第12話 帰る場所
ダイから衝撃的な言葉を聞いた日からしばらくは、私はひどく落ち込んだままだった。
あの日も、どうやって家に帰ってきたのか正直覚えていない。
気がつけば、自分のベッドの上で三角座りをしていたのだった。
おじさんのこともショックだったけれど、おじさんのことを殺したいとさえ思ってしまうほど、苦しんでいるダイの姿が痛かった。
それでも、ヘコみながらもなんとか日常をこなし、カフェの仕事と勉強に身を投じるうちに、なんとなく自分の心は落ち着いていった。
おじさんがどうであれ、ダイ自身がどうであれ、私とダイは変わらない。
突然頭のなかに降ってきたその思いが、妙に自分自身の腑に落ちたのだ。
ダイは私の半身で、それはもう私たちの中で揺るぎのない事実だ。
それならば、どんな状態のダイでも私は寄り添い支えるだけ。
私だけは、何があってもダイの味方でいる。
その結論は、私の背筋を伸ばさせ、前を見ることも思い出させてくれた。
ダイと交わしていたなんてことないラインのやり取りも普通に出来るようになり、軽い調子の会話もできるようになってきた。
そう、これでいい。
焦ることなくダイのそばにいて、いつかタイミングが会えば、おじさんとも会えればいい。
10年の不在に比べれば、それはどうってことないはずなのだ。
やっと自分の中で折り合いをつけ、いつもの日常を取り戻したと思った頃。
私の穏やかな日々は突如終わりを迎えた。
まったく、思いもよらない形で。
その日、私は遅番で仕事に向かっていた。
ほんの少し寝坊したため、猛スピードで自転車を漕ぐ。
見慣れたいつもの景色が、いつもより早い速度で流れていく。
今日は毎日挨拶する野良猫にも、ゆっくり話しかけられなかったな。
明日こそはもう少し余裕を持って、猫たちとお話できるようにしよう。
そんなのどかなことを思いながら、それでも少し急ぎ目で店の扉に手をかけた。
そこに、私の人生を変えてしまうことがあるとも知らずに。
「おはようございます」
いつものように声を掛けながら店に入る。
事務所に繋がるその裏口のドアは、常に私を軽やかに働く空間へと導いてくれる。
このドアを潜ることで、私は気持ちを引き締めるのだ。
ロッカーに手をかけ、制服に着替えようとすると、厨房の方から足音が近づいてきた。
少し高目のヒールの音。
そんな大人な靴を履くのは菜々さんしかいない。
少し気だるそうで、それでも優しい菜々さんの笑顔を思い浮かべながら私は声をかけた。
「おはようございます」
しかし、そこで待っていたのはいつもの笑顔の菜々さんではなく、どこか困惑気味の表情だった。
「どうしたんですか?」
ロッカーの扉を閉め、手に持っていたエプロンを身に付ける。
その間も、菜々さんは黙ったままだ。
話したくない、というのではなく、どう話していいのか分からないといった感じだった。
何事か不思議に思いつつも、仕事の時間が近づいている。
時計を気にした私に気づいたのか、
「キョウちゃん、ちょっとこっち」
仕事の輪に入ろうとした私を、事務所の隅につれていく。
「菜々さん?」
「いいから」
他のメンバーから遠ざけるようにして、私を端の丸椅子に座らせた菜々さんは、言いにくそうに、それでも何かを決心したかのように口を開いた。
「こういうときは、単刀直入に言うしかないと思うんだよね」
「…はぁ…」
全く単刀直入からかけ離れた様子で菜々さんは言う。
「キョウちゃんのこれまでのこと、一番知ってるのって私だと思うんだけど」
「はい。それは間違いなくそうです」
「…来てるよ」
「は?何が?」
「あんたの父親」
「えっ!?」
なんで父親が?今さら何しに?
私の頭を疑問符が駆け巡る。
「今朝、店開けてすぐにサラリーマンみたいな親父が入ってきてね」
開店を待つように店に入ってきたのが、ダークグレーのスーツに身を包んだ50代前後のおじさんだったらしい。
水を運び、注文を取ろうとした菜々さんに、そのおじさんは言った。
「ここで、岩田京佳が働いていると聞いたのですが」
「は?」
「私、京佳の父です。娘が大変お世話になっております」
そういっておじさんは菜々さんに対し深々と頭を下げたそうだ。
「びっくりしたよ、ほんと」
「…すみません」
「ううん、キョウちゃんが謝ることなんてないから」
菜々さんは、動揺する私の頭をやさしく撫でてくれた。
「それでね」
さらに言いにくそうに菜々さんは言葉を続ける。
おじさん、いや、父は話し始めた。
「実は、お恥ずかしい話、ちょっとしたイザコザから娘とは音信不通になってまして」
「はあ…」
「先日、妻が亡くなりまして」
「それは…お悔やみ申し上げます」
「連絡は取れていなくても、あれは娘の母親です。どうしてもそのことを京佳に伝えたくて方々手を尽くしましたら、この店が分かったんです」
「そうだったんですか…」
「あの子に、会わせていただけますでしょうか。どうかお願いします」
父はそう言って、菜々さんに頭を下げたらしい。
「って訳なんだけど。どうしようか?」
菜々さんは、申し訳なさそうに眉を下げる。
たぶん、私のことをいないと言えなかったこと、存在を隠しきれなかったことを悔いているのだろう。
でも、私が一番知っているのだ。
あの父親が手を尽くした、というなら、私の存在は確実にばれている。
社会的にも地位が高く、表にも裏にも通じている父は、自分の思いのままに動くことができるだろう。
本心は別にあったとしても、父の一存を無下にできるほどの勇気ある人間は、父を知る者の中にはまずいない。
「ついにバレたんですね。というか、探される日が来るとは思ってもみませんでした」
私にずっと関心のなかった両親だ。まさか探しに来るとは。
しかし、あれをちょっとしたイザコザと言えるあたり、あまりにも私の親だ。
存在を切り刻まれてきた私の少女時代を思うと、うすら寒い思いにとらわれる。
「どうするのがいいのか、私にも分からないんだけど…」
菜々さんは自分のことのように頭を悩ませてくれたみたいだ。
「仕方ないですよ。まさか会いに来るなんて、私も思ってなかったですし」
「お母さんも、亡くなったって…」
正直そのことに関しては、驚きはしたけれど悲しみはなく。
「ここで、悲しめるような娘だったらよかったんですけどね」
「キョウちゃん、無理に笑わなくていいよ」
そういうと菜々さんは、私の頭をぎゅっと抱き締めてくれた。
「何のために探しに来たんでしょうね」
菜々さんの胸に顔を押し付けているから、自分の声がひどくくぐもって聞こえる。
「これまで何一つ私に興味なんてなくて、ずっとほったらかしで」
「そうだね」
「今も、たぶん私が気になったんじゃないと思うんです」
母が死んだこと。
それにまつわる何か。
「そうだね」
「…怖い」
そうだ、私は怖い。
今さら父と会うこと。
父と会うことで、何かが起こるだろうこと。
「そうだね。怖いね」
菜々さんは、私の漏らす一言一言をやさしく掬い上げてくれる。
頭を撫でてくれる手はあたたかくて、こんな時なのに心が落ち着いてくるのを感じる。
「…怖いけど、」
菜々さんが話しけてくる。
「今は、たぶん逃げられないと思う」
「ですよね」
「怖くてもしんどくても、正面からぶつかるしか」
「ないんですよね…」
それは分かっている。分かっているけれど。
「迎え撃つ覚悟はできた?」
「なんとか…」
「ちゃんと、戻ってくるんだよ」
「…」
返事ができなかった。
私が私であるために選んだ逃亡という方法を貫くなら、私はもう一度逃げなければならないかもしれないから。
それでも。
「…戻りたい、です」
「待ってる」
「…戻れる、かな?」
つい口からでた本音。
私はここに帰ってきたい。
「当然でしょ。ここは、キョウちゃんの帰る場所だから」
帰る場所。
そう、今の私には、帰る場所がある。
あの途方にくれた夕方に比べて、それはどれだけ贅沢なことだろうか。
「…頑張ります」
「うん。乗り切れ」
頑張れ、ではなく乗り切れ、なのが菜々さんらしいと思った。
ゆっくり顔をあげる。
迎えてくれるのは、穏やかなやさしい笑顔。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
そう言いながらそっと頬を撫でる手に、なけなしの勇気を振り絞る。
帰る場所にきちんと帰ってこられますように。
そんな祈りを捧げつつ、私は店へと入っていった。
店のみんなには、簡潔に菜々さんから説明がなされているようだ。
慌ただしく働くみんなを横目で見ながら、一つのテーブルへと近づく。
もう何年も前にしか見ていないのに、全く変わらない姿がそこにはあって。
気づかれないよう、そっと息を吐く。
「お待たせしました」
うつむき気味にコーヒーを飲んでいた父は、パッと顔を上げた。
「久しぶりだな、京佳」
父の作り笑いを見た瞬間、私は本能で察知した。
私のこの、暖かく優しい時間が、一瞬にして藻屑と消えていくだろうことを。
そして、この直感が決して外れることなく私につきまとうのだろうことを。
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