第9話 転機

優衣ちゃんが入院した。

その衝撃的ニュースはカフェ・アンダンテに瞬く間に広まり、店員たちは皆動揺した。

かくいう私も、そのニュースソースである菜々さんに詰め寄っているわけだけれど。


「菜々さん、優衣ちゃん入院したって!」

「そうなのよ、もうほんと、人騒がせな子なんだから」

ゆるゆるの反応を見せる菜々さんに少し安心しつつ、それでも入院なんて穏やかならざる言葉にまだ緊張は解けない。

「いったいどうしたんですか?おととい一緒に入ったとき元気そうだったのに」

いつも通りの無邪気さと屈託のなさで、私の幾分ささくれてしまった心を存分に癒してくれていた。

「なんかね、昨日の帰り、駅の階段を踏み外したんだって」

「え!?」

まさかの事故。階段なんて、嫌な予感しかしない。

「ほら、あの子けっこうドンクサイじゃない」

緊張する私に対して、ひどく軽い調子で話す菜々さん。

そういえば菜々さんは普通の顔でひどいことを言う天才だった。

「…まあ、確かに」

私も嘘は言えないタイプだ。

「ここでもよくお皿割るしずっこけてるし」

「…ですね」


なんというか、おっちょこちょいなのだ。優衣ちゃんは。

それでも本人は常に一生懸命だし、何よりその明るい雰囲気がこのカフェにはなくてはならないものとなっているから、みんな多少のポカは許してしまうのだった。

ある意味、人徳である。


「込み合った階段で、急いでる人にぶつかられて?避けきれなくて転がり落ちて?」

聞いているだけで痛い。

「それで足の骨折ったんだって」

「かなり悪いんですか?」

足の骨折だけで入院ってことは、ひどいのか場所が悪かったのか。

「ううん、そんなにひどいわけじゃないんだって」

「よ、よかった…」

でもなぜ入院?

「ただね、骨折したの、両足なんだって」

「どんくさすぎでしょ!」

まさかの両足骨折。

動くにも不自由なため、大事をとって入院となったそうだ。

「なんと言うか、優衣らしいと言うか」

苦笑しつつも、菜々さんの表情はとてもおだやかだ。


菜々さんの話では、確かにそうひどい怪我というわけでもなく。

左足はけっこうひどくてギプスでガッチガチだけれど、右足は軽い靭帯の損傷と剥離骨折だけで済んでいるため、サポーターでの処理のみで、少し落ち着いたら退院できるらしい。

「良かった…良くはないけど」

もっと重病とか重症だったらどうしようか、すごく心配だったから。

「ほんと、キョウちゃんの言う通り、良くないけど良かったよ」

なんでも、家族に連絡がなかなかつかず、一番に菜々さんのところに入院の連絡が入ったらしい。

「病院からの電話なんて、受けるもんじゃないね。心臓に悪い」


本当にそうだ。

電話に出たら病院だった、なんてタチの悪い冗談みたい。

何度か、病院からの電話を受けて青ざめるダイを見てきたから、その気持ちはものすごく分かる。

お母さんの入院している病院からの電話を受けるたび、ダイは息を潜め瞳を震わせ、無事を確認できれば静かに息を吐いていた。


「だから、優衣自体は、というか上半身は元気だよ。動けないだけで」

休みのときにでもお見舞いに行ってあげて、なんて柔らかい表情で言う菜々さんは、まるで本当のお姉さんのようだった。


そして、今日。優衣ちゃんの話を聞いてから二日後。

久しぶりのお休みに、私は病院に来ている。

優衣ちゃんが入院しているのは、お店からバスで20分ほどの総合病院。

最近立て替え工事を終えたばかりというその病院は、気後れしてしまうくらいきれいで大きくて、入る前に一瞬ひるんでしまった。

それでもかわいい優衣ちゃんのため、行かないという選択肢はない。

一つため息をつき、私は足を進める。


そういえば、と私は思う。

病院なんていつぶりだろう。

自分自身は、あまり病院と縁がなかった。

ありがたいことに強い体で、というわけてもなく、人並みに調子を崩すことはあった。

それでも、風邪を引いても熱が出ても、親から放っておかれた私は病院へ行ったことなんてなく、自力で寝て直していたのだ。

そのせいか、病院、とくに大きな病院なんて、自分自身とかけ離れ過ぎていてどうにも落ち着かない。

馴染みがないということと、病院にすら連れていってもらえなかったという空しさ。

こんなとき、いちいち過去を思い出してしまう自分の弱さがイヤになる。

あの頃の自分は、思い出も感傷も一切捨て去ったというのに。


エレベーターがチンと鳴り、優衣ちゃんのいる10階に着いた。

各科受付で面会用紙を書きながら、私は新たに気合いを入れる。

お見舞いなんてそうたいしたことないはずなのに、慣れないことはどうも苦手だ。


聞いていた病室は1023号。壁の表示を見ながらゆっくり進む。

たどり着いた部屋は、思っていたより日当たりが良く、明るい雰囲気だった。

窓側の端のベッドへ進むと、「小川優衣」という見慣れた文字。

「優衣ちゃん…?」

そっとカーテンを明けてみると。

「っ!岩田さ~ん!」

半泣きの、それでもいつも通りの明るさを放った優衣ちゃんがベッドに座っていた。


「もうね、本当にびっくりしたんですよ~」

優衣ちゃんは今日は朝から看護師さん以外誰とも話せなかった寂しさからか、ものすごい勢いでしゃべりまくりで。

見舞いに来たはずの私がその空気に気圧されている。

なぜだ??


持ってきた見舞いの品である焼き菓子詰め合わせを二人してもぐもぐ食べる。

甘いものが大好きな優衣ちゃんが、いつもみたいにおいしそうにお菓子を頬張るのを見て、やっと少し、ずっと抱えていた緊張が解けた気がした。

「それにしても、思ったより元気そうでよかったよ」

本気のトーンで言葉が転がり出た。

本当に良かった。

両足の痛みとか不便さとか、それ以上に事故の恐怖で沈んでいたらどうしよう、と密かに思っていたから。

「岩田さん…ありがとうございます」

ほんの少しトーンの落ちた優衣ちゃんは、そっと目を伏せながら話す。

「…ほんとは、ちょっと、怖かったです。これから、駅の階段降りるの、やっぱり怖いかも…」


それはそうだろう。

込み合った中での事故。

恐怖と痛みと人目にさらされているという羞恥心。

そんないろんな感情がない交ぜになって、辛い思いをしたに決まっているのだ。

「優衣ちゃん…」

大丈夫だよ、怖さはそのうち薄れていくし、怪我も治るから。

怖かったら怖いって、言えばいいんだ。

「頑張ったね」

手を伸ばし、そっと頭を撫でてやる。

いつも手の込んだアレンジをしている優衣ちゃんの髪が、ただそっけなく二つ分けにくくられているのを見て、ああ、この子はまだこんなに幼かったんだ、と思った。


そんな少しセンチメンタルな空気も、張本人が優衣ちゃんでは長続きするはずもなく。

そのうちいつもの調子を取り戻した優衣ちゃんは、入院生活のあれこれを、おもしろおかしく話してくれた。


「あ、そうだ。岩田さん」

「なに?」

「こないだ、レントゲン撮りに地下に行ったんですけど」

この病院は、レントゲンやエコーなどの検査室はすべて地下に集約されているらしい。

ついでにコンビニや喫茶店なんかも地下にあるらしく、もっぱら優衣ちゃんの興味はそこに集中しているのだが。

「そのとき見かけましたよ、岩田さんの幼馴染みクン」

「幼馴染みクンって…」

「ほら、あの植木屋さんの彼。コンビニでなんか買ってました。さすがにこの足じゃ声かけにいけなかったんですけど」


一瞬にして頭が真っ白になる。

ダイがこの病院の地下にいた。

その事実が、私をひどく動揺させる。

「普通に外を歩けるような格好だったし、入院してる風じゃなかったから、誰かのお見舞いだったのかもしれないですね」

そんな推測を楽しそうに話す優衣ちゃんに、私はどうやって対応したのだろうか。

ダイが、ここに居た。

それは、一体何を意味するのだろう?

怒濤のように思考が襲う。


「…岩田さん?」

考えの沼に落ちかけていた私の頭は、怪訝そうな優衣ちゃんの声に、一瞬にして現実に戻された。

「ごめんごめん。ちょっと考え事してた」

「大丈夫ですか?幼馴染みクンのこと、気になる?」

「ううん、ちょっとびっくりしただけ」

半分は事実。

「私、変なこと言いましたかねぇ…」

心配そうな優衣ちゃんの髪をそっと撫でた。

「そんなことないよ。もし体が悪いならどうしよう、って思っただけだから。また今度聞いてみるよ」

何てことないように話す。

実際は、ダイにどうやって切り出せばいいのか、頭の中はぐるぐるしているけれど。


それからしばらく、優衣ちゃんとたわいのない会話をしてから帰る時間を迎えた。

帰り際、

「早く治しなね」

そう言った私に、優衣ちゃんは少し寂しげな目をして頷いた。

「早く、アンダンテに帰りたいです」

優衣ちゃんの言葉にはっとする。

そう、アンダンテは私たちの帰る場所なんだ。

「待ってる」

軽く手を振り、帰り道を急ぐ。

私たちの帰る場所へ。

そして、昔の私の揺るぎない帰る場所だったダイのことを考えながら。


バスの座席に沈みつつ、頭は思考を止めようとはしない。

大病院の地下、コンビニ、買い物。

ダイ自身ではない、と直感で思う。

彼の体のどこかに不調があるなら、気づける自信があるから。

そうなると、どう考えても私の中に浮かぶ答えは、おじさんしかいなかった。

確かこの間、おじさんは本調子ではないと言っていたのを思い出す。


おじさんがこの病院に入院している。

そしてダイはお見舞いに来ている。

会えない、と言ったダイの顔。

多く語られなかったその後のおじさんの話。

頭の中で、バラバラだったピースがカチリとはまる音がした。


「ダイ…」

今、無性にダイに会いたい。

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