第2話 夢と幻

久しぶりに夢を見た。

ダイと別れる最後の夜の夢。

夢は夢だけど、その夢はまさしく現実に起こった出来事で。

あの静かで濃密で、もうこれで死んでもいいと思うくらいの夜を、あれ以降経験したことはない。


あれから10年。

ダイと過ごしたのと同じだけの時を私は独りで過ごしてきた。


中学を出ると同時に家を飛び出し、話の分かる料理屋の店主に頼み込んで住み込みで働いて。

たった15才での住み込み仕事は大変だったし、途中からは通信制の高校で勉強も始めたため、かなりハードな日々だったけれど、存在を認められない実家での暮らしを思うとそこは天国だった。


だってここに私は確かに存在していたから。


忙しいときは「キョウちゃん、手伝って!」と声が掛かる。

暇になれば「キョウちゃん勉強しといでよ」と優しく促してくれる。

店の残り物だけど、あたたかいごはんを店主と奥さんと、ほかのバイト仲間と一緒に食べて。

生きている、ということを実感できた日々だった。


たぶんあのまま実家で過ごしていたら、息の仕方さえわからなくなってしまったんじゃないだろうか。

それぐらい、あの家での私は死んでいた。

ダイが遠くへ行ってからは特に、自分の存在というものを確かめられないままでいたから。


「いつでもそばにいる」、そんなダイの言葉があったからこそ、あの寒々しい実家を飛び出す勇気が持てた。

なんだかんだで15才。義務教育を終えたばかりの子供には、形だけでも親の庇護というものはやはり大きいものだ。

それでも私は、自分が自分として存在することを選んだ。

庇護されるためだけに、自分自身をすり減らすことがどうしてもできなかったのだ。


それに、私にはダイがいた。

離れてもそばにいると、心から信じ合えた存在が胸のなかにいたから。

一人じゃない。

私は一人だけれど、私の魂は独りではない。

そう信じたからこそ、ここへたどり着くことができたのだ。


そのことを一番に伝えたいダイは、もうどこにいるか分からない。


引っ越しからしばらく続いた文通もいつの日か途絶えた。

出した手紙が、住所不明で送り返されてくるようになったのだ。

ダイの身に何があったのか分からない。

知りたくてそわそわしたりもしたけれど、11才や12才の子供のできることなんて、たかが知れていて。

何もできない私はそれでも信じた。

ダイは生きている。

私の半分とともに、今もどこかで生きている、と。


辛くなればいつでもダイを思い出す。

ちょっとどんくさくて、それでもめちゃくちゃに優しい男の子のことを。

やさしい声、あたたかい手。

そして、不器用だけどぬくもりにあふれたあの日のキス。


二十歳になった私には、これまでにキスを交わすような関係になった人も何人かはいた。

それでもどうしても、その中の誰とも長く続くことはなかった。


だって知ってしまったから。

10年前のあの日、ベランダで。

二人の全身が溶け合って、一つになるような感覚。


あんなに優しいキスを、私は知らない。


あの日の夢を見て起きた朝は、ほんの少しだけ泣きたくなる。

あの夜に戻りたくて。

もう一度触れたくて。

それでも今目の前にあるカーテンは引っ越したときに自分で選んだもので、目に写る家具は今の私の生活のいろいろが詰め込まれていて。


あれは夢だ。

遠い昔、確かに存在した現実を懐かしむ思いが見せた夢。

私は確かにいまここに存在して、現実を生きなければならないのだ。

ぐちゃぐちゃの感情にケリをつけるように、私はあえて荒っぽくベッドから起き上がる。


春にはまだ遠い、それでも真冬からは少し遠ざかった今の季節。

ベッドの外はまだまだ寒い。

でもこんな感情のぐらぐらしたときには、この寒さがありがたかった。

あえて冷たい水で顔を洗い、自分の気持ちを現実世界に近づける。

洗面所は決して広くはないけれど、清潔で心地いい。

新しい一日を始めるには、最適な場所だと思う。

「よしっ」

鏡に写る自分の顔を見て、私はほんの少し気合いを入れるのだった。


狭いけれど小綺麗なこのアパートに移り住んでから3年。

住み込みで働いていたときとは違う、完全な独り暮らしにももう慣れた。

自炊だって洗濯だって掃除だって、もう生活の一コマとして身に付いている。

今も、顔を洗い服を着替え、簡単な朝食を自分のために作り、それをもくもくと消化していく。

一日の始まりの朝、決まりきった流れだ。


本当の意味での自立を考え、今は料理屋の仕事も辞めた。

そばにいれば、絶対にいつか甘えて寄りかかってしまうから。

そんなことは、自分が許せない。

きちんと独りで立てる人間にならなければ、共に在ることを誓いあったあの日の私たちが嘘になってしまう気がして。


それでも店主夫妻には、今も時々ごはんをごちそうになりにいく。

勝手に飛び込んできて、また勝手に飛び出していったこんな私に、常に親身になって寄り添ってくれる。

いつでも温かく迎え入れてくれる二人は、ダイの家族の次に本当の家族のようで、そんなあたたかな場所に辿り着いたことを心から幸せに感じている。


今の私は、アパート近くのカフェで働きながら保育士を目指して勉強している。

自分の過去を顧みたというわけでもないけれど、少しでも寒い思いをしている子ども達を、私の両手であたためてあげたい。そう思って。


勉強は難しいけれど楽しい。

過去の出来事を思い出して、どうしようもなく切なく思うときもあるけれど、それを乗り越えるために私はここに来た。


もしいつか会えるときが来たら、ダイに胸を張って言いたいんだ。

「ダイのおかげで、私は人をあたためてあげられる人になったんだよ」

と。

それが今の私の生きる目標になっている。


「よし、行くか」

今日は早番のバイトだ。

ランチの仕込み、掃除、テーブルのセッティング。することは山ほどある。

それでも、木のあたたかさを全面に押し出した、柔らかな緑と自然の光に包まれたこのカフェを私は心から気に入っていたし、徐々にここを自分の居場所だと確信を持ち始めていた。


自転車で15分。

近いとも遠いともとれる距離。

この距離の間に、私は様々な整理をする。

昨日あったこと、今日しなければならないこと。

そして昨日の夢。

起き抜けよりいくぶん落ち着いた脳ミソは、冷静にあの夢を振り返ることができた。

結局、いつでも落ち着く結論は、今の私を精一杯生きること。

あの夢は、毎日頑張っている自分へのごほうびと受け取っておく。

そんなことを考えながら、自転車を漕ぐ足に力を込める。

少し上り坂になっている道なので、だんだん汗ばんでくる。

これも日頃のトレーニングと思えばなんてことない。

保育士は思ったより重労働で、体が資本だ。

それに、15才から働いてきた私にとっては、これくらいの負荷はそう苦でもなかった。


いつも使っている近道へ行こうとハンドルを切る。

その道は細いけれど信号もなく人通りも少ない。

野良猫がゆっくり歩くその道は、私のお気に入りの一つだった。

そう広くない川の横をずんずん進む。

植え込みの影では何びきもの猫がたむろしていて、一つのコミュニティーを作っている。

なんとなく、お邪魔しますという気持ちで進みながら、川からの風を受ける。


ふと向こうから走ってくる自転車に気づく。

この道で、誰かとすれ違うなんてめったにないことだから、なぜか少し緊張する。

それでも別に、互いに干渉し合うわけでもない。

なんとなく目を逸らしながら、まさにすれ違おうとしたとき。


目のはしに捉えたその人は、とても懐かしい顔をしていた。


「…ダイ?」

記憶にあるのと寸分違わぬ顔が走り去っていく。

まさか。

ダイがこの町にいるなんて、まずそんなこと考えられない。

それに、10年だ。

あの頃のままのダイが、ここにいるわけない。


いろんなぐるぐるした感情を抑え、私は結論を急ぐ。

きっと、他人の空似というやつだ。

今朝の夢が、あまりにもリアルすぎて、

あまりにも会えない時間が長すぎて、

幻のようなものを見たのだろう。


「…よしっ。切り替え切り替え」

ブレたままの感情では、いつも通りの日常を送れない。

何より私に大切なのは、今を一生懸命生きることだ。

今日も私は、手にいれた自分の居場所を快適な空間に保つため、全力を注ぐ。

訪れるお客さんにほっこりと心地良い時間を過ごしてもらえるために。

そして、自分自身がここに居てもいいのだ、と心から信じられるために。

そこまで考えて、また私は無心でペダルを漕ぎ始めるのだった。


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