第6話 抱擁
17時に早番の仕事を終えて、外に出る。
傾きかけた陽は周りの景色を揺らしながら包み、今日の日の終わりを知らせる。
いつもなら無事一日の仕事を終えてほっとしている時間。
それでも、今日の私にほっとする間はなかった。
ダイに会える。
ずっと離れていた私の半身に、ついに会えるのだ。
それなのに、嬉しさと恐怖。私の中を占めているのはそんな二つの感情で。
あと2時間という時間が、長いのか短いのか、そんなことすらもう分からない。
あのドタバタのさなか、ダイの仕事が18時に終わるとなんとか聞き出して設定した19時という時間。
それまでのこの中途半端な時の中にあって私は、その瞬間が来てほしくてたまらないと同時に逃げ出したくてたまらないのだ。
一体いつから、私はこんなに臆病になったんだろう。
ブレる感情を抑えるため、深呼吸を一つ。
見慣れた道をなんとなく歩いて、時間潰しのためのカフェを探すことにした。
カフェで働いているというのに、仕事あとにまた別のカフェに行くというのは、なんだか妙な感じだ。
それでも、勉強もかねて、様々なタイプのお店に行くのはよくあることで。
自分自身が同業に深く関わっている分、思いもよらないアイディアや素晴らしい接客に出会えると、さらに新鮮な気持ちで仕事に取り組めるものだ。
そんなことを言いつつ、今日はただ、ダイと改めて会う前に自分の気持ちを落ち着かせたい、それだけだったのだけれど。
ゆっくりと、いつも使っている道よりも1本中に入った道に入る。
時間に余裕のあるとき、あまり使うことのない道を通るのは、私の趣味だ。
普段とは違う表情がそこにはあって、どことなくくすぐったい。
新しく好きになれる景色が増えるのも、違う道にいつもの道と同じ花が咲いているのを見つけるのも、私の楽しみだった。
そして、今日の収穫はカフェだ。
こじんまりとした、それでもきれいなカフェは落ち着いていて、とても私好みだった。
今日は少し疲れたから甘いもの。そして緊張をほぐすためにも暖かいものがほしくて、ロイヤルミルクティーを頼む。
持ってきてくれたおしぼりのぬくもりが、ほんの少し、緊張を解いてくれたような気がした。
ガラス窓から徐々に暮れていく空を見る。
時間の流れをゆったりと見つめるのが、なんだか懐かしい。
夕暮れは、即ちダイとの思い出だ。
思えば私たちは、こうしていくつもの夜を共に迎えてきた。
嬉しかったこと、哀しかったこと、それらを語ったり、黙ったままで何かを汲み取ったり。
物悲しいはずの夕暮れは、ダイの隣にいることであたたかい居場所となった。
それをなくしてから、夕暮れはただ思い出が詰まったせつないものとなったのだけれど。
今こうして見る夕暮れは、寂しい?哀しい?温かい?
それすらもう、私には決められないでいる。
ぐらぐらの思いはそのままに、時間だけが過ぎていく。
「何にしろ、」
空になったカップを両手で挟んで、小声でつぶやく。
「今日で何かが変わる」
それは、理論とか理屈ではない、ただの直感。そして限りなく真実に近い私の確信だった。
今日一日でお気に入りとなった店を出て、来た道をぶらぶら歩く。
できればもう一度、こんなに不安定な時ではなく落ち着いたときに来たいお店だったなぁ、なんて思いながら。
この調子なら、10分前には店の前に着くだろう。
すっかり群青色に覆われたこの道で、私はようやく今のダイと向き合う決心をつけるのだった。
そろそろ店の前にたどり着きそうだと思ったのは、予想通りちょうど19時の10分前。
ふ、と軽く息をついて、店の扉を見る。
見慣れたはずの扉は、なぜか新しい表情をしているように見える。
そして扉の前には、一つの人影があった。
「…ダイ」
震える声は、ほとんど声にならない。
朝見た制服姿とはひと味違う、緩めのグレーのパーカーにジーパンの、ラフな姿。
記憶よりもずいぶん背が高くなって、それでも記憶にある通り猫背のダイ。
ダイがいる。ここにいる。
「ダイ!」
カラカラの喉から振り絞るように声を出せば、それは思いの外よく通った。
「キョウちゃん!」
こちらを見て目を細めるダイ。
ああ、この顔。この声。
10年間、私に足りなかったもの。
思わず駆け寄って飛び付く。
目の前は職場なんだけど、そんなことはもうどうでもよかった。
明日いじられるだろうことは簡単に想像できるけれど、今は知らない。
そんな必死な私に、ダイは少し驚いたようにこちらを見たけれど、昔みたいに暖かい笑顔でやさしくハグしてくれた。
そう、このぬくもり。
いつも私の寂しさを包み込んでくれていたこの体温。
10年の月日を取り戻すように、全身でダイを吸収する。
近くで見ると、ダイは本当に大きくなっていた。
隣に並んで、ほとんど同じ目線で同じものを見ていたあの頃とは違う。
少しひょろっこいけれど、しっかりした腕の太さとか、堅い胸とか、そんないくつもの今のダイを形作るモノたちが、会えなかった時を思わせる。
もう立派に、男の子から男の人に成長したんだなぁ、なんて。
その変化をこの目で見られなかったことが、どうにも悔しい。
「変わらないね、キョウちゃん」
私の心のなかを見透かしたのかなんなのか、そんなことを言う。
「そうかな」
「うん。昔のまま、やさしい女の子だ」
ダイは昔からたまに、こちらが恥ずかしくなるようなまっすぐな誉め言葉を、何のてらいもなく繰り出してくる。そんなところは全然変わってないんだけど。
「…ダイは、変わったよ」
「そうかな」
「うん。いつの間にか、立派な男の人になった」
今度はダイが黙る番だった。
「久しぶりだね」
しばらくの無言のあと、懐かしい声でダイは言う。
記憶より低くなったけれど、耳に馴染む声。
「10年だよ」
「10年だね」
「ダイ…」
「何?」
「…会いたかった」
ついに言ってしまった。ずっとずっと抱えてきた本音。
突き詰めてみるとこの10年、私の中にはその感情しかなかった。
それでも、この思いが否定されてしまったら。
もし、会いたいと思っていたのが自分だけだったら。
そう思うとすぐには言えなかったのだ。たった一言、会いたかったという言葉を。
それでも、やっぱり伝えずにはいられなくて。
ダイの言葉を、少し怯えながら待つ。
不意に私を抱き締める腕に、力がこもった。
「僕も」
聞こえないくらい小さい声でダイは言う。
「この10年間、いつでも会いたかった…」
途切れそうな声が震えていて、私はダイが泣いていることを知る。
良かった。
会いたかったのは、私だけじゃなかった。
ダイもずっと、会いたいと思ってくれていた。
うれしい。
離れていても同じことを思っていたのだ、と思うと胸がいっぱいになる。
本当は「男が泣いてんじゃないよ!」なんて茶化してやりたいけれど。
それでも、自分もダイの胸の辺りをじっとり濡らしている自覚があるので何も言えない。
無言で抱きついたまま、もうどれくらい時間がたっただろう。
すっかり空は夜の色に染まっていて、ひとつふたつ星も輝きだしている。
ダイに会えたらあれを言おう。これも言って、このことも伝えなきゃ。
昨日まで、繰り返し思っていたことは、いまだ何一つ実現できていないまま、時間だけが過ぎていく。
今の私は、体ごとダイを受け止めることでもう精一杯で、たぶんダイもそう。
それでも、今はこれでいいんだ。
話なら、きっとこれからいくらでもできる。
だから今は、このままで。
会えなかった時間を、二人の涙で埋めていく。
今日の夕暮れはいつもより何倍も優しくて、いい年をしてボロ泣きしている二人を黙ったまま包んでくれていた。
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