第3話 祈り

「おはようございます」

そう声を掛けて、返ってくるぬくもりの心地よさ。

それを私は家を飛び出して始めて知った。


店のドアを開けると、仲間の二人はもう中にいたようだ。

「岩田さん、おはようございます」

「おはよ、キョウちゃん」

本日の早番仲間、優衣ちゃんと菜々さんの明るい声が帰ってくる。

この声があるから、私は誰かと共に働くのを好むのかもしれない。


「あー、早番眠いわ…」

心底ダルそうに、それでも着替えの手は休めず菜々さんは言う。

「もう、菜々さん早番だとそればっか」

最年少の優衣ちゃんは、まるで年上みたいにそう言って、少しゆがんだ菜々さんのエプロンのリボンをなおしてあげる。

「私は低血圧なの」

「ほら、岩田さん見習ってくださいよー。いつもシャンとしてるじゃないですか。ねぇ」

菜々さんの背中を軽く叩きながら急に振ってくる優衣ちゃんに、とりあえず笑っておく。


優衣ちゃんは入って間がないから、私の面倒くさかった過去のアレコレを何も知らない。

私としては、取り立ててシャンとしてきるつもりはないものの、幼いうちから早番どころか住み込んで朝から晩まで働いていたため、朝でも夜でもどんとこいだ。


「えー、キョウちゃんたぶん高血圧なんじゃないのー」

何かと事情を知っている菜々さんは、テキトーなことを言ってはぐらかしてくれる。

別に知られたくないわけでもないが、朝のすがすがしいときに話す話題でもないし、こういうさり気ない菜々さんの気遣いは本当にありがたい。

せっかくなので、この軽いノリに乗っからせてもらおう。

「人のこと勝手に生活習慣病にしないでくださいよ。ほら、掃除始めますよ」

二人の会話に軽く返し、流れる朝の緩い空気を仕事モードに切り替えた。


心地良い距離感と、いちいち説明しなくてもそれぞれがそれぞれの仕事をする無言の連携。ここに来るたび、本当にいい場所に出逢えたなぁ、と思う。

料理屋を辞めてすぐ、この店に出逢えたのは私にとって数少ない幸せのうちの一つだった。

経験が買われて受け入れてもらったこの店だけれど、何よりその、皆が自分の意志で仕事を見つけこなしていくというこの店の雰囲気が私に合っていた。

独りだった私を受け入れてくれたあの料理屋のように、今ではこのカフェも私の大切な居場所になっている。


ああいう幼少期を過ごしたせいか、私は人との距離の取り方がヘタクソだ。

パーソナルスペースが狭い人は限りなく苦手で、必要以上に距離をとってしまう。

実の親にとてつもない距離を置かれていたのだ。そういう感覚が捻れてしまっても仕方ないんだろう、と自分の中では結論付けている。


それでもそういう性質は、学校という社会の中ではものすごく不利に働く。

子どもは、それも女子にとっては特に、軽いスキンシップなんて日常茶飯事で、それを苦手と思ってしまっては、もう女子という群れの中では暮らせない。

群れをはぐれた羊の末路は哀れなものだ。

オオカミの恐怖に一人晒されながら、必死に生き延びるしかないのだ。


私は大半の時間を気配を消して、ただひたすら時が過ぎるのを待っていた。

学校でも家でも、やってることは何一つ変わらない。

なんでこんなことしてるのだろう。そう思わなくもなかったけれど。


なんで大して知らない相手と一緒にお弁当を食べないといけないのか。

なんで自分のタイミングでもないのに一緒にトイレに立たなければならないのか。

人は簡単に裏切るものだ。

ひどく冷淡で、残酷にも簡単に人の存在を否定する。

それなのに、なんで物理的にくっつきたがるのだろう。

そんなことを思っている人間に、友達なんて出来やしない。


だから、私にとっての友達は、いつでもただ一人ダイだけだったのだ。


それが今。

ひどくさっぱりした気性の菜々さんと、年下だけれどしっかりした優衣ちゃん。

一番一緒に仕事することの多い二人の持っている距離感は、私にとって本当に心地のいい感覚で。

そのほかのみんなも、それぞれが自由でとても優しい。

私のことを群れの一人ではなく、ただの岩田京佳として見てくれる。

私が私として存在して良いんだ、と思わせてくれる。

ここにいても大丈夫だ、と無言で示してくれる。


こんなに幸せでいいんだろうか。

否定され続けてきた私は、どうしても疑ってしまう。

いつかまたこの生活がひっくり返される日がくるのだろうか。また存在を殺しながら生きる日がくるのだろうか、と。

でもそれを思うともう一歩も進めなくなるから。

だから私は、一切の疑心暗鬼を無理やりにも捨て去って、ただ今と向き合おうと思うのだ。


それでも、どうしても考えてしまうことがある。

あとここに、ダイさえいれば、と。

ダイさえここにいてくれれば、私の世界は完璧なのに。

私の穴ぼこは、常にダイのものだった。

この穴は、ひどく優しくてせつない。

足りない半身を、どうしたって求めてしまう。


そこまで思って、私は軽く首を振る。

そんなに望んでしまってはいけない。

ダイがあの頃居てくれたからこそ生き延びて来られた。

もう、それで充分なのだ。

今も消えないダイの記憶が私の中にあること。

それ以上に何を望むと言うのだろう。


こんなこと考えるから、ダイのそっくりさんなんて見てしまうんだ。私は少し苦笑する。

さっきのは、私の弱さが見せた幻。

夢も見るし幻も見るし、最近どうにもしまらない。

ダメだなー。

ちょっとダイのことを思うだけで、こんなにも弱く、そして強くなる。

それでも、いつかダイと会うその日のため。

ダイの半身である私はこんなにも毎日満たされてるんだ、そう伝えたいから。


入り口付近の多肉植物たちに水をあげながら、外を見やる。

小さい雲が一つ二つと青の中をゆっくり流れていく。私の理想の空。

あまりに晴れすぎた空は、純粋すぎて怖くなるから。

ふわふわと、風に乗る雲の行き先を想像して、なんとなく楽しくなる。

流れに身を任せていたら、良いところに辿り着くかもしれない。まるで私みたいに。


「キョウちゃーん、そろそろ仕込み入るよ~」

少しぼーっとしてしまっていた私は、明るい菜々さんの声に現実に戻される。

よし、おいしいものを作ろう。

一口食べたら、あたたかく元気な気持ちになるような。

この空と、このカフェのような優しい味の、おいしいものを。


料理は好きだ。

作っていると無心になれるし、何より食べた人が幸せな顔になるのがいい。

あの頃、ダイの家の食卓で。

私の得られなかった家族の温もりは、すべてそこで与えられた。

不器用だけれどやさしい味のごはんをたくさん作ってくれるおじさん。

元気なときには起き出して、キレイでおいしいお菓子を作ってくれたおばさん。

そして、笑顔でそれを食べるダイ。

いいなぁ、心の底からそう思っていた。

これが家族なんだ、なんて小学校低学年の私は妙に納得したものだ。

そして、その中にごく自然に招き入れてくれるダイの家族がとても好きだった。


あの感覚。

私が料理に求めるのは、まさにあのときの感覚だ。

少しでも近づけるように。

お金で提供される料理たちでも、しっかり心をあたためてくれる料理を作りたい。

だから、私は仕込みの段階から腕に思いを込める。

勝手な思いだということは分かっているけれど、本能的にもうそうせざるを得ないのだ。


「ほんと岩田さん、料理好きですねぇ」

感嘆するかのように優衣ちゃんは言う。

「うーん、好きだけど…」

好きと言うか、なんというか。


たぶんこれは、私にとって祈りだ。


誰もがあたたかい食事をとれますように。

愛する人も憎い人も、幸せな子どもも寂しい子どもも、みんな。


「ほら優衣、キョウちゃんにからんでないで、そこのボール取って」

きびきびと菜々さんが告げる。

「はーい」

優衣ちゃんはすばやく冷蔵庫からボールを取りだし菜々さんに渡す。

ほら、この流れももうあたたかい。


私の無言の祈りは、今日も続く。

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