イヴ

 アスファルトを蹴るヒールの音に振り向く男達。

 その全ての視線を浴びる事は、遥か昔から慣れている『事象』。

 その視線に混ざっている女達の憧れの視線。

 いつ頃だろうか。女も羨望の眼差しで私を見るようになったのは。

 それも遠い昔からの『事象』となっている。

 軽く微笑む私に近付くオーディエンス。

 あっという間に私を守る『壁』の出来上がりだ。

 如何なる銃弾も『壁』に阻まれ、私に届く事は無い。

 昔。

 昔からの私の身を守る為の業だ。

 剣で。

 槍で。

 時代が変わって銃で。

 私を察知すると同時に、狙って来た男の追っ手から逃れる為の業。

 男の力『威光』があれば、私の持っている一部など必要も無いだろうに、欲張りなのか、ただ執着しているのか。それとも、自身の一部が在るのが気に入らないのか。

 いずれにせよ、男は死んだ。今後二度と現れる事も無い。

 肉体を。

 魂を。

 更には加護まで失った男に、次は無くなった。

 報を『識った』時、私は生まれて、いや、『誕生』して初めて心から笑った。

 愉快な気持ちとはこういう事なのだ、と、踊り狂いながら高笑いしたものだ。

 散々笑った後、分散した力など、どうでも良くなった。

 この時代に生まれ落ちた私は、力の欠損に気が付いていて、男の影に脅えながら過ごし、欠損部分を持っている妹をずっと狙っていた。

 だが妹にはワイバーンが仕えていて、どうにも命には届きそうも無い。

 男は念願の『最初の女』の転生体が現れ、私から興味を失っていたのが幸いして、私は男に狙われなかったが。

 兎も角、欠損部分を持つ妹は、ナチュラルに私の業を使っているのが気に入らない。

 それは私が男から逃れる為に『産み出した』業だ。

 私の物ならば、やはり返して貰うのは当たり前ではないか。

 だから私は妹を狙い続ける。

 丁度良く、肋骨を探している英国国協会が私を嗅ぎ付けて来たので、『捕らえた』。

 英国国協会最強の魔導師らしいが、女に弱いらしく、易々と。

 妹から欠損部分を取り返してくれたら、私は未来永劫、あなたの物になるでしょう。

 魔導師は一切考える事もなく、承諾してくれた。

 そして直ぐに行動に移そうとした魔導師だが、妹は既に田舎に静養に出た後らしかった。

 そういえば、ワイバーンを殺さねば、妹も殺せないと思った私は、父に私の業で『捕らえた』悪魔達を放している田舎に静養させるように訴えていた。

 悪魔達にワイバーンを殺させようとした訳だが、既に『捕らえていた』父が私の命令に背く筈も無く、迅速に対応した後だったのだ。

 悪魔の事は魔導師には流石に言えない。

 仮にも聖職者。悪魔退治が生業だ。

 唇を噛み締め、困った表情を見せると、魔導師が田舎町に行って妹から欠損部分を取り返してくる、と申し出た。

 安堵した顔を作り、魔導師の胸に顔を埋めると、業は完全に掛かった。

 直ぐに飛んでくれたが、そんなに私を物にしたいのか、と、解りやすくて笑ってしまった。

 男の『威光』とは違い、私の業、『魅了』は、根底部分で頑なに拒む物にはなかなか通じない。

 父の娘殺し然り、魔導師の聖職者としての責務然り。

 だが、深く掛かれば、それが容易く崩壊する事も、私は知っている。

 父も妹を殺す前に、遠くに『棄てた』と言った方が正解かもしれない。

 全ての人間を虜にし、私を守る肉人形にする業、『魅了』は、問答無用で平伏させる『威光』に勝る場合もあるのだ。

 心の最深部まで捕らえる事ができたなら。

 妹を追った魔導師から連絡が入った。

 ヴァチカン最強の聖騎士と、始まりの女、リリスが妹の味方に着いた、と。

 何故ヴァチカンと魔女がイギリスの片田舎に?

 不思議に思い、聞いてみると、聖騎士は悪魔騒動で派遣され、魔女はその助っ人だと言う事だった。

 此処でもしくじった感があった。

 魔導師は聖職者故、悪魔を殺す。

 駒が減るなと思っていたが、聖騎士まで登場したのなら全滅は避けられないかもしれない。

 更に魔女だ。

『契約』と『魅了』、二つの異なる方法で悪魔使役をしている私達だが、魔女は魔界の七王と契約していた筈。

 放った下級悪魔は最深部まで捕らえていなかったので、最上級悪魔と契約した魔女相手だとアッサリ退いてしまうだろう。

 いずれにせよ、私の下級悪魔は使い物にならなくなった。

 忌々しく思っていると、ワイバーンが悪魔騒動を起こしたと偽った。との事。

 自然と唇が綻んでいったのが解った。

 聖騎士と魔女は妹の味方。

 ワイバーンは妹に仕えている。

 そのワイバーンは悪魔騒動の主犯。

 ならば聖騎士と魔女の立場はどうなるのだろう。

 これを笑わずにいられる方法があったら教えて欲しいものだ。

 そして今、私は愉快な気分で街中を歩く。

 魅了された我が子、我が子孫を壁とし、引き連れて。

 魅了された人間を引き連れて歩かない日は無かったが、今日は格段に気分が良い。

 こんなに愉快な気分で外を歩いた日は無い。

 思わず声を出し笑う。

 壁となっている我が子孫等も、私の笑顔で釣られて笑う。

 そうだ。

 私は人類の母。

 人類の祖が居なくなった今、私が人類の頂点。

 欠損部分を取り返したら、このまま全人類を虜にしてやろう。

 そうすれば、つまらぬ戦も無くなり、格差に嘆く事も無く、笑いと慈悲に満ち溢れた平和な世となるだろう。

 これは私の使命と言っていい。

 我のみの祖を頂点とするよりも、私は平等に全ての人々を愛す事ができるのだから。

 決心を笑みと変えたその時。

 大気、いや、空間を斬り裂く音が背後から聞こえたと思うと同時に、私の腰までのカールが掛かった後ろ髪が空に散らばった。

 振り向く。

 空に舞った私の髪の他、壁となっている我が子孫等は未だ笑っている儘。

 誰一人として斬られていない。

 確実に髪を斬られたのに!?

 訳が解らぬ儘、残った髪を撫で下ろす。

 髪の感触が首で途切れた。

 ゾクリと背筋が凍る。

 首を刎ねるつもりだった?

 いや、しかし、この群集の中、誰一人斬らずに私の首、いや、髪を斬る事ができる筈が…

 その時、脳に直接投影されるように、男の顔が映り出す。

 黒髪のアジア系の男…今まで寝ていたのか、瞼が気持ち腫れている。

 なんだこの男は!?

 少し髪を整えたらどうだと叱りたくなる程、アチコチに跳ね上がった寝癖。

 少し引いて男の全身を視る……いや、視せられている?

 右手には片刃の剣…日本刀か?

 男の唇が微かに動く。

 それを読む…


「ウゼー真似すんなクルンクルンが。ハゲと同様にハゲ散らかしてやるぞ?」


 心臓が一つ高鳴った。

 この男が人類の祖を倒した男か?

 再び男の顔が接近してくる…

 男の腫れた瞼がいつしか、獲物を狙う猛獣のような目つきに変わっていた………!!


「はっっっ!!?」

 全身から汗を噴き出し、硬直しながら、男の威嚇から『目覚めた』。

 周りを見回すと、群集が笑っているだけの光景が広がっている。

 白昼夢を視たような気分…

 愉快な気持ちが一瞬で吹っ飛んだ。

 一番近くに居る小太りの男を睨み付けて言い放つ。

「私の髪を拾い集めなさい」

 あれだけ笑っていた群集が静まり返る。

 どよめきが私の耳に届いた。

「あ、あれ…髪?」

「いつの間に?」

「いや、長い髪も良かったが、今の長さもいいじゃないか…」

 ヒソヒソと耳障りな…

 鬱陶しい…

 鬱陶しい鬱陶しい鬱陶しい鬱陶しい鬱陶しい鬱陶しい鬱陶しい鬱陶しい鬱陶しい!!

「私の髪を拾い集めろっ!!!」

 怒号が響き渡り、群集は慌てながら私から遠のいて行く。

 ある程度私から離れて傍観する群集。

 苛立ち、アスファルトを思い切り蹴ると、群集は更に下がった。

 所詮壁程度にしか役に立たない連中か。

 私は携帯電話を取り出してコールする。

『…モルガン!おお、私のモルガン!お元気でしたか!』

 魔導師マーリン。

 電話向こうで弾む声。うるさくて耳が痛い。

 普段は物静かな男なのに、鬱陶しい。

 気を取り直して要件を伝える。

「私は…傷付きました…あなたは私を守ってくれると、私の望みを叶えてくれると仰いましたが…この儘だとあなたを信用できない………!!」

 嗚咽を交えて話すと、案の定、魔導師が慌てる。

『ど、どうしたというんですかモルガン!?何がありましたか!?私が信用を失う事をしたのですか!?』

「先程…暴漢に斬られました…」

『な、何ですって!?その愛くるしいチェリーのような唇を斬られたのですか!?』

「いえ…」

『で、では、その長い睫毛で覆われている瞳ですか!?もう私を見る事は叶わないのですか!?』

 とち狂っているのかこの男は?

 目を斬られたら電話どころでは無いだろうに。

 呆れながらそれを否定した。

『では、その柔らかい頬ですか!?その折れそうな華奢な首ですか!?その豊満な胸ですか!?その美しくくびれた腰ですか!?その形の良いお尻ですか!?そのスラリと伸びた足ですか!?』

 何だこの男は!?外見でしか女を見ていないのか!!

 だから男は駄目だ。女を常に下に見る。

 憤りながらも全て訂正し、私から話す。

「髪……自慢の長い髪が………」

『なぁあああんとおおお!?私のみが触れるのを許された、神の最高傑作のモルガンの髪を!!』

 …特に髪には拘ったつもりは無いが、まぁ、いいだろう。

『誰だああああああ!!!私のモルガンの髪を斬った愚か者はああああああ!!!』

 もの凄い怒っている馬鹿な魔導師。と、言うより、本当に聖職者か?と思いたくなるような言動が目立つ。

 まぁ、番犬代わりだ。主人の命令に背かねばいいだろう。

 そして私はあの男が視せた自身の名前を口に出した。

「北嶋…北嶋 勇…貴方が触れる髪を斬ったのは、その男です…」

 敵の名を言い終えた瞬間、電話向こうで、あれほど怒っていた魔導師が静まった。

『…北嶋 勇?寝癖でビョンビョン髪が跳ね上がっている、青い水玉パジャマを着た日本人?』

 水玉パジャマまでは記憶にないが、あの寝癖にはインパクトがある。

 無論、それは覚えているが…

「何故知っているのですか?」

『…私の目の前に『来た』からですよ』

 目の前に来た?

 意味が良く解らない。

 解らないが、魔導師はいつもの、いや、いつも以上の凄みを発しているのが電話越しでも解った。

「どうしましょう…私怖い…」

『…私が北嶋 勇を葬れば済む話です』

 それだけ話して一方的に電話を終えた魔導師。

 こんな事は初めての事だと驚く。

 いつもなら、もっともっととなかなか電話を終えない魔導師が…

 それだけ北嶋 勇を警戒しているのか?

 ある種の戦慄を覚えながら、携帯電話を閉じる。

 そして遠巻きに見ていた群集を退かして、私は家へ急いで帰った。

 家ならば、魔導師の結界が張ってある。

 安心を得る為に、私は早足となった。

 家に着くなり、ベッドに倒れ込む。

「ぁああぁあああああああ!!!」

 苛々が支配し、ベッドの上で暴れてしまった。

「男に!!男に怯えるのはアダム以来だ!!」

 怯える。

 そう、私は怯えている。

『あの』人類の祖、アダムを倒した男が、私に威嚇してきたからだ。

 斬撃は私の後ろから襲ってきた訳では無い。

 私の真正面から首をすり抜け、後ろ髪を斬ったのだ!!

 それだけじゃない、アダムを倒したと言う事は、人間を平伏させる威光が通じなかったと言う事。

 ならば私の魅了も通じないかもしれない。

「頼みは魔導師のみか……」

 魔導師ならば刺し違える事くらいは可能だろう。それだけの力は持っている筈だ。

 無理やり安心し、そのまま固く目を瞑る。

 それから眠れぬ儘、何時間か経った。

 そしてこの時、私を襲った喪失感。


 欠損部分が無い!?


 飛び起きた。あまりの驚きで。

「馬鹿な!!何故無くなった!?」

 妹に在る筈の私の肋骨の欠損部分が消えた、いや、移った?

 どこに移った?妹の傍には確実にある筈…

 集中し、欠損部分の行方を追う。


「ばっ!馬鹿な!!」


 一気に集中が途切れ、仰け反り、倒れ込む寸前になる。

 信じられない事が起こった…

 欠損部分はあの男が持っているのが解ったからだ。

 マズい…どんな理由か理屈か解らないが、欠損部分があの男に渡ったのは事実…

 妹には魔女と聖騎士、ワイバーンが付いているのは確実…

 更には、何だこの場所は?

 神気と魔力が1、2、3……6!?

 それに多少離れた場所には、凄まじい霊力を持つ女と、凄まじい魔力を持つ獣が居る!!

 女の霊力は魔女と互角かそれ以上…

 獣の方も、ワイバーンを凌ぐかもしれない魔力!!

 踏ん張るのを諦め、そのままベッドに仰向けで倒れ込む。

 右腕で両目を覆うように少し固まる。

 仕方無い…

 私も全ての力を使って挑まなければならないか…

 勝ちを拾う必要は無い。欠損部分を取り返して、直ぐに逃げればいいだけだ。

 徐に、部屋に備え付けている電話に手を伸ばす。

 コールした先は魔導師だ。

 だが、直ぐに留守番電話になる。

「私も妹の所へ連れて行って下さい。一週間後なら大丈夫ですから」

 それだけ言って終える。

 一週間あれば全ての駒を揃える事はできるか…

 それから直ぐに、私はあの男と戦う為の準備に入った…

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