第14話 決意

「昨日はすみませんでした!」

ドアを開けるなりそう伝える。

昨日は私の父を名乗るものが突然来たり、ちょうど忙しくなる時間に抜けさせてもらったり、迷惑しかかけていない。


「岩田さん!お父さんとちゃんと話せましたか?」

「キョウちゃん!おうちの問題は、もう片付いたの?」

口々に私を心配する声をかけてもらって、嬉しさと申し訳なさに包まれる。

私は、ここのみんなに話せるようなことは一切持っていないのに。

「はい。なんとか」

「そか、よかった~」

私と父が仲直りできたとこを喜ぶ声を掛けられる。

「父とのことで、大変ご迷惑をお掛けしました」

嘘をついている後ろめたさと、仲直りという言葉のしらじらしさに寒気がする。

それでも表面上は、全てが解決した幸せな娘を演じなければならない。


「ま、全て解決したならいいさ。キョウちゃん、早く着替えておいで」

菜々さんが、もみくちゃにされている私をみんなの中から救い出してくれた。

「はい」

みんなから離れられることにほっとして、輪の中から抜け出す。

ロッカーの前に行きほっと一息つくと、エプロンに手を掛け、働く体制を整える。

ここからは、ただのカフェ店員として働くのみだ。

と思ったとき、部屋の扉が開く音がした。

「キョウちゃん、ちょっといい?」

菜々さんだ。

ついに来てしまった。

私はひそかに気合いをいれる。


正直、この店のみんなを騙すにあたり、一番手強いのは菜々さんだと思っている。

何だかんだでみんなの様子を一番見ているのは菜々さんだし、結構ヘヴィな暮らしをしていた中で、体調を崩したり何かあったとき一番に気づいてくれるのも菜々さんだったからだ。

「はい、何ですか?」

あくまで何でもない風を装う。

「…大丈夫なの?その、いろいろ…」

菜々さんが心配そうに見てくる。

「…大丈夫です。昨日はとっさのことでびっくりしましたけど、でも全然問題ないです」

ちゃんといつもの自分でいられただろうか。


本当は甘えてしまいたかった。

訳の分からない展開が待っていて、気持ちも体もボロボロで。

けれど、言えない。

本当のことなんて言えない。


だって、大丈夫以外、何て言えばいいんだろう。

仕方なく着いていった実家で実の父に犯された、なんて。

口に出したくもないし、聞かされた方もどうしていいのか分からないだろう。


助けてもらうこともできないなら、せめていつも通りでいたかった。

父に見つかったからには、たぶんこの店も長くは続けていられない。

それならあと少し、私に残された時間をこれまでと変わらず、自由で満たされていたあのままの私として過ごしたかったのだ。


「それならいいけど…」

私の言葉に騙されてくれたのか、それとも何かあって言えないことを察したのか、菜々さんがそれ以上追求してくることはなかった。

その優しさに、甘えることにする。

「だから…だからこれまで通り、」

いつもの私と、いつもの菜々さんでいてください。そう言いたかったのに、菜々さんにぎゅっと抱き締められて言葉が続けられなかった。


「分かった。これまで通りのキョウちゃんと私でいようね。でも、ちゃんと話せるようになったら溜めずに言うんだよ」

やっぱり菜々さんはあたたかい。

何かを感じ取ったうえで、私を泳がせてくれる。

「はい…よろしくお願いします」

菜々さんの胸に顔を押し当てたまま、ブサイクな鼻声で伝える。

今だけは、このぬくもりを独り占めしていたかった。




案外普通に過ぎていった一日。

いつも通り料理を作って飲み物を作って、お客さんに接して。

あまりにもいつも通りの一日なのに、どうしてこんなに空虚なんだろう。


仕事終わり、何の感情も動かないまま辿り着いた自宅のベッドの上。

力なく横たわったまま、カーテン越しに外を見ている。


あの外灯のついた家では、今温かい夕食の時を過ごしているのだろうか。

あの犬の鳴いている家では、部屋着にパーカーを羽織った少女がこれからゆっくりと散歩に出掛けるのだろうか。


全ては想像だ。

「幸せな家」を自分勝手に捏造しただけ。

正解なんてない。

ただこうありたかった。

普通の家庭の普通の娘として、日常を暮らしたかった。


そんなこと、今さら思っても仕方がない。

でも、手に入ることなんてないって身に染みて分かっていたけれど、それを望むことすらしてはいけなかったのだ、と改めて突き付けられて、心はブレにブレている。


いつもの日常に戻れたら、何もなかったことにできると思っていた。

事が起こったのは自分の中だけに留めて、今まで通りに過ごせると思っていた。

上っ面の笑顔でも、なんとか皆の前だけでは笑って過ごせると思っていた。


それでも、私の中心にあいた穴ぼこは埋まる気配を見せない。

笑っても話をしても仕事をしても、空いた穴からいろいろな感情が漏れ出してくる。


ああ、足りないよ。足りない。


私の体が脳が心が、「足りない」と訴えている。

この虚しさを埋めるもの。昨日失った穏やかな暮らしのかわりに私を支えるもの。

これまでは確かにあったはずなのに、今はどこを探しても見当たらない。


どんなことがあっても、これまでは耐えてきたのに。

どんなに仕事がキツくても、どんなに勉強との両立が大変でも、耐えてこられたのに。


だってそれは、自分が選んだ道だったから。

この道の先に、自分の求める未来があると信じられていたから。

でも、この虚しさには耐えられる気がしない。


望まない展開、望まない出来事。

私の存在は、二度までもひどく歪な形にねじ曲げられてしまった。

いっそ、なければよかった。

私という存在なんてこの世から消し去ってしまえばよかった。

そうすれば、これまでの孤独も受けた辱めも、何もかもこの世界から消えて亡くなるのに。


このまま、父の奴隷になるのだろうか。

捕まって、無理矢理何の思い入れもない実家に連れ帰られて、表面上幸せな娘を演じながら犯されて。

そんな暮らしが待っているのだろうか。


ああ、足りないよ。足りない。


生きていこう、という意志が足りない。

この現実を生き抜いていこうという力が足りない。

自分の中の何かが完全に枯渇しているのが分かる。


このまま、終わらせる?


これまで考えたことのない死への欲望が頭をもたげている。

今ここで私という存在を消し去っても、きっと誰も困らない。

優衣ちゃんはちょっと泣くかも知れない。菜々さんは怒るかも知れない。

それでも、彼らの人生が何かしら変わることはないはずで。


唯一心残りなのはダイだ。

どうしたってもう会えないけれど。会う資格もないけれど。

でも、最期に一目、あの柔らかい笑顔を見たかった気がする。


それでもまたきっと、ダイは生きていける。

辛くて仕方なかった10年も、独りで生きてきたんだから。

私との再会は、一つの思い出として記憶の片隅にでも留めておいて、新しく歩き始めてくれればそれでいい。


今日、無理にでもアンダンテに行ってよかった。

皆の笑顔を見られて良かった。

私のずっとほしかったもの、大好きな人達の笑顔を、最期に見られて本当に良かった。


決心すれば不思議なもので、どこからか力が湧いてくる。

ただ横たわることしか出来なかったのが嘘のように、動くことを考えている。

意志の力ってすごい。

それがたとえ、「死」というひどくマイナスな方向への意志だったとしても。


部屋を軽く片付けよう。

もともと物の少ない家だから、整理してしまえば問題ない。

保証人になってくれた料理屋の主人夫婦には迷惑をかけてしまうけれど、これは最後のわがままということで許してもらって。


あとは、決行場所だ。

家の中では迷惑をかける。

どこか、遠いところへ行けばいい。

一度脱いだ上着を手に取る。


よし、出掛けよう。


家を改めて見回して、これまでの自由だった暮らしを思う。

私のような存在を疎まれた子供が過ごすには、贅沢な日々だった。

この日々のためだけでも、私が生きていた価値はあったのかもしれない。

振り返って軽く一礼。

サヨナラ、そう心の中で思った時だった。


ピンポン


玄関のチャイムが鳴った。

なんてタイミングだろう。

無視してしまおう、そう思って息を潜めてみる。


もし父だったら。

私を捕まえにきたのだったら。

そんな空想に冷や汗が出るけれど、なんとかこの時をやり過ごすしかない。


ピンポン、ピンポン


チャイムが鳴り止む気配はない。

いい加減近所迷惑だ。

早く、早くあきらめて。


トントントン


ドアをノックされる。

このあきらめの悪さ、父ではないような気がする。

父なら、周囲に訝しげに見られるようなことは決してしないから。

じゃあ、誰?


「キョウちゃん?」

戸惑うような声にはっとした。

なんで、ダイがここにいるの?

「ダ、ダイ?」

誰にも何も言わず旅立とうと思っていたのに、驚きのあまりつい返事をしてしまった。


「やっぱりキョウちゃん、いたんだね」

「どうして?」

「窓。キョウちゃんなんかあったとき、絶対外の景色見てぼーっとしてたでしょ?」

さっきまで見つめていた窓を振り替える。

家を出ようとしていたのに、閉め忘れていたようで、カーテンが揺れているのが見えた。


「…なんで?」

なんで来たの?なんでなんかあったって分かるの?

なんでこのタイミングでそばにいるの?


いろんな「なんで」が押し寄せて、声が出ない。


「キョウちゃん、僕たちはどこにいても一つなんだよ」

落ち着いたその声に、玄関先に力なく座り込む。


ああ、やっぱり離れられない。

この命を投げ出そうとしても、ダイはそれを無意識に察知し手を差しのべに来るのだ。

だって、ダイは私の半身なのだから。


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