第16話 闘い
あれから1週間が経った。
あの日、壁越しにダイと話してから、なんとなく気持ちが落ち着いてきた気がする。
日々同じような仕事をこなし、勉強して眠る。その繰り返し。
でも、その繰り返しがひどくいとおしい。
周囲にはアンダンテの仲間たち、そしてダイ。
その存在だけで、私はなんとか生き延びていられるのだ。
そして、仕事。
「いらっしゃいませ」
あの事件の翌日よりは、作り物ではない明るさで言えるようになってきた。
やはり私にとって働くということは、生きることとイコールで結ばれているらしい。
今日は早番からの勤務で、オープンからは厨房を担当する。
ホールでの接客も嫌いではないけれど、どうやら料理を作ることのほうが性に合っているようだ。
この店の定番であるパスタと、いくつかの焼菓子。
定番であるからこそ、手を抜くことなく毎回丁寧に調理の行程をなぞっていく。
卵を溶く、泡立て器で混ぜる、フライパンで焼く。
そういった行為のどれもが今の私には尊い。
「キョウちゃーん、3番テーブルのパスタ、早めでお願ーい」
「はーい!」
今日も菜々さんは気だるげに、それでも的確に仕事をこなす。
まだ何も話せてはいないけれど、そこに菜々さんがいるだけで、私は私のことを許せるような気がするのだ。
手早くソースを仕上げ、グラタンにチーズを振り掛ける。
よし、香りだけでなく見た目にもおいしそうだ。
「3番上がりました!」
「さんきゅっ」
流れるような動きでパスタとグラタンが運ばれていく。
ランチのオーダーは、これで最後だったはず。
あとはすでに焼き上げられたマドレーヌに果物を添えて、ドリンクを用意すればひとまず今日の厨房業務のピークは終了だ。
「洗い物入りますね」
一言声をかけ、流しへ向かう。
調理という作業が終わったとしても、後片付けも大切な仕事だ。
一つ一つ丁寧に、それでも素早く洗い上げていく。
洗い物もまた、私の好きな料理の過程の一つだ。
汚れを落とすただそのためだけ、と目的がはっきりしているのがいい。
それに、汚れたはずのモノがこの行程を終えるときにはピカピカになっている、その達成感。それがなんとも心地いいのだ。
そんなことを考えつつ、洗剤の泡を水で流しながらついぼんやりしてしまうのは、まだ心が本調子ではないということだろうか。
この泡のように私の汚れも流してしまえたら。
こんな穢れた体を何事もなかったように、ピカピカに磨き上げることができたら。
流れていく泡を見ながら不意に落ちてきたひとしずくに気づかれないよう、手は止めずにただ単調な作業に身を任せる。
「キョウちゃん、お疲れっ」
ポンと肩を叩かれはっとする。
声の主は菜々さんで、私が何かしら良くない思考にはまりかけているのを見抜いたのだろう。叩く力とは裏腹に声は随分やさしい。
「お疲れさまです」
「クリームソース、ちょっと余っちゃったね。今日の賄いはそれでいこうか」
さりげなく私の好物を賄いに持ってきてくれるあたり、ほんと菜々さんは菜々さんだ。
「とびきりおいしいの、お願いします」
「ったりまえ!」
明るい口調で言えば、すぐ乗っかってくれた。
空元気でも、続けていくうちに本当の元気になればそれでいい。
一瞬ぶれてしまった感情も、なんとか仕事も一区切りし、おいしい賄いを食べ終わった頃には落ち着いた。
美味しいモノを食べる、ということは偉大だと思う。
それだけで、いろんなイヤなものが吹き飛んでしまうのだから。
ティータイムを回しながら、さあ夜の仕込みに入るか、と動き出したときだった。
「いらっしゃいませ…あ、どうも」
挨拶をしている声が聞こえて、優衣ちゃんの知り合いでも来たのかな、なんて考えた私は、なかなかお気楽なヤツだと思う。
あんなに父の脅威を身に染みて感じた直後だというのに。
「岩田さーん、お父様いらしてますよ」
その一言は、私を穏やかな時の流れから激流へと突き落とす。
明るい優衣ちゃんの声が痛い。
せっかく持ち直した気持ちや生きたい思い、そういうものたちが全てこの掌から滑り落ちていく。
「いや、忙しいときに申し訳ない。17時に前で待っていると伝えておいていただけませんか」
落ち着き払ったような父の声が聞こえる。
それは死刑にも似た宣告だ。
私の命は17時まで。17時にきっと私は、父に抱かれる。
「はい。伝えておきますね」
父に応える優衣ちゃんの声。
ああ、やっぱり世界は私たちに冷淡だ。
こんな柔らかなぬくもりから、極寒の地へと向かわなければならないのだ。
「キョウちゃん、大丈夫?」
一部始終を聞いていた菜々さんが、そっと肩を抱いてくれる。
「…行きたくない」
あまりにも菜々さんの手がやさしくて、ついこぼれた本音。
行きたくない。あんな人に近づきたくない。気持ち悪い。
それでも、行かなければならない。
父は、軟らかく見えて強靭にしなる鞭のように私を縛る。
「逃げる?」
真剣な瞳で菜々さんは言う。
たぶん、ここで頷けば、菜々さんはどんなことをしてでも私を逃がしてくれるだろう。
それは本当に魅力的な提案だ。逃げられれば、どれだけいいだろう。
けれど、その言葉に頷くことはできないのだ。
今ここから逃げれば確実に、この店に、そして菜々さんに、何かしら不利益になる事態が発生するだろうから。
「ううん」
力なく首を横に降る。
「…ここを知られてる限り、逃げられないから」
抱き締める力が強くなる。
「ごめんね、助けてあげられなくて」
そんな哀しい顔しないで。
菜々さんがいてくれるだけで、私はここに帰ってきてもいいんだって思えるんだから。
「キョウちゃん」
「はい…」
「何があったかは分からないけれど、アンダンテのことより自分のことだよ。自分のこと、もっと大事にして」
「菜々さん…」
「守ってくれるのは本当にうれしい。でも、私はキョウちゃんのことも守りたい。だから」
菜々さんは、私の目をしっかり見据えた。
「闘え」
闘えるだろうか。私に。
抗ってみてもいいのだろうか。この運命に。
きゅっと菜々さんの背中に手を回す。
「…待ってて、くれますか?」
こんな汚い私を。闘えるかどうかも分からない、この弱い私を。
「当たり前!だから、帰ってくるんだよ」
ああどうか、笑って帰ってこれますように。
そこから17時の終業まで、私はただ一心に働いた。
これが最後かもしれないという危機感は、私の手を抜かせてくれなかったのだ。
だって、私の愛した場所を守りたいから。
しっかり勤めあげて、この場所に必要とされたいから。
せめて17時の地獄の始まりまで、アンダンテのメンバーの岩田京佳でいたかったのだ。
「はい、早番お疲れさま~」
気の抜けたような菜々さんの掛け声で、私の魔法は終わりを告げる。
行かなければ。
「キョウちゃん!」
菜々さんの声に振り返る。
「…待ってる」
ただ一言。
それは、何より力強い言葉で。
「はい」
しっかり頷いて、両手を握りしめた。
店の扉を開けたすぐ近くに父は立っていた。
「お待たせしました」
極力感情は殺して。
「行こうか」
スマートに父は私を車へと誘う。
背筋を伸ばして。闘う意志を瞳に込めて。
私は助手席に乗り込んだ。
「このまえは、気がついたらいなくなっていたので驚いたよ」
なんてことない調子でそんなことを言う。
薬を使って犯した娘への態度とは到底思えないけれど、これが父という人間だ。
「それはすみませんでした」
心にもない台詞。感情は、簡単に殺すことができる。
「まあいいさ。あそこはおまえの家なんだ。もうあの狭いアパートに帰る必要はないということを、徐々に分かっていけばいい」
背筋がゾクッとする。やはり父は私を逃すつもりはないようだ。
「お父さん」
この言葉を発するのは何年ぶりだろう。
震えそうになる声っで必死に言葉を紡ぐ。
「私はもう実家には帰りません。私の居場所はもう、あのアパートであの店なんです」
散々存在を否定してきたくせに。
私に関心なんてなかったくせに。
様々な言いたいことが頭を渦巻くけれど、何より伝えたいことはひとつ。
「もう抱かれる気はありません。私をあなたの性欲処理に使わないでください」
私は今、闘えているのだろうか。
「おまえの言いたいことは分かったよ」
静かなトーンが逆に気持ち悪い。
そっと伺い見た表情も一切変化はなく、父が何を考えているのか全く分からない。
「ところで京佳、隣の家の佐倉大也くんを覚えてるかい?」
突然出されたダイの名前。
怖い。何で今ここで?
「彼の父親は、今大変な状況に置かれているらしいね」
私も最近知った事実。
それを父は難なく口にした。
やはり、父親は私の周囲を徹底的に調べ上げているようだ。
「被害者への補償もあるだろし、入院費もバカにならないだろう。彼自身、父親に振り回されて就職もままならないようじゃないか」
父の目が怪しく光る。
「彼のことを、助けてやりたいんじゃないのかい?」
この一言で、私の精一杯の抵抗は終わりを告げた。
私は私自身の幸せを掴むために運命に抗ってきた。
家を飛び出し、一人働いて。
でも今、この瞬間。私は知ってしまったのだ。
私の一番の幸せは、ダイの幸せであることを。
不本意に抱かれようと、自身の尊厳をひどく傷つけられようと、どうしたって、ダイの幸せを願ってしまうのだ。
車内は重い沈黙に満ちていた。
そして間違いなく、私は私の意志で地獄への扉に手を掛けたのだった。
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