弱き者と守る者

 リリムの召喚術を発動前に全てキャンセルさせる。

 彼女は全身から汗を噴き出させながら、肩で息をする程疲労していた。

「もう諦めたら?」

「ま、まだよ!!」

 懲りずに召喚術を詠唱し始める。無駄なのになぁ、と、少し溜息をついた。

「いくら巨大な古の神を無限に喚び出せると言っても、術式が同じか引用だから、無駄なのよ」

 印から速攻、発動させる。

「幽閉門の鍵!!」

 リリムが巨人を喚び出そうとしていた背後にある『穴』が瞬時に閉じられ、ただの空間となる。

「く、くそっ!!」

 疲労からか、遂には片膝を付くリリム。

「解った?あなたの召喚術は、タルタロスを開いて、そこに幽閉されている巨人を喚び出す。数々の応用の術を駆使しようが、結局『タルタロスから』の召喚だから、そこを閉じれば終わりなのよ」

 諭す私に対して、憎悪を向ける。根性はあるのよね。

「私はあ!巨大な力が必要なのよ!誰にも頼らずに生きる為に!男に守られて、ぬくぬくとしているアンタとは違うんだからぁ!!」

 絶叫に近い叫び声を挙げて、殺気を宿して私を睨み付けた。

「男に守られてって…北嶋さんの事?そうかもね。だけど私はあなたを守らなきゃならない。あなたを助ける為にね」

「助ける?ふん!助けなんか要らない!痛みを解ってくれる人と出会えたからね!」

 そう言って、無理やり動かない膝を奮い立たせて立ち上がるリリム。その様子を見ながら、私が口を開いた。

「同じ女だもん。解るよ。エレニ・パクシヌー…」

 リリムの顔色が変わった。

「ど、どうしてその名前を?棄てた筈なのに!?あの日から名乗る事は無かったのにっ!!」

 動揺が身体に表れている。小刻みに震えているのがその証拠だ。

「思い出したく無いんでしょうけど、聞こえてくるのよ。あなたの声が」

 だから解った。

 だからリリスじゃなく私が前に立った。

 北嶋さんはこの戦いが始まる前に、私にだけそっと耳打ちをした。

 クルンクルン以外は殺すな。

 理由を聞かずに、素直に頷いた。

 北嶋さんが言うのなら、それはきっと意味があるから。

 そして確かに理由はあった。

 イヴと英国国教会の魔導士を除いた人間には、共通点がある。

 それは『身内殺し』だ。

 そして彼等は救われたいと願っている。

 北嶋さんの事だから、対価と言うか、見返りを期待して助けようとしているのだろうけど。

「だから助けてあげる。私は北嶋心霊探偵事務所の神崎 尚美だからね」

 静かに言い放った私の脳に、リリムの、いや、エレニが名を棄てた時の事件が流れ込んで来た。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 エレニはギリシャの中流家庭のパクシヌー家に生まれた。

 幼い頃からかなりの美形で、女神の生まれ変わりとまで噂された程だった。

 リリスの娘、リリムが永い時を費やして罪を償い、人間として転生して来たのだ。美しいのは当然と言える。

 幼いエレニは、その頃はまだ美しいプラチナブロンドの髪だった。

 その髪も自慢の一つ。

 10歳になったこの日も、その美しいプラチナブロンドの髪を熱心にブラッシングし、小さな鞄を持って友達の家に出掛けた。

 誕生日に友達がパーティーを開いてくれると言う申し出に応じたのだ。

 両親もニコニコとその後ろ姿を見送った。

 友達の家までは2キロ程で、子供の足でも問題無いし、何よりも娘の嬉しそうな笑顔を見たかったから、いつものように送り出しただけ。

 そして、両親はその後ろ姿が視界から消える前に、自分の家に戻った。

 この日は休日だったので、リビングでくつろいでいた両親。今頃娘は楽しんでいるんだろうな、と談笑し、壁に掛かっている時計を見る。

 娘が家を出てから1時間程経過していた。

 ご馳走を食べ過ぎて、夕方の家族でのパーティーの分のお腹に余裕が無くなるんじゃないだろうか、と、笑いながら冗談を交えて会話していた。

 その時、娘がお邪魔している筈の友達の家から電話が入った。

 母がその電話を取る。

 娘が何か粗相でもしたのか?

 それとも眠ってしまったから迎えに来て欲しいのだろうか?

 しかし母の予想は見事に外れた。

 エレニが来ないのだが、風邪でも引いたのか?

 母は自分の耳を疑った。

 エレニは一時間も前に出て行ったけれども…

 弱々しくそう言った。

 嬉しそうに出掛けたエレニが、近所の友達の家にまだ到着していないなどと、聞き間違いに違いない。

 一時間も前に出た?本当に?

 電話向こうの友達の母が声を裏返して驚いたように強めに言った。

 そしてまばたき程の一瞬の静寂。

 母は狂ったように電話に向かって叫んだ。

 着いていない筈が無いでしょう!!

 悪い冗談はやめて!!

 エレニはお腹がいっぱいになって寝てしまったのでしょう!!

 エレニを出して!!お願い!!隠さないで!!

 母の尋常じゃ無い取り乱し様に、父がソファーから立ち上がり、電話を代わる。

 父は5分程話をした後、電話を終えて伏せている母にこう言った。

 事故に遭ったのかもしれない。

 エレニが交通事故にでも遭ったと言うの!?

 泣き叫び、父に縋り付く母。

 父は何とか母を宥め、外に出て捜しに行ってみる、と。

 お前は、今は精神的に不安定だから、来てはいけないよ。

 その状態で外に出たら、お前まで事故に遭ってしまいそうだから。と。

 母はただ頷いた。ボロボロボロボロ涙を零して。

 父は母を安心させるように無理やり笑い、大丈夫だ。きっと大丈夫だから。そう言って飛び出すように家から出た。

 母はただ祈った。

 どうか、どうか娘が無事に帰ってきますように、と。

 事故じゃない、きっと他のお友達の家に行ってしまっただけなんだから、と。

 祈り続けて小一時間程経った頃、再び電話が鳴った。

 娘が見付かったのだ。

 約束を破って、他のお友達の家に行った事は、取り敢えず許そう。

 今は娘を抱き締めたい。

 喜びながら電話を取った。弾む声でもしもし、と出た。

 電話の相手は、先程のエレニの友達の母からだった。

 もしもし、ウチのパパも一緒に捜しに出たのだけれど…

 ああ、そうだったんだ。

 娘の為に色々と申し訳無い。

 そう口に出そうとした母だったが、みるみるうちに顔から生気が消え失せて行く。

 遂には受話器を力無く落とした。

 床にゴトンと受話器が落ちた音に混ざって、友達の母の声が漏れていた。

 もしもし、しっかり聞いて。

 もう一度言うから。

 旦那さん…

 エレニちゃんを捜しに行った先で、車に撥ねられて…

 今亡くなりました…

 母はそのまま立ち竦んだ。

 エレニはどこ?

 何故パパが死んだの?

 受話器から何か声が漏れていたが、全く耳に入らなかった。

 暫くして気が付いたが、漏れていた音はツーッ、ツーッと無機質な音に変わっていた。

 そこで初めて膝を付き、天井を見上げで号泣した。

 何度も何度も呼び鈴が鳴ったが、耳に入る筈も無く、泣いた。

 しびれを切らせたようにドアが開き、友達の母が飛び込んで来た。

 そして母を力強く抱き締め、二人で泣いた。

 泣きながら友達の母は、警察に行くよう促した。父の身元確認とエレニの失踪、二つの件で。

 私も付き添うから、行きましょう。と。

 殆ど耳に入らなかった母だが、友達の母に抱き起こされ、支えられながらも立ち上がった。

 友達の母が用意してくれた車に、何とか乗り込んだ母は、そのまま警察に行き、先程まで温かかったであろう夫の遺体と対面した。

 先程まで沢山の涙を流したが、変わり果てた姿の夫を見た瞬間、嗚咽と共に、再び溢れ出た。身体中の水分を全て失うんじゃないかと思った程に。

 夫が死に、娘が失踪して一週間が経った。

 その間、母は気丈に振る舞い、警察への協力も惜しまず、自らも至る所で、写真などを見せて聞き込みを行ったりしていた。

 そんな母を世間は高く評価した。

 夫を失いながらも娘を想う母の気持ちに共感し、感情移入する人達が沢山現れた。

 エレニを捜すためのボランティアも数多く現れた。

 母は感謝の気持ちでいっぱいになり、涙をしながら頭を下げた。

 警察も意地と面子に掛けて捜査に全力を注いだ。

 そして失踪から10日後。

 とある町外れのアパートの一室で、エレニが発見された。

 エレニは10日間、男『達』と一緒に居た。

 警察が駆け付けた時に、エレニは全裸でベッドに手足を縛られて、虚ろな目を天井に向けた儘だった。

 身体中には殴られたであろう痣。

 部屋中に撮影する時に使う機材。

 ベッドのシーツには、出血の跡と無数の男の精液。

 エレニは可愛らしい風貌が仇となり、少女の強姦ビデオのモデルにと誘拐されていたのだ。

 世間は犯人達に厳罰を切望した。

 幼い少女を集団レイプした事を許しはしなかった。

 それだけでは無い。

 エレニを捜しに出掛けた儘、永遠に帰って来なくなった父。

 それでも気丈に捜索し続けた母への『同情』。

 世論が極刑を望むのは容易に理解できた。

 母はメディアを通じて、娘が帰って来ただけでも良かった、と発信した。

 母は一躍時の人になった。

 母は流石はエレニの母だと言われる程に美しかった事もあり、連日マスコミは母を、娘を想う聖母だと、顔も心も美しき未亡人だと持て囃した。

 最初は疎ましく思っていた母。

 取材も全て断っていたが、自らの虚栄心が目覚め始めたのか、夫の葬式の喪服姿をマスコミに自ら流出させたりもした。

 母は徐々に演技が上手になり、マスコミや世間の望むコメントや仕草、感情を表現できるようになった。

『不憫な母』は今や売り出しのキャッチコピー程度になってしまう程だ。

 そして徐々に、確実に『明るく』なっていく母とは対象的に、エレニはどんどんと引きこもっていった。

 マスコミや世間はエレニにもコメントを求めた。

 それは勿論、興味以外に他ならない。

 エレニがどれほど恐ろしかったか、悲しかったか、死にたかったかなど、世間には関係無い。

 欲しいのはゴシップだから。

 友達にも聞かれた。

 どんな気持ちだったの?と。

 だけどエレニは決して話す事はしなかった。

 代わりに自らの手首をナイフで切った。

 母は勿論エレニを庇った。

 だが、それも何時の間にか『演技』にすり替わってしまった。

 1ヶ月も経つと、母はエレニから完全に興味を失っていた。

 いや、失っていたのでは無い。自らを持て囃してくれる、マスコミや世間の方に興味が向いたと言った方が正しいか。

 やがて母はエレニにも『演技』を強要し始めた。

 連れ去られた時の事を聞かれたらこう答えなさい。

 レイプされた事を聞かれたらこう答えなさい。

 助けられた事を聞かれたらこう答えなさい。

 だが、エレニは決してマスコミの前に出ようとはしなかった。

 当たり前だ。心に相当の傷を負ったのだから。

 当たり前だ。帰って来た時には父は居なくなり、母は変わってしまったのだから。

 当たり前だ。自分以上に、周りの人間が変わってしまったのだから。

 母の要求を拒み、毎日自傷行為に走っていったエレニ。

 徐々にヒステリックになっていく母。

 何故ママの言う事が聞けないの?

 パパが居なくなった今、ママが『仕事』をしなければご飯が食べられないのよ?

 ママの『お仕事』をどうして手伝ってくれないの?

 日に日に増していくエレニの手首の傷と比例して、母の『脅迫』もエスカレートしていく。

 そしてこれも当然だが、日が経つにつれて興味を失っていく大衆。

 マスコミも旬の事件を取り上げて行くにつれ、エレニの事件から遠退いていった。

『仕事』が無くなっていく事に『不満』な母は、遂にはエレニに虐待をするようになった。

 お前がママのお仕事に協力しなかったから、段々と仕事が無くなっていくんだ!!

 パパを殺した罪人のくせに!!

 お前を産んだから不幸になったんだ!!

 お前なんか産まなきゃ良かった!!

 服で目立たない背中や腹を殴り、食事も満足に与えなくなり、罵声を浴びせ続ける母。

 エレニはじっと堪えた。

 母の言う通りだと思ったからだ。

 自分が誘拐されたから、父が死んだ。だから母も変わってしまったのだ。

 だが、その小さな身体は悲鳴を挙げる。

 誘拐され、集団レイプされ、父が死に、母は変わり…

 生きる事に疲れてしまうのには充分過ぎる理由だろう。

 もういいでしょ?

 もう疲れちゃった………

 エレニはいつものように、手首をナイフで切った。

 だが、この程度では死ねない。

 もう一つの手首も切った。

 まだ死なないような気がする。

 そして首筋にナイフを当てた。

 ナイフの刃の冷たさが、首から背中に伝った。

 これなら死ねる。

 確信し、力を込めて首に押し当てようとした瞬間、母がそれを見てエレニのナイフを持っている手首を掴んだ。

 戸惑い、母を見るエレニ。

 母は自分の事を嫌いなんじゃなかったか?

 何故止めるのだろう?

 不思議に思い、母の顔をじっと見た。

 母は暫く厳しい顔をしながらエレニを見ていたが、何かを思い付いたらしく、突然優しい笑顔に変わる。

 戸惑うエレニ。

 そしてエレニの傷だらけの手首を握ってこう言った。

 この傷だらけの手首を、みんなに見せましょう。そうしたら、再び脚光を浴びる事が出来るわ!!

 エレニの母は、遂にはエレニの自傷行為までも『売り出し』、再び可哀想な母として返り咲く材料にしようと考えたのだ。

 母の幸せと、自分の気持ちは、決して相容れる事はできない。

 エレニは構わずに再び首筋にナイフを当てた。

 それを強引に引き剥がす母。

 どうせ死ぬのなら役に立ってから死ね!!

 母はエレニを殴った。お腹を殴った。

 蹲ると背中に蹴りを入れられた。

 そして髪を引っ張られ、強引に起こされた。

 目を見開いてナイフをエレニの頬にヒタヒタと当てた母。

 いいかい?お前はレイプされ、パパを失った可哀想なエレニなんだよ。

 そんな可哀想なエレニを健気に、気丈に励まして戦う、美しいママが私なんだ!!

 お前が勝手に死ぬ事は許されないんだ。

 お前の命は産んだママの物なんだから!!

 母の罵声が終わると同時に、エレニの無機質な瞳に力が宿った。

 いつもは抵抗しないエレニは、今回は死ぬ為に抵抗した。

 もう死なせてよ!!

 何処にこんな力があったのかと思う程、エレニは力の限り暴れた。

 押さえ付けている母の身体のバランスが崩れ、倒れる程に。

 そして母は床に倒れたと同時に、呻いた。

 エレニの顔と服に鮮血が飛び散る。

 えっ?

 倒れた母に目を向けると、エレニのナイフが母の胸に深く突き刺さっていた。

 倒れた拍子に深く刺さってしまったであろうナイフの刃は、母の命を奪うに容易だったようだ。

 自らを血溜まりの海に沈むように、横たわっている母。

 変わってしまった瞳をまばたきもせずにエレニに向けながら、ピクリとも動く事は無かった。

 力無くへたり込むエレニ。

 また私…

 殺してしまった…

 いよいよ独りぼっちになっちゃった…

 不思議と涙は出ない。

 あるのは、凄まじい後悔の念。

 死のうと思ったから母は死んだ。

 事故であれ、母を殺した事に変わりは無い。

 父も自分が誘拐されたから死んでしまった。

 そんな自分はまだ生きている。

 何度も死のうと試みたが、生きている。

 私は死ぬ事すら許されないんだ………

 父も母も殺した自分は、生きる目的など持てない。

 このままご飯を食べないでずっと座っていたら、死ねるかな?

 そんな事をぼんやりと考えていたその時、玄関の扉が音も無く開き、頭を丸めた一人の男が入って来た。

 侵入して来た男を見て身体を震わせるエレニ。

 男は言った。

 怖がる必要は無いよ。

 だがエレニの顔は蒼白となり、震えはより一層激しくなる。

 あの事件から、エレニは男に恐怖しか感じないようになっていた。

 しかも、不法侵入だ。怖がるなと言われても、それは生きる事より遥かに難しい要求だった。

 男は動かなくなった母に目を向ける。

 この儘ではいただけないな。

 そして徐に空に人差し指で図形を画く。

 画き終わったと同時に、男と母の間の空間が、黒い渦を巻いた。

 その渦の中から、髪を振り乱し、角を生やした醜悪な男が出てきた。

 歯を何度も震わせると、ガチガチと言う音が男の耳にも入った。

 男は優しく笑い、言う。

 大丈夫。このオーグルは私が使役した魔物だからね。

 オーグル…魔物…

 エレニは生まれて初めて『悪魔』を見た。

 物語ではよく耳にする悪魔が、自分の傍にいる。

 そしてその悪魔は母の亡骸を無造作に掴む。

 脚の付け根から引き千切る悪魔は、それをバリバリと貪り喰った。

 震えと同時に吐き気がした。

 口を押さえるエレニ。

 喰い終わったら次は左腕を引っこ抜き、再び貪り喰う。

 巨大な手で母を掴み、胴体を半分にねじ切った。


 ビチャビチャビチャビチャ


 腑が床に散乱した。

 とうとう我慢できずに、エレニは嘔吐する。

 男はエレニの嘔吐物をタオルで拭き取って、ゴミ箱に捨てた。

 無理も無い。しかし少し我慢だよ。遺体があったら色々面倒な事になる。マスコミとかね。

 そして初めてエレニの頭を撫でた男。

 不思議な事に、嫌悪感は無かった。

 寧ろ逆に安心できた。

 男の手のひらは…

 父のそれに近かったように感じた。

 母を全て喰らい尽くしたオーグルは、満足したのか消えて行った。

 いや、還ったのか。

 床に広がっていた血溜まりも、散乱した腑も、綺麗に舐め取って行った。

 母の存在そのものを喰らい尽くしたように、全て真っ白になったような錯覚に陥った。

 呆けるエレニ。

 そんなエレニに話しかける男。

 変わってしまったお母さんは消えた。これからは優しかったお母さんだけ思い出にしなさい。

 意味が解らなかった。

 お父さんの事は気の毒だった。これからは私を父と呼んでもいいよ。まだ独身だがね。

 一人で笑って剃った頭を叩く男。

 これも意味が解らない。

 エレニは有りっ丈の勇気を振り絞って聞いた。

 あ、あなたは誰?

 言われてあっと漏らした男。

 そう言えばまだ名乗って居なかったな。私は…そうだな、カイン。今一番しっくり来る名だ。

 カイン…

 父に聞かされた事がある、聖書に出て来る名前だ。

 人類の祖、アダムとその妻イヴの最初の子の名前だった記憶がある。

 そ、そのカインさんが何で私に?

 一番意味が解らない事を聞いてみたエレニ。

 カインと名乗った男は、椅子を引いて座り、エレニを優しく見つめて話し出した。

 君はアダムの最初の妻、リリスの娘、リリムが転生した人間だ。今回はいつもと全く違うから、おそらく君もどこかに存在しているだろうと思い、ずっと探していたんだ。

 まさかこんな事になってしまうとは思っていなかったがね。

 カインは同情や哀れみとは違った眼差しを、エレニに向けながら言った。

 逆に怪訝な表情のエレニ。

 リリスは聞いた事がある。

 アダムの最初の妻はリリスで、リリスに逃げられたアダムが寂しさを紛らわす為、自らの肋骨から妻を創って貰った、と言う説で。

 リリスはアダムの間に娘を授かり、その名をリリムと言い、夢魔、あるいは淫夢魔の原型だと言われているとか。

 ギリシャ神話でサキュバスと呼ばれている夢魔は、眠っている人間の男と交わって精を盗み、悪魔を産む為に使うと言われているらしい。

 父から聞いた聖書や神話の物語を頭に浮かべている最中、カインがエレニの肩を そっと抱いた。

 古の罪は現世で返った。幼い君が男共に辱められたのは、リリムが行った罪の業…

 言われて初めて納得がいった。

 遠い過去の罪を、沢山の男を『強姦』した罪が、今の私にそのまま返って来ているのか。

 だから私は死ねないんだ。まだ罪を返しきっていないから。

 じゃあいつまで辱められたら全て返し終わるんだろう。

 そう言えば、パパとママも殺しちゃったんだっけ。

 また罪が重なったなぁ………

 運命に抗うなど考えた事も無いし、何より既に『清算』が始まっている最中だと 思ったエレニは、再び無気力な表情に戻る。

 そんなエレニを優しく抱き締めるカイン。

 大丈夫。君には何の事か解らないだろうが、今回で全て終わる。だから君も生まれてきたのだ。

 カインの想いが流れ込んでくる。

 この人も…遥か昔の罪を清算している最中なんだ。だから私に優しいのか。

 そう思うも、カインの温もりが心地良くなり、胸の服をキュッと掴んだ。

 さぁ、私と一緒に行こう。君には色々教えなければならないからね。終わらない業を断ち切る、その日に向けて。

 どうすれば終わるのかと尋ねたら、それは私も知らないと笑いながら答えたカイン。

 何なのそれ。

 自然に笑みが零れる。

 辱められ、父と母を失って、初めて自然に出た笑み。

 この笑みに気付いたエレニは、カインと共に行こうと決心した。

 カインは手土産にと、エレニの眉間に人差し指を当て、エレニの『能力を開いた』。

 今までの自分とは異なる力を腹の底から感じるエレニ。

 長く『依代』とした身体が拒絶をし、プラチナブロンドの髪が、銀の髪に変色した。

 カインは感心し、唸る。

 君はリリスとそっくりなんだな。そしてその魔力は、リリスに匹敵するかもしれない。

 言われても解らないが、先程までの自分とは明らかに違う力を感じ、気分が高揚してくる。

 上級悪魔はリリスが殆ど契約する『予定』だから、君には古の巨人の召還術を教えよう。君はギリシャ神話の方で有名だから、相性も良い筈だ。

 そうなんだ、と無理やり納得し、術を覚えた。

 最初に召還に成功した時は嬉しかった。

 その巨人で自分を辱めた男共を殺した。

 刑務所に服役中の男共は、何か巨大な物体に身体を押し潰されたように、内臓も骨もグチャグチャになって、摩訶不思議な事件として少しの間話題に挙がった。

 なんだ。私強いじゃない。

 こんなに強い私を誰か殺してくれると言うの?

 強さとは逆に不安になるエレニ。

 殺してくれる人間がきっと居る。寧ろ殺してくれるのは人間でなければならない。神なら罰に、悪魔なら自業自得になってしまう。

 良く解らないが、自分を助けてくれるのは、人間なんだろうと漠然に思った。

 そうだな。君も今の名前を棄てて戻ろうか。リリムと言う名に。殺されるのならば人間の儘ではいけない。人間の敵にならなければ、人間には殺されないからね。

 黙って頷くエレニ。

 人間を棄て、死ぬ為に生きる。

 だからこの力は自分には必要なんだ。

 ただの醜悪な魔物に戻る為に。

 幼いエレニは、魔女リリムと名を変えた。いや、戻した。

 己の罪を裁かせる為に。

 罪から解放される為に……………


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


「…なに泣いてんのよ!アンタ!」

「え?」

 言われて初めて頬を伝わっていた涙に気付く。

 そうか、感情がダイレクトに流れ込んで来たから。

 腕でその涙を拭う。

「ふん!同情?やめてよね!同情なんか要らないんだから!!」

「同情?そうね。同情しているわ。ただし、あなたじゃない。北嶋さんに。今回は、色々と重なっている」

 モードの年齢と容姿。

 そして、幼くして強姦されたリリム、いやエレニ。

 色々と静さんに重なって見える。

 これも北嶋さんが『助ける』と決めた理由の一つなのだろう。

「重なっている?意味解んないわ!!」

 再び呪を詠唱するエレニ。

「いくら素質が在ろうとも、同じ術式なら無駄だってば」

 再び幽閉門の鍵を発動させて、門を強引に閉じた。

「にゃあああ~っ!!またっ!!」

 肩で息をし、地団駄を踏み悔しがった。

「いちいち面倒だわ。黒地の枷」

 エレニの立っている場所の重力を倍増させて、動きを封じた。

「うわっっ!?」

 片膝を付いて、お尻を付き、遂には両手を持ち上げられない状態に陥らせた。

「鍛え上げれば、確かにリリスに匹敵するかもしれない。だけど今はまだ足元にも及ばない。せめて、詠唱を短縮できるしないと」

 宗教、宗派に関わらず、術を詠唱する『言霊』は、強力なら強力な程、長い詠唱を必要とする。

 強力な術者は、術名だけでも発動させられるが、エレニは召還術を短縮する事もできない。

「カインさんにはこれ以上教えて貰ってないのよ!」

 むくれながら私を睨み付けるエレニだが、その瞳には微かな希望が宿っている。

「…私に殺して欲しいの?」

「…お姉様の命令が無ければね…」

 魅了で縛り付けているおかげで、アッサリと死ぬつもりは無い様子。

 あのカインと言う男、それなりにエレニを守っているのか。

「残念だけど、イヴはリリスに勝てない。そしてあなたも私には及ばない」

 睨み付けている瞳に、凄みが増した。

「勝手に決め付けないで!!あの娘を殺したら、私達の勝ちなんだから!!」

 言われてモードの方に目を向ける。

 アーサー・クランクがモードから少し離れて剣士と戦っている最中。

 あっちは少し厳しい状況だが、何とかなりそうだ。

「アーサー・クランクは狂戦士に負けない。命を背負って戦っているからね」

 死にたい者に負ける訳が無い。

 魅了に捕らわれて、辛うじて生にしがみついている者に負ける訳が無い。

「はん!ならさっさと殺せば?ほら、抵抗しないから!この首と胴体を分けなさいよ!!」

 重力に縛られて動けない身だが、首だけ力いっぱい伸ばしてくるエレニ。文字通り差し出そうと言うのか?

「ほら!取りなさい、私の首を!終わらせてよ!」

 そこまで言うと、無理やり笑顔を作ってみせた。

「私の業を!!!」

 溜めて溜めて、最後に言った言葉。

 許されていないと思っているのか。淫夢魔としての罪を。

 許していないのか。両親を殺したと思い込んでいる自分を。

 ならば、世界中の誰が許さなくても、全ての神仏が許さなくても、私が許す。

 私はエレニの目線の先まで腰を下ろし、じっとその瞳を見た。

「今楽にしてあげる」

 一瞬口を半開きにさせて固まったエレニだが、今度は唇を固く閉じ、涙を溢れさせて、力いっぱい頷いた。

 私はエレニから視線を外し、立ち上がり、天を仰いだ。

 私の中に在る十字架が、チリチリと熱くなっている。

「主なる神よ…全てを壊し、全てを許す全知全能の唯一神よ…」

 エレニは涙を零しながら、我に返ったように、私を見た。

「そ、創造主の…」

 途端に怯え出し、イヤイヤと首を振り出した。

 大丈夫だよ。

 リリスの時よりも、遥かに小さい炎しか感じない。

 つまり、サキュバスとしての罪は清算済みと言う事。

 そして両親を殺したのは、、やはり思い込みだって事だ。

 言いたいけれど、身を持って体感して貰った方が早い。

「全てを退けよ。楽園の東から来たれ。煌めく炎の剣」

 胸の辺りが赤く輝き、そこから短剣大の炎の十字剣が現れる。ほら、大きさも数も、リリスの時よりも段違いなんだから。

「いや…いゃだぁ…」

 黒地の枷により、身動きが制限されていなければ、とっくに逃げ出しているであろうエレニの怯え様。

 余程自分に負い目を感じているのだろう。

「拒絶の剣…」

 ともあれ、私の胸の前でクルクルと回っていた炎の十字剣が、ゆっくりと私の頭上に行き、そのままエレニに向かって放たれる。

「いゃあぁぁぁぁ……」

 懇願するエレニの胸に、十字剣が突き刺さり、そのまま貫いて地面に潜って行く。

「ぁぁぁぁああああ!!」

 目を見開きながら仰向けに倒れ込んだ。私はそれを抱き止める。

「ぁあ~…はっ!はっ!」

 震えているエレニを抱き締め、その髪をゆっくり撫でた。

「髪…昔に戻ったみたいね」

「……え?」

 言われて、肩に掛かっている自分の髪を見るエレニ。

「え?銀色じゃない?」

「胸、痛くなくなったでしょ?」

「…え?そ、そう言えば………」

 勿論炎の十字剣で貫いた胸には外傷は無い。

 貫いたのは、胸の痛み。自責の念、後悔の念。

「あなたは始めから悪くない。誘拐されたのは不幸な事件。お母さんが死んだのは事故。リリムとしての罪は既に清算済みだから、現世に『ただの人間』として生まれ変わって来たのだから」

「た、ただの人間…?カインさんが騙したと言うの?」

「『偽りのカイン』として、騙した訳では無いようだけどね」

 私はカインに目を向けた。

 カインはモードやアーサーに向かって行く北嶋さんに注意を向けていた為、此方には気付いていない。

 エレニは死にたかった。

 それをカインは知っていた。

 イヴの為に利用する目的もあったであろうが、自分と似た境遇のエレニに同情したのも事実。

 あのまま放置していれば、自傷行為を止める事無く、いずれ本当に死んでしまっていただろう。

 嘘は、言わば生きる理由の為の嘘。

 古の業云々は優しい嘘なのだ。

「だ、だけど私は人をいっぱい殺した…」

「誘拐犯は殺されて当然。あなたは心を殺されたのだから。等価交換よ。その他は殺していない。でしょう?」

 少し考えてコクコク頷くエレニ。

 これもカインの優しい配慮だ。

 エレニには人間を殺させていない。

「リリムを捨ててエレニに戻っていいのよ。創造主も怒っていなかったでしょう?」

「だ、だけどエレニに戻ったら、カインさんが一人ぼっちになって…」

 最後まで言わせぬように、人差し指をエレニの唇に付ける。

「大丈夫よ。カインの相手、誰だと思っているの?」

 微笑し、そして付け加える。

「死ぬのは俺に喧嘩売って来たバカ野郎の番のバカ女だけ。バカ女も俺に喧嘩売って来たからな。同情の余地無しだ…だって」

 ゆっくりと身体を起こさせて、北嶋さんの方に身体を向けさせた。

 エレニは初めて本当に『期待』するように、北嶋さんに視線を向けた。

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