃあ明日、店の前来てくれる?」なんて返してしまうのは、私の弱さだと思う。

会いたい気持ちに嘘はつけない。

この10年という年月の渇きが、どうしたって私を動かしてしまうのだ。


明日は二人でおいしいごはんが食べられますように。

明日だけは、安らかな気持ちでダイと過ごせますように。

それだけが、今の私のささやかな願いだった。


「キョウちゃん、お疲れさま」

翌日待ち合わせたダイは、いつも通り穏やかな顔で笑っていた。

「お疲れさま、ダイ」

今日はあのカフェで、パスタでも食べようか、ということになっていた。

件の料理屋では、少々歩が悪すぎた。

店主も奥さんも、変わってしまった私に気づくかもしれない数少ない人たちの内の二人だ。


「それじゃ、何となく、乾杯」

なんともしまらない掛け声で、軽くグラスを合わせる。

といっても、アイスコーヒーとアイスレモンティーじゃ、それこそなんだかしまらないけれど。


「なんか、久しぶり?かもしれないね」

「うん。そうかも」

ああ、この感じ。

ダイといる、この感じ。

このために、生きていた時が確かにあった。

今、こんなに変わってしまった私でも、懐かしく思う。

ダイの隣のぬくもり。

なくしたくなかったなあ、しみじみ思う。


「キョウちゃん、絶対明太子クリームにすると思ってた」

穏やかにダイは言う。

あの頃から変わらず私が好きなもの、明太子とクリームソース。

「ダイだってシーフードグラタンでしょ」

あの頃から変わらずダイが好きなもの。シーフードと焼いたチーズ。

言い当てあって、何となく恥ずかしくて笑う。


ここにはこんなに変わらないものがあるのに、いまの私にはあまりにも遠い。

それでもせめて今だけは、変わらない私たちでいたい。


「最近どうなの?バイト、忙しい?」

優しく問いかけてくるダイに、私はまた嘘をつく。

「仕事は相変わらずだよ。忙しいけど、あのカフェも料理も好きだから頑張れる」

なんていう嘘偽りもない思いと。

「学校のレポートが大変なくらい。結構課題多くて」

なんていう心にもない思いと。


嘘をつくごとに自分自身が嘘にまみれていく気がする。

そして、その嘘に慣れてきている自分がほとほとイヤになる。


「頑張ってるんだねー、キョウちゃん」

そんなに優しい目で見ないでほしい。

なんとか保っている気持ちが崩れてしまいそう。

「あ、プチトマト。はい、あげる」

苦しくなって、ごまかして。

うれしそうにプチトマトを頬張るダイを見て、やっぱりこの笑顔を守ることを決意する。


そして。

「おじさん、最近どう?」

さりげなく、何気なく。

改まりすぎないように一番気になっていることに触れた。

「最近、調子いいんだ」

穏やかに笑う。


「なんでも、主治医の先生の研究につながる事例だからって、いい部屋に入れてもらって金額も免除してもらって、なんか悪いみたい」

ああ、ここに父の影が見える。

私を引き留めるためにダイを引き合いに出した父。

きっと自分の影響力を使って、ダイの主治医に働きかけたのだろう。


「よかったね、いい環境で療養できて」

これは本心だ。

私はそのためになけなしの体を投げ出しているのだから。

ダイを守れている、そのことが分かってほんの少しホッとした。


「そのおかげか、もうすぐ退院できるんだよ」

「すごい!嬉しいね」

家族を本当に大切にしていたダイだから、おじさんの好調と退院は心底嬉しいことだろう。

「うん、今回こそはもう、退院も無理かと思ってたから。嬉しい」

その言葉に、ダイが思っていたよりも追い詰められていたことを知る。

やっぱり一人で溜め込んでいたんだな。

ダイはそういう子だから。


「仕事は?いつも観葉植物ありがとね」

「ううん、こちらこそありがとう。緑に触れていられるから楽しいよ」

今のダイが満たされていることを実感する。

それが父の力であろうとなかろうと、ダイが幸せならそれでいい。


「それで、そろそろ正社員に、て言われてる」

「すごい!いいお話だね」

「うん、ありがたい。好きな植物の仕事させてもらえるなんて、夢みたい」

おっとり笑うダイは、幼い頃のように純粋な目をしていた。

ダイがなくさなかったもの。

私がなくしたもの。

あの頃は平等に、二人の前にあったのに。


「ねえ、キョウちゃん」

何となくぼーっとしていた私を、改まった口調で呼びかける。

「何?」

明太子クリームのパスタをくるくるフォークに巻き付けながら、次の言葉を待つ。

気安く話していた空気が少し硬質なものに変わり、こっそり緊張する。

「無理しないで」

あまりにも真剣な口調に、咄嗟に顔を上げてしまう。

目の前のダイは、視線を逸らすことなくこちらを見ていた。

「そんなに痩せて。どうしたの?お父さんと何があった?」


会ったときがあまりにもいつも通りだったから、油断していた。

やはり、ダイにはお見通しだったらしい。

変わってしまった私。


「あの日、泣いてるキョウちゃんに何もできなくて。せめてそばにいたかった」

ぽつりぽつりと言葉を零す。

「キョウちゃんが痛いと僕も痛いんだ。なぜかもどこかも分からないけど、心が。何とかしてあげたい。でも、何があったかなんて、聞いても絶対言ってくれないんでしょ?」

哀しげにそんなことを言う。


やっぱりダイはダイだ。

踏み込みたいのに、踏み込ませたくない私を第一に考えてくれる優しさ。


「ごめん…」

なぜか謝ってしまう。

ごめんね、その優しさに答えられなくて。

だって私は、ダイのその優しさこそ守りたいんだ。

「謝らなくていいよ。キョウちゃんは何も悪くない」

傷だらけの私を包み込むようにそんなことを言う。

そんなに優しくされる資格なんてないのに。

汚い体で、心なんてもうなくしてて。

それなのに、目の前の男の子は私にこんなに優しい。


「もしも、言える時が来たら」

私の目を真剣に見つめるダイ。

ああ、ダイは強くなったな、なんて人ごとのように思う。

「そのときは僕に聞かせて。僕はいつでも、キョウちゃんを待ってるんだから」

「…ん」


なんでそんな泣かせるようなこと言うんだろう。

こぼれ落ちる涙を見ないふりして、私たちは冷めかけのパスタを必死に口に放り込む。


たぶん、言える日なんて一生来ない。

それでも、そう言ってもらえるだけで、心の奥底で助けを待っているちっぽけな私は救われるんだ。


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