第13話 大切
気がつけば、日暮れの町を歩いていた。
春の始めの夕方は、まだ暖かいにはほど遠くて。
震える足が心もとない。
それでもそれをごまかしごまかし、ただ前へと進む。
少し薄目のコートの前を左手でつかみながら、右手はぎゅっと握りしめて。
行き先なんて分からない。
ただ今は、少しでも遠くへ行きたかった。
見えるものが全て遠く見える。
あんなに美しいはずの夕暮れも、今の私には響かない。
だって、変わってしまったのだ。何もかも。
真っ直ぐに生きてきたつもりだった。
多少強引な手段を取ったり、いろんな人に助けてもらったりはしたけれど、それでもちゃんと、自分の足で進んできたのに。
今日私は、ひどくおかしな方向へとねじ曲げられてしまったから。
もしも願いが叶うなら。
こんな陳腐な台詞、切実に願う日が来るなんて思っても見なかった。
これまでの人生、どんなもしもよりも現実をやり過ごすことが大切で、そんなこと思いもしなかったのだ。
それでも今、もしも願いが叶うなら。
これまでの人生で、たった一日でいい。
今日この日をやり直したいと願う。
ダイとの別れの日ではなく、実家を飛び出した日でもなく。
今日さえなければ、と。
今日がもっと違う一日であれば、と。
あのあと。
父のテーブルへと近づいた私に、父は完璧な笑顔で「いい親」を演じた。
私に今まで放っておいたことの詫びを入れ、離れていても愛していたと言い。
亡くなった母のことを涙ながらに告げ、同僚たちに礼を言い。
誰が見ても非は私にあった。
父の話では私がわがままな娘で、思春期特有の父親への嫌悪などから反抗していたようにしか感じられないように仕立てあげられていた。
全ての真実を知る私以外、あの人の本性を知らない。
存在の全てを殺されていた無力な少女を知らない。
唯一の救いは、菜々さんが私だけを見ていてくれたこと。
その不安げな、私のことだけを気にかけてくれている視線が、私をその場にまっすぐに立たせてくれた。
そう、私が卑屈になる必要はない。
何らかの思惑があるのだろう父に対して、疚しいことは一切ない。
そして、その思いは私を冷静にしてくれた。
父の一挙手一投足に寒々しいものを感じながら、それでもここは事を荒立てる場では決してないことも分かっていて。
あまりにも見え透いた演技の中で、私は自分の立つべき位置を考える。
今いるのは自分自身の職場で、絶賛営業中。
それもこれからランチタイムを迎え、最も忙しい時間に突入する。
突然休んでしまうのは申し訳ないけれど、この父を仕事の片手間に相手するのは至難の業だ。
これは、一度出るしかない。
そう結論付けた私は、さっと菜々さんに目配せをして、父を伴い店を出た。
外は柔らかく暖かい風が吹いていて、春の訪れをわずかながらに感じさせてくれた。
ほんの少し交じっている梅の香りに、「どうかこの店にもう一度戻らせてください」とささやかな祈りを捧げる。
「行こうか、京佳」
店を振り返っている私にしびれを切らしたのか、父が手を差し出してくる。
どうしてもその手を取りたくなくて。
どうしてもその演技がかった声を受け入れられなくて。
私は颯爽と歩き出す。
少しでも弱味を見せないように。
私の本当に大切にしているものを、この人に悟られないように。
「いい感じの店じゃないか」
車に乗り込んだ私に、父は何の感情もこもらない声でそう言った。
5年ぶりに乗った父の車は、相変わらず高級で冷え冷えとしていた。
「…はい。私もそう思っています」
居心地の悪い車内で、私もできる限り感情は排除する。
「もう、5年になるか」
「はい」
「まさかこんなにしっかりと生きているとは思っていなかったよ」
「…そうですか」
空気が重苦しい。
そしてそれは、紛れもない実家の空気感だった。
店から1時間ほど車を走らせたところに実家はある。
出ていった日とまったく変わらない、冷たいドア。
忘れかけていた実家の匂い。懐かしさなんてみじんもないけれど。
「さあ、入りなさい」
促されて一歩進む。
どうにも気は重いけれど、できるだけ平常心で。
玄関に飾られた造花、長い廊下、リビングにおかれた革張りのソファ。
何一つ変わらない、私の育った、そして存在を消された場所。
気づかれないようにため息をひとつ。
なんとかここをやり過ごさなくてはならない。
「ここだよ」
父の声に目をあげると、リビングの横の少し狭い和室に、見慣れない仏壇が置かれていた。
5年ぶりに見る母がそこにはいて。
遺影という形ではあるけれど、そこにいるのは紛れもない母の姿だった。
「挨拶してきなさい」
父の声に、黙って頷き仏壇の前に座る。
この期に及んで、何の感情も湧かない自分に驚く。
空っぽの心のまま母の遺影に手を合わせる。
確かにこんな顔だったような気がする。
それでも、この人が生きて動いて笑って、そんな日々があったなんて信じられないほど、私の記憶には「生きた母」の姿はなかった。
「突然だったんでね」
不意に背後から父が話しかけてくる。
「心の整理がついたのは、つい最近なんだよ」
「…そうですか」
それよりほかに適切な言葉が見つからなくて黙りこむ。
沈黙がいたたまれない。
どうして私はこの場に呼ばれたのか。
いまだ何一つ分からない。
父と母は仲が悪いわけではなかった。
むしろ私を排除することに関して、暗黙の了解で結託していたような印象だった。
そんな母が突然死んだことで、父は寂しさを覚えたのだろうか?
それとも、遺産など非常に事務的な用件で呼ばれたのだろうか。
いずれにしても、私には関係ない。
父の寂しさは父がなんとかすればいい。
遺産なんて一切ほしいと思わない。
手を合わせることで、もう娘としての義理は果たしたのだ。
なんとかこの場から立ち去りたい。
そんな私の気持ちを察知したのか、父はコーヒーを差し出してきた。
「まあ、一杯くらいいいじゃないか」
そう言われてしまうと、断ることもできず。
「…はい。いただきます」
大ぶりな花が描かれたコーヒーカップに手を伸ばす。
暖かいコーヒーが、冷えきった胃の中に落ちる。
そして、そこからの記憶がない。
目が覚めたとき、私は見慣れない景色の中にいた。
見えるのはひたすら白。
真っ白の中で柔らかいものに包まれているのだけは分かるが、頭の奥からガンガンと突き上げるように響く痛みが冷静な思考を奪っていく。
ここはどこなのだろう。
私はどうなっているのだろう。
確かにさっきまで、父と気まずい空間にいた。
母の写真に手を合わせ、仕方なくコーヒーをいただいて。
そして、思い出したのだ
口に含んだコーヒーが胃の中に落ちるとき、舌に痺れるような感覚を覚えたこと。
なぜか突然力が抜けて、コーヒーカップを取り落としたこと。
遠くで聞いたカップの割れる音。
そしてニヤリと笑った父の顔。
ガバッと起き上がった私は、突然動いたことにより激しさを増した頭痛の中、自分が何一つ身にまとっていないことに気がついた。
下半身にまとわりつくベタベタした感覚と痛み。
しわくちゃになった白にうっすら滲む赤色に、目覚めて見た白がシーツの色だったことを知る。
ーやられた。
徐々に冷静になっていく頭が、知りたくもない事実をはじきだす。
私を必要としたのは、父の性欲処理のためだったのだ。
母が死に、捌け口がなくなった父は、確かに顔だけは母と似ていた私を探し出すことにしたのだ。
それにしても、娘に睡眠薬を飲ませるなんて。
そして寝ている娘を犯すなんて。
キモチワルイ、キモチワルイ、キモチワルイ
その思考が、行動が、すべてが。
怒りより恐怖より、ただひたすら気持ち悪い。
頭がガンガンする。
いろいろな事実が吐き気に変わる。
目覚めたときには全てが終わっていたなんて。
私の全てが汚されていたなんて。
必死になってあたりを探り、なんとか着ていた服を探し当てる。
ところどころ破れているけれど、全裸でいるよりはよっぽどましだ。
いろんな痛みに耐えながら、ノロノロと服を身に付ける。
コートだけが破れていなかったのが幸いだ。これで外に出られる。
父が今どこにいるのか、どこからか私を見ているのか、もうそんなことどうでもよかった。
店がバレてしまったのだ。住んでいるところなんてもうとっくに知られているだろう。
あの人は、獲物は決して逃さない。
それでも、このままここにいるのは耐えられなかった。
せめて、昨日まで私の普通だったぬくもりにもう一度触れたかった。
ヨロヨロの体で、重い実家のドアを開ける。
5年前、家を出たときに見た空はあんなに青く美しかったのに、今は灰色にしか映らない。
それでも、昨日まで確かにあった鮮やかな色彩をこの体は求めていて。
重い足を引きずりながら、ただここから遠ざかることだけを考えた。
どこへ行こうか。
遠いどこかへ行ってしまおうか。
とりとめのないことを考えながら、一歩一歩足を踏みしめる。
そして、そんな私が思い出すのはただ一人、私の半身。
どこかへ行ってしまう前に、せめて一度でいいからダイに会いたい。
それでも。
こんな穢れてしまった私では、もうダイに会えない。
そう思い至ったとき、私は今日初めて泣いた。
こんなにひどく汚されてしまった私なのに、流れる涙はなぜかやっぱり透明で。
ぽろぽろ涙を流しながら、そのことだけがただひたすらに痛かった。
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