第二十五短編 あ、り、が、と、う。

 ありがとうが言えない。たった五文字の言葉、口に出すのは簡単だ。


「あ」「り」「が」「と」「う」これらを発音すればいいだけの話なんだから。単体の、五つの発音記号とするならばすぐにでも言えるさ。


 でも「ありがとう」という意味を持った一つの単語として考えれば、それはとたんに難しくなる。その言葉は僕の喉を通らないくらいに大きい。そんなに大きなものを口から出すには相応の時間がいる。


 だから、いつも「ヒュー」と空気の抜けたような声しか出なくて、時機を逃してしまう。


 呼吸をするようにありがとうと言える人は本当にすごいと思っている。きっと僕なんかと比べ物にならないくらいに大きな人なのだろう。


 ありがとうが言えなくて、いざというときは何にもしゃべれない僕。


 たぶん彼女はそんな僕に苛立ちが溜まっていたのだろう。


 ついさっき、爆発した。


 彼女の腹の奥に溜まりに溜まった大量の不満は、決壊したダムの水のように僕をのみ込んだ。その放流に僕はたやすくおぼれて、何にも言えない内に彼女は家からいなくなってしまった。


 彼女がいなくなって、さっきまでの騒がしさはまったく消えて家はがらんどうになった。彼女の勢いに負けて呆然としていた僕だったが、はっとして彼女を探すために家を飛び出す。


 ごめん、ごめん、ごめん。


 もし彼女を見つけてもそれしか言えない。ほかに何を話せばいいのかまったくもってわからない。ただ「ごめん」という言葉だけが頭の中を駆け巡る。


 彼女が行きそうな場所をしらみつぶしに周っていく。


 けれど彼女はどこにもいなくて、最後に一度だけ来たことのある小さな公園に着いた。


 いた。彼女がベンチに座っていた。うつむいていて、表情は分からない。


 切らした息を整える暇もなく、


「ありがとぅ」


 口から出たのはか細くて情けない、そんな感謝の言葉だった。

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