第5話 予感

昔、家の近くの公園で、四つ葉のクローバーを探したことがあった。

「四つ葉のクローバーを見つけたら、幸せになれるんだって」

絵本を抱え、キラキラした目で私を見てきたダイに、私が言えたのはたった一つ。

「じゃあ、探しにいこうか」


私たちはたぶん、人より「幸せ」という言葉に敏感だったんだと思う。

その頃からすでに、私は私に興味のない両親のもとで足掻いていたし、ダイはいつ治るとも分からないお母さんの病気への不安が爆発しかけていたから。


そんな家庭に育つ私たちが、屈託なく明るい子として育つことなんて当然なくて。

二人は地味で目立たず、いるかいないか分からないクラスメイト。そういう立ち位置で日々暮らしていた。

そのうえダイは、持ち前のどんくささで、標的にされやすい子だった。


今思うに、ダイは純粋すぎたのだ。

人の悪意に鈍感で、悪い人間なんていないと思っている。

ちょっと笑顔で近づいてくるような人がいれば、それはすべて「いい人」だと思ってしまう。

さらに、ほんの少し不器用で運動神経も良くなかったから、いつもの同じ毎日に飽きた子供たちからは、格好の標的となった。


突き飛ばされて泥だらけになったダイを助けたのは何度あっただろう。

隠された教科書を一緒に探したり、土に埋められた上靴を一緒に掘り出したり。

それなのに、ダイはいつも笑って言うのだ。

「こんなこと思い付くなんて、すごいね」と。

その言葉を聞くたび、私は一人で唇を噛み締めた。

悔しがっていない本人以上に怒りを表明することなんてできなくて。

そして思うのだ。

この優しい友人が、これ以上傷つきませんように、と。

せめてダイの大好きな家族が、健康で幸せでありますように、と。


私のこのささやかな祈りは聞き届けられることなかったけれど、それでもダイはやっぱり笑っていて。

そんなダイのそばにいたい、という無意識の思いが私の心に根を張ったのは、きっとこの頃だと思う。

そして私たちは、この頃から「幸せ」に対して敏感な子供になったのだ。


クラスの間で広まるおまじないや占い、幸せにまつわる様々な噂話。

子供たちの中では数限りないこの類いの話があって。

それらを興味がないような顔をしながらも決して聞き逃しはしない。

家に帰ってはこっそり試してみる日々だった。

そんな中、ダイが見つけてきた四つ葉のクローバーの話。

それは私たちの心を捉えるには十分だった。


早速公園へ走っていった私たちは、公園の裏側のたくさん草花が咲いている場所へと向かった。

いつも通りダイはどんくさくて、途中何回も草に足をとられて転びそうになっては私に掴まってきた。

私はそんなダイを支えながら、同じペースで足を進める。

たくさんの草の中から四つ葉のクローバーを見つけるなんて本当に至難の技で、それでも諦めることなんてまったく考えていなくて、私たちは二人とも泥だらけになりながら公園に這いつくばっていた。

「ねえキョウちゃん」

「なに?」

「僕この場所好きだよ」

泥々の笑顔で笑う。

「なんで?」

「草とか花とか、好きなんだ。ここにはこんなにいっぱいある」

確かにここは、私たちが迷うことなくクローバー探しのために選んだ場所だ。雑草たちが生い茂っている。

「それに、」

ダイはなんとなく赤くなって微笑んだ。

「大好きな草花に囲まれて、大好きなキョウちゃんと一緒に幸せの種を探せる、この場所が好きなんだ」

二人の間に生暖かい風が吹き抜けていく。

ほんの少し緑の匂いが混ざったその風が、ほんのり熱に染まった私の頬を撫でていった。

「…私もだよ」

ちょっと恥ずかしくて、小さな声になってしまう。

「私も、ダイと幸せを探すの、好きだよ」

目も合わせられずにそんなことを言った私の手を、ダイの泥だらけの手が包む。

「見つけたいね」

「…見つけようね」

「もうちょっと、頑張ろうか」

「うん、あとちょっと頑張れる」

二人で手を取り合って、また奥の方へ進むのだった。


あのとき、結局四つ葉のクローバーが見つかったのか、いつまであの公園で探していたのか、何一つ覚えていない。

徐々に傾いていった陽が柔らかいオレンジ色で私たちを包んでいくときのあの穏やかさと。

かすかに見えてきた夜の群青が少しずつ空を埋めていくあの心もとなさと。

私の中にあるのは、そんな曖昧な光景で。


それでもあのときのダイの言葉、あのときの風の温度、緑の匂い。

それだけは今でもはっきり思い出せる。

私にとって、いつもの日常。それなのにあまりにも特別な日常。

だってこの思い出こそがダイそのものだったから。

愛とぬくもりに溢れたやさしい少年。

私の唯一の家族。


もし今再びダイと出会えたら。

そしてそのとき、あのときのダイの面影がすべて失われていたら。

私はそれが怖かった。

ダイそのものであるこんな温かな思い出さえも失われてしまう気がして。

この恐怖はいつでも私につきまとっていた。

ダイのことを思うとき。夢をみたとき。

懐かしい喜びを感じると共に失う恐怖。

この両極端な感情が、ひどく悲しくて。


それでも今分かったこと。

ダイが、あの頃と変わらず緑が好きだったこと。

ダイが、あの頃と変わらずどんくさかったこと。


ダイは、やっぱりダイだった。


そしてその事実は、私を非常に温めてくれたのだった。



「岩田さん、あの子と知り合いだったんですね」

忙しいピークの時間を越え、奥の更衣室で遅めの昼休みをとっていたとき。

優衣ちゃんがふいに話しかけてきた。

立ちっぱなしでダルい足を投げ出し、ロッカーにもたれながら。

賄いのサンドイッチを二人して頬張る。

やっぱりこのカフェのサンドイッチはおいしい。

野菜が新鮮でみずみずしくて。

「どんな関係なんですか」

優衣ちゃんの言葉は、現実逃避気味だった私の頭にぐいぐい食い込んでくる。


きっと、ずっと気になっていたんだろう。

あの水のドタバタからすぐ営業時間になだれ込んで、なぜかいつもよりたくさんのお客さんがやってきたから、仕事の要件以外は全く話せていなかった。

「昔、家が隣で。幼馴染みだったんだ」

人にダイのことを語るとき、私はこれ以外の言葉を知らない。

自分の半身だなんて、そんなことほかの人には何のことか分からないだろうから。

「そうなんですねぇ。こんなところで再会するなんて、なんかドラマチックですね」

明るく言う優衣ちゃんの言葉は、今日一日ずっと思っていたことだった。


会いたい、と思っていた。

この10年、毎日毎日飽きることなくダイを求めていた。

それでも、まさか会えるとは思っていなかった。

しかもこんな、自分のテリトリーとも言える場所で。

再会の日が来るなんて、全く現実味を帯びていないことだったのに。

まるでドラマみたい。

あまりにも嘘臭くて自分でも信じられない。


「連絡先、聞いたんですか?」

「うん。一応」

ものすごくバタバタした中での再会は、何もドラマチックなことなんてなかったけれど、この機会を逃すわけにはいかなかった。

私の、常に体の半分が寒かったこの10年という年月にかけて。

「19時、この店の前で」

そう発するのが精一杯だった。

戸惑うように瞳を揺らしながら頷いたダイの横顔。


「よかった。じゃあ、また会えますね!」

まるで自分の事のように喜ぶ優衣ちゃんは、本当に優しい子だ。

私とダイの再会を、ひどく美しいもののように思っている。


それでも。


「…そうだね」

どことなく、この事実を手放しで喜べない自分がいる。

こんなに待ちわびた日に、どこかそこはかとない不安を覚えるなんて。

自分で自分が分からない。

ダイがやっぱりダイだった、と再確認したのと同じ頭が、なぜかこの再会に警鐘のベルを鳴らすのだ。

本当に、いいの?

これで、いいの?と。


そして、その予感が、ひどく哀しい現実として二人に押し寄せることを私はまだ知らなかった。

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