第7話 涙
「この唐揚げすっごくおいしいね。あ、このかぼちゃも」
私はダイを、私を拾って働かせてくれたあの料理屋に連れて行った。
ゆっくり話せてごはんもおいしくて、そして何より自分が自分でいられる場所へ。
案の定ダイは出される料理すべてにおいしい!を連発し、本当に嬉しそうに食べていた。
私は私で、どうしようもなく揺らいだ感情をすっとなだめてくれるこの空間に安心していた。
「どっちも店長の自慢料理だからね」
「分かる。めちゃめちゃおいしいもん」
ダイはどんどん食べ進めていく。
つやつやのお米、あたたかいおかず。
伸びる箸は、どこか弾んでいて。
それを見ている今が、どうしようもなく幸せだった。
そういえば、ダイと待ち合わせをするのは初めてだったかもしれない。
わざわざ待ち合わせなんてしなくても、だいたいの時を一緒に過ごしていたから。
どんなときも気がつけばベランダ越しに隣にいた。
「キョウちゃん」
少しハスキー気味の、それでもとても私を落ち着かせる声でダイは呼ぶ。
それは口の中でホロリと溶けてしまうラムネ菓子のように甘くてとても柔らかい。
その時をとても特別なことのように感じながら、それでも当たり前のような顔をして、私は平然と受け止めるのだ。
「もう日が暮れるね」
「そうだね」
そんな何気ない会話を繰り返し、お互いが自分の存在を確かめる。
自宅で自身の存在を認められていない私にとって、ダイとの時間が自らの生存確認のようなものだった。
私はここにいていいんだ、そう感じられる時間。
夕暮れはいつもそんな二人のそばにいた。
そして今日。夕暮れ時に。
10年の時が経ち、私たちは初めて待ち合わせをした。
初めてお店で一緒にご飯を食べた。
あの頃と変わらないように見える夕暮れの中にいるのに、私たちは確かに別々の時を過ごしてきた。
この10年で変わった私たちは、これから一体どうなっていくのだろう。
「キョウちゃんどうしたの?もうお腹一杯になった?」
考え事をしていたせいで箸の止まってしまった私に、不思議そうな顔をするダイ。
その顔だけは、あの頃と同じで笑ってしまう。
「ん?」
突然笑った私に不思議そうな目線をよこす。
「何でもないよ」
普通を装いながら、あの頃と変わらないダイを心の中では必死に探しているなんて、言えない。
「…キョウちゃんはここで暮らしていたんだね」
料理をあらかた食べつくして、奥さんが常連さんにしか出さないとっておきのプリンを持ってきてくれたころ、ダイはつぶやいた。
「そうだよ」
懐かしい日々。
私が私自身を取り戻した日々。
「何て言うんだろう…」
ダイは簡単に言葉を発さない。
自分の中でしっかり考え、己の感情にぴったり合う言葉を見つけてから口にする。
だから私は、会話の中で訪れるこういった沈黙が決して苦ではなかった。
「…がんばった、んだね」
しばらくの間ののちつぶやいたのはそんな言葉で。
「…うん。そうかも」
そうか、頑張ったんだ、私。
必死に家から逃げて、働いて。
無我夢中で生きてきたから、そんなこと考えもしなかったけれど。
私は、頑張れていたんだね。
「…泣かないで、キョウちゃん」
言われて初めて、自分が泣いているのに気が付いた。
「だって…」
ダイが頑張ったねって言ってくれたから。
って言いたいのに言えなくて。
次から次に流れる涙が悔しくて、うつむいてしまう。
そんな私に、ダイは静かに寄り添ってくれた。
「えらかったね」
頭を優しく撫でてくれる。
その手があまりにあたたかくて。
それだけで、私のこの10年が報われた気がした。
プリンとコーヒーをゆっくり飲みながら、ほんの少し気持ちが落ち着いてきた。
よく考えれば、私たち離れていた時間をお互いにまだ知らなすぎる。
「ダイは…どうだったの?」
ゆっくり問いかけてみると、ダイは少し寂しそうに笑った。
その表情がどうにも気になって、私はダイから目を逸らせない。
優しいダイは、自分の負の感情をすぐ隠してしまうから。
「…いろいろ、あったよ」
そうつぶやいて、冷めたコーヒーに口をつける。
「…おじさんとおばさんは、元気?」
このことは、本当に聞くのが怖かった。
あの頃から病弱だったおばさん。
「母は、亡くなったよ。あれから結構すぐに」
さらっと告げられた事実が切ない。
「そうだったんだ…」
「病気は少しずつ良くなっていってたんだけどね。向こうで入院した病院で、医療事故があって」
まさかの事実に愕然とする。
「そんな…」
病気は良くなっていたのに、医療事故で命を落とすなんて。
「始めは信じられなかったよ。なんで、って。ずーっとなんでって思ってた」
ダイの紡ぐ言葉に、頷くしかできなくて。
「でも、原因が病気でも事故でも、母さんがいなくなった事実は変わりない。それは受け入れるしかなかったんだ」
淡々と話すダイだけれど、そのときの哀しみ、悔しさ、葛藤などがその言葉の端々ににじみ出ていた。
優しかったおばさん。
病気と闘いながら、それでも精一杯ダイを愛してくれていたおばさん。
「…ツラかったね」
「うん。ツラかった。母さんがいなくなったのももちろんツラかったけど、その後が…」
そこまで言って、ダイはまたコーヒーを口に含む。
きっと、言いたくないことなんだろう。
言いたくないくらい、ひどいことがダイの10年にはあったんだろう。
「やっぱり、理由が理由だけに、いろいろあったんだよ。病院側とのやりとりとか。僕は子どもだったから、詳しくは分からなかったけど」
少し悔しそうに言う。
そういう子だ。ダイは。
自分の大切な人が大変な目にあっているのを黙って見ていられない。
自分も一緒に巻き込まれたいんだ。
ツラさを分かち合いたいから。
できるだけ自分だけがツラさを引き受けたいから。
本当はおばさんの死だけでもツラかったはずなのに、その後のゴタゴタをおじさんだけに引き受けさせてしまったと、ひどく後悔している。
そんな気の回し方が、あまりにもダイだった。
「おじさんも、ツラかったね」
「そうだね。そのせいか、そこから父もちょっと崩れちゃって」
「え?おじさんまで?」
そこは正直考えてもみなかった。
いつだっておじさんは、私の前では優しくて大きかったから。
「すごくショックだったんだろうね、父さんも。母さんがいなくなったこともだし、裁判とか示談とか、いろんな汚い部分も見てきたみたいだから」
真っ直ぐで正義感の強いおじさんには、おばさんの医療事故というものはあまりにも重かったのかもしれない。
「で、おじさんは今は?」
「入院してる」
「え、大丈夫なの?」
「まあ。急を要するようなことはないんだけど」
なんとなく言葉を濁すダイを不審に思いながらも、無言で続きを促す。
「それでもなかなか、本調子とは行かなくて」
「そうなの…」
そんなおじさんを抱えて、ダイも大変な思いをしてきたんだろうな。
そう思うけれど、決してそれを口には出さない。
自分がおじさんを重荷に感じているように見えること、絶対に彼は許さないだろうから。
私はそっとダイのそばへ近付く。
身長は随分差を付けられたけれど、座っている今はほとんど関係ないから。
静かに手を伸ばし、頭を撫でる。
さっき、ダイが私にしてくれたみたいに優しく。
「頑張ったね」
意外と柔らかいダイの髪。
「…キョウちゃん」
「頑張ったよ」
私のことを頑張ったと言ってくれるなら、それはダイの方こそそうだ。
始めから一人だった私なんかより、愛する母を亡くしたダイの方がツラかっただろうに。
「…真っ直ぐ、歩いてきたんだね」
道を外れることなく。
おばさんの思い出と、弱ってしまったおじさんを守りながら。
「そっか…頑張ったんだね」
今初めて気づいたかのように、ダイはつぶやいた。
「頑張れてたんだね、僕」
当人は、必死すぎて気づかない。
自分がどれだけ頑張ったのか、どれだけ闘ってきたのか。
ぽろぽろこぼれ落ちる涙を、指でそっと拭ってみる。
これで、私がダイの泣ける場所になれればいいのに。
「これからは、泣いてよ。自分の中に溜め込まずに」
それは私の切実な願い。
優しいこの子には、これ以上苦しまないでほしいから。
それなのに。
聞こえてきた声に、私は言葉を失った。
「ありがと。でも、もう、会えない…」
時が止まった気がした。
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