第8話 逡巡
「オーダー入りまーす。パスタランチ、ワン。ドリンクはアイスカフェラテで」
「かしこまりました!」
オーダーを通す元気な声。
カチャカチャと食器が鳴る音。
12時前後のこの時間、ここは戦場になる。
特に今日は、一番人気の鮭とほうれん草のクリームパスタがランチメニューだから、近くのOLさんや女子大生がわらわら押し寄せてくるのだ。
「イチゴロール、ラスト3です」
「了解!」
ひっきりなしに流れる水の音やジュージュー何かが焼ける音。
合間に飛び交う同僚の言葉。
必要最低限のやり取りが妙に心地いい。
仕事は私を私で居させてくれる、最良の場所だ。
特に今、何をどうすればいいか迷いしかないときには。
泣きながら発せられた「もう会えない」を、どんな気持ちで受け取ればいいんだろう。
あの日から、私の中はそのことでいっぱいだ。
あの時、ダイからその言葉が出たとき、頭の中が真っ白になった。
だって、やっと会えたのに。
それでも、聞き返そうとする私を、ダイは強く抱きしめた。
まるで、何も言葉を紡がせないかのように。
抗えなくて、仕方なく、しばらく二人とも無言で抱き合って。
こんなにあったかいのに、なんでもう会えないの?
その言葉は、決して私の口からこぼれることはなかった。
そのまま二人は、黙って帰る用意をして。
結局住所も聞けずじまい。
それでもなんとか、ライン交換だけはした。
何もかもなくすことだけは、考えられなかったから。
「3番テーブル、お水お願いします」
「ついでに4番、ドリンクお願い」
黙々と仕事をこなす。
言われた業務を終え、ついでに目に入った乱れたテーブルをきちんとセットしなおせる程度には、私は冷静だ。
仕事での動きは、無意識下のうちに身についている。
エプロンのポケットに布巾をしまう。
テーブルから目をあげて、周囲をチェック。
よし大丈夫。そう思った直後に、しまったと思った。
ふと目に入る観葉植物に意識を持っていかれそうになるから。
緑を愛し、家族を愛し、私を愛したどんくさいダイ。
会えない、と言われて、分かりました、と引き下がれるほど、私のダイへの思いは軽くはない。
たぶん、ダイだって。
それはあの日、久しぶりに会ってご飯を食べて、いやというほど理解した。
失くしていた大事なものを見つけた、そんなダイの感情を肌で感じたから。
それでも、ダイが意味のない言葉を発さないことは、誰より私が一番よく分かっているのだ。
だから、会えないという気持ちは、どれだけ泣いていたとしても本物だ。
どんな理由から放った言葉だったとしても、簡単に受け流すこともできない。
そんなわけで、今の私はダイと付かず離れずの距離感を保っている。
なんともモヤモヤした気持ちを抱えたまま、ラインでのやり取りだけを続けている状態だ。
「おはよう」
「昨日は久しぶりにあったかかったね」
「いつも会う野良猫が今日はいなかった」
そんな、どうでもいいような私のメッセージに、
「昨日遅かったからまだ眠い」
「今日は道端に小さな花を見つけたよ」
「あのお店のかぼちゃの煮つけ、おいしかったね」
律儀にも、どうでもいいような返事を返してくる。
せっかく会えた。
この奇跡みたいな関係を全く途絶えてしまいたくはないけれど、ここからどうしていけばいいのかわからない。
ダイとの距離の詰め方を、今の私に知るすべはないのだ。
いつでも、切れる寸前の糸を必死に手繰り寄せている。
決して手放さないように。
会えなくても、確かなダイの存在を感じ取れるように。
「お会計お願いします」
「はい、少々お待ちください」
レジに駆け寄り、金額を打ち込む。
おいしいものを食べて、満足そうなお客さんの顔。
このために私はここで働いているんだ、そう思わせてくれる顔。
強がったり弱ったり、ぐちゃぐちゃになった心をまっすぐに戻してくれるこの瞬間が好きだ。
「お二人様合わせまして、2200円です」
私たちは、この金額に見合うだけの、いやそれ以上の時間を提供できましたか?
私の無言の問いかけに、笑顔で応えてくれる。
「ありがとうございました」
よし、今日もちゃんと幸せを提供できている。
それでもどうしても、心は晴れなくて。
どんなにいつもの日常を演じていても、時は淡々と流れ、過ぎていく。
そしてまた、ダイに会える日が来る。
今の私は、2週間に1度訪れる観葉植物を抱えたダイとの出会いが、待ち遠しくて恐ろしくてたまらない。
店の人間と、そこに訪れる業者さんという関係でなら、ラインなんかじゃなく本物のダイを見られるから。
そして、その本物から、もう顔も見たくないなんて言われたら、私はしばらく立ち直れないと思うから。
どうにも弱気な自分が消えない。
会えない、と言ったときのあの涙の意味を知りたい。
「どしたー?なんか浮かない顔してるけど」
昼休み、相変わらず頭の中でぐるぐると考え事を繰り返していた私に、菜々さんが話し掛けてきた。
自由で奔放、職場では常にそんな立ち位置にいる菜々さんだけれど、周りの人間のことを非常によく見ている。
過去から今まで、いろいろあった私は、この菜々さんの観察眼にこれまでかなり助けられてきた。
「菜々さん…」
柔らかくほほえんだ菜々さんは、優しい口調で鋭く切り込んでくるのだ。
「察するに、植木屋のボク関係かと思うんだけど」
「…相変わらず容赦ないですね」
菜々さんはいつでも直球だ。
「彼が、例の幼馴染みてことでいいんだよね?」
「はい。まさしくそうです」
菜々さんには、私の過去をあらかた話してあった。
というか、気づいたら話さされていた、といった方が正しいか。
要は、私に何かあると踏んだ菜々さんが、知らない間に私の気持ちの捌け口としててを差しのべていてくれた、ということだろう。
「で、彼となんかあったの?」
「…あったというか、なかったというか…」
自分でもどうしていいのか分からない煮えきらない思いを、どう話せばいいのか。
「順番とか、どうでもいいよ。思い付くまま話してみ」
菜々さんはこうやって、いつも私を甘やかす。
申し訳ないような気持ちになりながらも、ついその優しさに甘えてしまうのだ。
「そか、言われちゃったか…」
「…言われちゃいましたね…」
あの日言われた「もう会えない」は、小さいのに鋭い刃物みたいに胸を刺し、今でも私の胸からはじわじわ血が流れている。
痛いな、単純にそう思う。
刺し傷、切り傷、擦過傷。
菜々さんに話しながら、改めてその痛みを実感する。
「キョウちゃんの話からすると、たぶん会えないと思ってるのは彼の本音なんだろうね」
「ですよね…」
わかっている事実を告げられるだけでも胸が痛い。
「キョウちゃん、そんな痛そうな顔しないで」
よっぽどひどい顔をしていたのか、菜々さんに頬をふんわり包まれた。
じんわり伝わってくる菜々さんの体温が暖かい。
「会えないっていうのは本当かもしれない。嘘がつけない彼がそう言ってるんだからね」
菜々さんのやさしい声は、私の傷に柔らかく染み透り、痛みが徐々に引いていくような気がする。
「でも、どんな理由があるとしても、それが彼がキョウちゃんに会いたくないと思ってる証拠にはならないでしょ」
その言葉にはっとした。
そっか、会えないと会いたくないは、全然違う。
ダイは、会えない、とは言ったけれど、会いたくないとは言わなかった。
「彼、何か会えない理由があってそんなこと言ったんだと思うよ。だぶん、キョウちゃんにも言いづらい何か。じゃないと、仕事のあとに会う約束なんてしなかったと思うよ」
あまりにもいっぱいいっぱいになりすぎて、そんなことにも気づかなかった。
たしかにダイは、嫌だったり本気で無理だと思ったことを、うわべだけの感情でできるような器用な人間ではない。
「だから、信じてあげて。彼と、彼を信じてきた自分を」
じわじわと目の周りが熱くなる。
言われて初めて分かる、単純なこと。
ただ、信じればいいんだ。ダイと、ダイを信じてきた自分自身を。
「…菜々さん」
ぐちゃぐちゃの鼻声で呼ぶ。
「ん?」
「ありがと、ございます」
切れ切れにつぶやけば、
「どういたしまして」
明るい顔の菜々さんが、ぐしゃぐしゃと頭を撫でてくれた。
うん、信じるよ。
会いたい思いを大切に大切に抱えて。
ただダイのことを思うよ。
大丈夫。10年間待ってきたんだから。
ただダイが生きているだけで、私は幸せなんだ。
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