第22話 救い

夢を見ていた。


夢の中で私はまだ10才くらいの少女で、真っ白いワンピースを身にまとい、ふわふわした雲の上のようなところを歩いていた。


見渡しても誰もいない。

一人の心細さに、ぎゅっと手を握りしめる。

自分がどこへ向かっているのか、なぜ歩いているのかも分からない。

それでも、行かなければならないということだけは分かっていて。

足を止めないことだけを必死に自分に言い聞かせながら、先へ先へと進んでいた。


「キョウちゃん」

誰もいなかったはずの空間から、不意に呼ぶ声がする。

大好きな声。安心する声。

振り返ると、そこにはまだ少年のままのダイがいて。

「一緒に行こう」

私の目を見ながら、手を差し出してくれた。


私はその手をそっと握る。

柔らかな温もりが伝わってきて、さっきまで一人で寂しかった気持ちがふんわり解けていくような気がする。

これならなんとか、歩き続けられそうだ。


二人で白い道を行く。

横にはダイの青い靴。

私の白い靴と、足並みが揃っていることにほっとする。

ふわふわふわふわ、二人で歩く。

何もかも分からないことだらけだけれど、ダイと一緒ならそれでいい。


「ねえ、キョウちゃん」

沈黙を破るように、ダイが話し掛けてきた。

その声にはほんの少し哀しみが混じっていて、これからダイが何を言おうとしているのかが直感で分かった。


やめて、何も言わないで。

夢と現実の狭間で揺れる意識がダイの言葉を拒絶する。

それはきっと私にとって、いい話ではない。

だって本当は、ずっと一緒にはいられなかったのだ。

ちょうど今、夢の中の私たちの年頃に、二人は長い別れの時を迎えたのだから。


「僕、行かなきゃいけないんだ」

やめて、そこから先は聞きたくないよ。

「離れていても、ずっと一緒だよ」

そうだった。

二人とも、離れていても心の中にはいつもお互いの存在があった。

それでも、私たちは引き裂かれるんだから。

私たちのことをどうしても引き裂きたい人間がいるんだから。


それでも、言えない。

「行かないで」が言えない。


あの時、行かないでって、私を置いて行かないでって言えていたら、何かが変わったのかな?


「キョウちゃん、泣かないで」

そう言われて、初めて私は自分が泣いていることを知った。

改めて泣いていると気付いたことで、涙はどんどん溢れてきて。

こぼれ落ちる涙は足下の雲を溶かし、ふわふわした道は固いアスファルトへと姿を変えた。

幼くて可愛らしかったダイは、大人になって少しがっしりした今のダイになっていた。


「またね、キョウちゃん」

そんな言葉を残して、するりとダイの姿は消えてしまった。

伸ばした手だけが虚しく空を切る。

暗くて寒い道の真ん中で、私は蹲る。

いつの間にか私も今の私の大きさになっていた。

凍える体を自分の手で抱きしめる。

そこで私は、自分が裸のままであることに気がついた。


フラッシュバックする記憶。

切り刻まれた服。

体中に残された傷。

私を撫でまわす気持ちの悪い手の感触。

そして、私は。

私は…


「うわぁーっ!!」

自分の叫び声で目が覚めた。

窓の外は真っ暗で、もう随分と夜が深まっているのが分かる。


ゆっくり呼吸を落ち着かせる。

暗がりで辺りを見回すと、いつの間にか部屋着を着せられていて、自分のベッドに寝かされていたようだ。

血と体液に塗れていた体も知らない間に清められ、受けた傷には湿布や包帯で処置も施されていた。


あんなに乱れていたのが嘘のようだ。

家も、私自身も、もう死んだ方がマシだと本気で思うほど荒れに荒れていた。

気力も体力も限界で、気を失いかけた時。

あの時私は、確かにダイの声を聞いた。

これはすべてダイがしてくれたことなのだろうか。


「…ぅーん…」

豆球の薄明かりの中、かすかな声が聞こえた。

声の方に目をやると。

「…えっ、菜々さん?」

ベッドの真ん中に伏せながら眠っていたのはなぜか菜々さんで。

私の驚きの声で起こしてしまったようだ。

「…あ、キョウちゃん。目覚めた?」

「はい、さっき…」

むくっと起き上がった菜々さんは、枕元の灯りをつけ、横に置いてあったストローのささった経口補水液のペットボトルを差し出す。

されるがままその液を飲んでいると、汗を拭われ、これまたいつの間にか額に貼られていた冷えピタを変えられた。


何もかも分からないことばかりなのに、さっきまで眠っていたとは思えないほどテキパキ動く菜々さんを、呆気に取られて見ているしかなかった。

「まだ夜中だし、寝れるなら寝ときな」

ぼーっとしているからか、そう言われて一瞬従いそうになる。

いや、だめだ。なぜここに菜々さんがいるのか、ダイはどこにいるのか、果たしてあの時の声は本当にダイだったのか。

知らないことが多すぎる。


「なんで…?」

なかなか言葉にできなくて一言だけつぶやけば、それで全てを察してくれたらしい。

「佐倉君から、連絡もらったの。キョウちゃんが大変だって」

ああ、やっぱりダイだ。

あのときの声はダイだったんだ。

「前に、無理矢理連絡先交換したんだ。ほら、キョウちゃんの親父が店に来たときに」

確かにそんなことを言っていたような気がする。

あの、壁越しに話をしたとき、菜々さんの話をしたんだった。


「彼、やっぱり誠実ね」

ふんわり笑いながら菜々さんは言う。

「私が着いたとき、まあひどい有り様だったけど、彼キョウちゃんの体には指1本触れずブランケット掛けて、ひたすら手を握って頭撫でてたわ」

そんなことを聞いて、涙がこぼれてきた。

ひどい姿を見せてしまった。

一番見せたくなかった相手。

それでも、やっぱりダイは私を大切に大切に扱ってくれるんだ。


「…本当にひどい状態だったから、体も清めたし家もいろいろ片付けたよ。破れた服も捨てて、部屋着も適当に出してきた。勝手にあちこち触ってごめん」

「ううん…こちらこそ、ひどいもの見せてすみません…いろいろありがとうございました」

やさしく頭を撫でられる。

ああ、やっぱり菜々さんは暖かい。

恐怖や絶望や、いろいろなマイナス感情で凝り固まっていた心がほろほろほどけていく。


「状況が状況だから、病院には連れていけなかったけど。さっきの水、もし飲めてなかったら救急車呼ぶところだった」

「…」

「それくらい大変な状態だったってこと、分かる?」

「…はい」

「ここに着いて、荒れた家見て、ひどい状態のキョウちゃん見て。声かけたとたんに気を失われた彼がどんなにショックだったか分かるよね?」

「…はい」

「こういうときに頼っていい人って思ってもらえたのは嬉しいけど。私だってさすがに動揺したよ。この部屋見たとき」

「…はい。本当にすみません」

「謝らないで。キョウちゃんが無事ならそれでいいから」

にこっと微笑みかけてくれる。

でも次の瞬間。

「で、キョウちゃん」

菜々さんの声に鋭さが加わる。

あ、これダメなやつ。もう隠せない。


「なんでこんなになるまで黙ってたの?」

なんで、と言われても答えられない。

言いたくなかったし、知られたくなかった。

知ってほしかったけれど、知られるのが怖かった。

「言いたくない気持ちも分からないわけじゃない。でもね、キョウちゃんは助けを求めるべきだったと思うよ」

頬に流れる涙を拭いながら菜々さんは言う。


「いつからやられてたの?あの親父に」

なんの説明もなくても端的に確信をついてくる。

これはもう、言うしかない。

「…初めて店に来た日、実家に連れていかれて。母の遺影に手を合わせて出されたコーヒーを飲んだら、睡眠薬盛られてたみたいで…」

あの屈辱の日を思い出す。

あのとき易々と着いていきさえしなければ、いろいろなことは守られていたのだろうか。


「薬を盛ってなんて…」

菜々さんの声に怒りが滲む。

私のために怒ってくれる人がいるということが、こんなに心強いなんて。

知られたくないことを話しているというのに、気持ちのどこかが安堵しているのが分かる。


「でも、そこからいきなり今日ってわけじゃないよね?最近のキョウちゃんの様子からして」

もともと何かしら気づいていた菜々さんは、追求の手を緩めることはない。

ここぞとばかりぐいぐい迫ってくる菜々さんに、やっぱり私は隠し事はできないらしい。


「…そこから、定期的に抱かれてました。もう薬も使われず、ひたすら感情を殺して」

「逃げられない何かがあったんだよね?」

「…はい」

「それは、彼のこと?」

「…」


言いたくなかった。

ダイのせいのように思われたくなかった。

それでも、この無言は肯定と同じ意味だったようだ。


「キョウちゃんがそこまでして、体張ってまで守りたいものって、やっぱり佐倉くんしかないもの。彼のことで、何て言われたの?」

「…幸せを、ダイにとっての幸せを、確約するみたいなことを…」

虚しい。何一つ守られなかった幸せ。

結果、ダイは傷ついた。

「幸せ?」

「…ダイのお父さん、入院してるんですけど、いい部屋に移して最高の治療を受けさせてあげるとか。あと、ダイの就職もちらつかされて…」

「そか…」

きゅっと手を握ってくれる。

「…昨日、ダイに大変なことがあって。いろいろ手伝って、朝方に家に帰ってきたらあの人が待っていて」

朝の父の目を思い出す。

イヤらしい目線。獲物を捕らえたような、薄暗い喜びを湛えた目。

「朝帰りして、なんてあばずれだ、とか言われて。私が何をしたっていうの?傷ついたダイをただ見てるしかなかったのに」

あの無力感が甦る。

幸せから拒まれた子供たち。


「どんなに私の体でダイの幸せを守ろうとしても、何も報われない。なんでなの?悔しくてもうどうしようもなくて。怒りをあの人にぶつけたら、そうしたら…」

無理矢理に犯され続けたことを思い出す。

抵抗できず、気を失えば殴られ、ひたすら父の性欲を受け続けるしかなかった。

恐怖感と無力感。痛み。

息ができない。苦しい…


「キョウちゃん、ゆっくり息吐いて」

菜々さんに抱き起こされ、背中を撫でられる。

過呼吸を起こしかけていたらしい。

「…はぁっ…はぁ…」

温かい手のひらの温度に、徐々に呼吸が落ち着いてきた。

「…もう、大丈夫…」

ゆっくりベッドに寝かされる。

疲れた。体を動かすことさえ苦痛だ。

「ごめん。無理させたね」

菜々さんの言葉に、無言で首を横に振る。

話すのは辛かったけれど、話すことで気持ちが楽になったことも事実だ。

「辛いこと、話してくれてありがとね」

こちらこそ、聞いてくれてありがとうございました。

そんな気持ちをこめて、微笑んだ。

声も出せないくらい疲れたけれど、思いだけは伝えたくて。


「ほら、キョウちゃん落ち着いたから、もう入ってきていいよ」

菜々さんが部屋の外へ呼び掛ける。

静かにドアが開く。

「キョウちゃん…」

そこに入ってきたのは、真っ赤な目をしたダイだった。



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