第15話 可能性

物心ついたときから「家族」を諦めていた。

ツラいときに助けてくれたり、頭を撫でてくれたり、胸の中で涙を流したり、そんな存在。

私には、はなからないものだと諦めていた。


それでもたまに。

どうしてもたまに、恋しくなってしまうことがある。


きっかけなんてない。

なんとなく夕焼けがキレイに感じたときとか、風に揺れる木の葉がはかなく散るのを見たときとか、それは不意に訪れるのだ。

「寂しい…」


この景色を共に見る人がいない。

キレイだね、って。哀しいね、って。

そう言い合う相手がいない。


どうして誰も抱きしめてくれないの?

どうして誰も私を見てくれないの?

どうして誰も零れる涙を拭ってくれないの?


そんなときは声を殺して泣いて。

これは自分の弱さだと言い聞かせて、哀しみの波が去るまで部屋の隅で膝を抱えて。

これまで、何度かそんな夜を過ごしてきた。


そして、何度目かの夜。

涙でぐずぐずになった私の耳に、かすかなノックの音が聞こえてきた。

「…キョウちゃん?」

自信なさそうに問いかける声は、まさしくダイのものだった。

「ダイ…なんで?」

ここにいるの?と聞く前に、ダイがこちらに話し掛けてきた。

「なんか、キョウちゃんが泣いてる気がして」


驚きで声も出ない私に、ダイは笑み混じりの声で言った。

「ねぇ、僕の気が済むまで、ここにいていい?」

ダイは決して、私が寂しいだろうから、とかキョウちゃんのために、とか言わなかった。

あくまで「僕のために」というスタンスを崩すことなく、私の涙が止まるまでそばにいてくれて。


気がすむまで沈黙を貫いたあとで、

「今日の給食の春雨サラダ、まずかったね」

とか、

「初めて角の家の犬に吠えられなかったよ」

とか、ほんとにどうでもいい話をして。

いつの間にか止まった涙は、なぜか暖かいものとして私の胸を温めてくれた。

家族がいなくて寂しくて泣いていたのに、涙が止まった頃にはそれよりももっと大切な何かがそばにあるような気がしていた。




「今日バイトで運んだ観葉植物、すごく大きくて」

ダイが扉の向こうでどうでもいい話をしている。

「先輩、すごいんだよ。ふらつくこともなく持ち上げて、こっちが何十秒もかけてやっと持ち上げられるかどうか、て時に横からササって持っていっちゃって」

もたもたしているダイを見ていられなくて手を出してしまった先輩さんの気持ちが、私にはよく分かる。

「僕も筋トレとかした方がいいのかな…」

あまりにもダイと筋肉が似合わなすぎて、ちょっと笑える。

「あ、キョウちゃん、今笑ったでしょ」

すねたような声。

懐かしい。あの頃は毎日のように聞いていたその声。

あの頃より幾分か低くはなったけれど、それ以外は全く変わらない。


「ねえキョウちゃん」

不意に改まった調子で呼び掛けられた。

「もう一人で泣かないで」

胸が詰まる。

一人で泣くも何も、もう私はこの命を捨ててしまおうとしていたのに。

「もう、一人にならないで」

そんなこと言われたら、まだしがみついてしまいそうになる。

このくだらない人生に。

ダイのいる、この世界に。


「でも、会えないって、言った…」

確かに、最初に会えないと言ったのはダイ`だった。

「うん、ごめん。ごめんねキョウちゃん」

たぶん今、ダイは眉をさげて今にも泣き出しそうな顔をしているのだろう。

それが分かるような声だった。


「もう会えないって思ってたけど。会ったらダメだって思ってたけど」

ダイの声に力が増す。

「でも、僕たち、また出会ってしまったから」

そう。もう二度と会えないと思っていた。

お互いのことを強く思いながらも、それでももう会うことはないのだろうと諦めていた。

それなのに。

「だから、もう離れちゃいけないんだよ」

そうなのだろうか。

こんな汚れた私でも、ダイと会ってもいいのだろうか。

「だって、僕はキョウちゃんで、キョウちゃんは僕でしょ?」

何でもないことのように、私の半身は言う。

私に何かあっただろうことを知りながら。

私が二度と会えない場所へ行こうとしていると知りながら。


沈黙が続く。

もう、何を言っていいのか分からない。

ただ、扉を隔てたその先にダイがいる、そのことだけが私の命を繋ぎ止めていた。

触れたい。

単純にそう思った。

ダイに触れたい。ぬくもりを感じたい。

生きている、ダイが間違いなく私の横で呼吸している、その事実を知りたい。


「ダイ…」

呼び掛けた声は小さくかすれていて、届いているのかどうかも分からない。

「会いたいよ…会いたい」

すぐそこにいるのに。

「でも、会えないよ…」

こんな汚い私だから。


「無理に会わなくていいよ」

穏やかな声でダイが続ける。

「でも、こんな風に壁挟んでもいいから、傍にいさせてよ」

あの頃みたいに、とダイが微笑む気配を感じる。

穏やかでやさしくて、ちょっとどんくさい誰よりも大切な男の子。


心の中を暖かな風が吹き抜ける。

直接顔を見られなくても、私の隣はこんなにもあたたかい。

「ありがと…」

なんとなく恥ずかしくて小さな声になってしまったけれど、

「どういたしまして」

律儀に返してくれた。

そんなところも、あの頃とまったく変わっていない。


「ところでさ、」

心が落ち着くと、どうしても気になることがある。

「何?」

「なんで私の家分かったの?」

ダイとはラインでしかつながっていなかった。

お互いの住所も知らない、電話番号も知らない。

電話が壊れてしまえば途絶えてしまうような、そんな関係。

「ああ、それは、あのキョウちゃんのカフェのキツめ美人のお姉さん」

「え、菜々さん?」

「あのお姉さんに、バイトのあとでつかまったんだ」


そういえば、今日遅番で店に行ったときには、すでに観葉植物が変わっていた気がする。

ダイが来る日は絶対忘れないでおこうと思っていたのに、昨日のゴタゴタですっかり頭から抜けていたらしい。


「あのお姉さん、すごいね。パワーがものすごい」

うん、それは分かる。

気だるい雰囲気を醸し出しているくせに、決めるべきときは強引なほどの力を見せつけてくるのが菜々さんだ。

「菜々さん、なんて?」

「キョウちゃんが実の父親につかまったって」


これだから菜々さんは恐ろしいのだ。

私がSOSを出したかったところを的確に察知し、実際に動いてしまう。

あのとき、父が突然店に現れたとき、私が心の奥底で、誰よりすがりたかったのはダイだったから。


「そのまま父親に連れていかれて、そこから何があったのか分からないからとても心配してるって。今日は遅番だから現時点で来るか来ないかも分からないし、もし来てもゆっくり聞いてあげることもできないからって言ってたよ」

ダイの口から語られる菜々さんの愛。

それは、いつも私を温めてくれる柔らかなやさしいものだ。

止まったはずの涙がまた溢れてくる。


「それにどんなに厳しい現実があったってあの子はきっと平気なふりをするから、そしてきっと誰にもツラいって言えないから、他でもないあなたに見に行ってほしいって」

そこまで見抜いて、私の所へと派遣するのにダイを選ぶなんて、菜々さんはやっぱり菜々さんだ。


「あの人、キョウちゃんの事情知ってるんだね」

「うん。半ば強制的に吐かされたことがあるんだ」

「なんとなく想像できる」

「でしょ」

「で、僕たちのことも?」

「ん。生き別れの兄弟並みに再会を喜んでくれてた」

「そっか…キョウちゃんの周りはやさしいね」

「そだね」

そうかもしれない。

料理屋もアンダンテも、私にはもったいないほどの場所で。

仲間に恵まれてきたから、ここまでなんとか一人でやってこられた。

「その中にさ、」

どことなく真剣味を帯びたダイの声。

「僕も、いれてよ」


ああ、なんてこと言うんだろう。

あの頃から変わらず、私の生きる基準はダイにしかないというのに。

「バカだね、ダイは」

「なんでだよ」

「そんなの…」

もうとっくに入っているに決まってるのに。


この壁を突き破って顔を合わせる勇気はまだないけれど、確かにダイがくれたものがある。

こんな私でもまだ生きていけるかもしれない可能性と、みんなの愛。

ねえダイ、私はまだここにいて、いいよね?

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