13、3

 ソロモンと目顔でうなずいた。そして分かれて、ゆっくりと岸に向かう。俺は、ライラのリーチの外で、かつギリギリ近づける地点を目指して泳いだ。岸に泳ぎ着くと、浅瀬からゆっくりと上がる。全身ずぶ濡れだが、アドレナリンのおかげで寒さは感じなかった。ヒロが体をぶるぶる振る。

 ライラとの距離は50m。今のライラの体長は10mくらいだから、気づかれたらあっという間に捕捉される。幸い、今はライラの感覚器官を逃れているようだ。


 さて、問題はここからだ。

 ソロモンに啖呵を切ったはいいが、実際、俺は完全にノープランだった。

 無謀、無策、無計画。人間1匹で立ち向かうには、彼の大蛇は大きすぎだ。もちろん戦って勝とうというわけではないが、どうやってライラの記憶を呼び起こせばいい。

 しかし泣き言を言っている場合ではなかった。刻一刻と状況は不利になっていく。


 俺は、さっきライラに襲われた時のことを思い出した。ライラの動きが鈍ったのは、俺と接近した瞬間。その時、はっきりとライラと目が合って、ライラの動きが止まった。見知った相手の姿が手がかりになって、記憶を取り戻しかけたのだ。

 ということは、聴覚以外でも、視覚に訴えかけることで暗示にゆさぶりをかけられるかもしれない。


「…ヒロ。少しずつ、ライラに近づこう。ライラがこっちに気づいたら、二手に分かれて注意を引く。どっちを狙うか迷わせるんだ」

 もはや作戦でもなんでもなく、姑息な時間稼ぎにすぎない。でもそうやって引き伸ばした時間の中で、ライラが自ら呪縛を打ち破る確率を上げる。

 ライラは地に伏せ、ゆらゆらと体をくねらせながら索敵している。そおっと、そおっと、ライラの突撃に構えつつ、蛇の視力で見える位置に、徐々に近づいていく。


 あと20mという位置に来た時、ライラの首の動きがぴたりと止まった。俺とヒロの足も止まる。蛇は鎌首をもたげ、こちらにじっと顔を向けた。

「まだだ」

 短くヒロに指示する。ここで大きな動きをすれば、地面を伝う振動によってすぐさまライラに感知されてしまう。

 ライラはゆっくりと前進する。舌を伸ばし、温度と匂いを嗅ぎ取ろうとしている。

 まだ気づかれてないと頭ではわかっていても、巨大な捕食者にこれほど接近されると、本能的に逃げ腰になる。恐怖に耐え、なんとか踏みとどまる。もう、俺とヒロの姿が見えてもいいはずだ―――


 その時、ライラが、下顎をがっぷり開けた。


「―――行けッ!!」


 理性ではなく、本能が俺に叫ばせた。俺は岸辺沿いに、ヒロは茂みに向かって弾かれた様に駆け出した。

 いったんは口を開けたライラだが、二方向から振動を感じたので、どちらを追うか迷っているようだ。だが、俺とヒロを見比べた後、より近い方を選んだ。

 すなわち、俺の背後をすさまじい速さで追ってきた。


「っ―――!!」

 ライラの進行方向を確認すると、それ以上後ろを振り返る余裕が消し飛んだ。少しでも首をひねろうものなら、蹴躓くか失速するかして、即座に追いつかれるだろう。一心不乱に足を動かすが全く引き離せないので、まるでいくら走っても進めない悪夢のようだ。仮に噛まれても覚めないのだから、悪夢以上にタチが悪い。

 肩で風を切るが、全力疾走はせいぜい100mしかもたない。ライラの、大蛇の息遣いが、じわじわと迫ってくる。

 大声で名前を呼ぶか? いや、聞こえるかどうか以前に、無酸素運動中でそもそも息が吸えない。ライラ、早く気づいてくれ―――――


 もう追いつかれる、と思って振り向くと、ライラが体を大きく折り曲げていた。長い舌を激しく動かしている。

 ライラの視線の先には、ヒロがいた。

「ライラちゃん、やめて! それはカイ兄ちゃんだよ!」

 きっとライラに噛みつくのはつらいはずなのに、また注意をそらしてくれた。

 ライラはヒロの方向へ頭を向けた。ヒロの訴えは耳には届かず、敵に向かって素早く蛇行する。

 ヒロの方が、俺よりずっと速い。ライラの凶悪な顔にも物怖じせず、機敏に木々の間を駆け回った。すばしこいヒロの動きに翻弄され、蛇は怒った。


 これでしばらくは時間が稼げそうだが、ソロモンの方は今どうなっているのだろう。かなり走り回ったので、ソロモンもエリシャの姿も見えない。結界が解ければすぐにわかるはずだが、空を見上げてもその気配はない。

 そもそもライラの暗示を解かなければ、蛇の姿のままで救出するのはかなり無理がある。ラエドに手伝ってもらっても何とかなるかどうか。


 いや、考え込んでいる場合じゃない。早くライラの目を覚まさせよう。

 ライラは今ヒロを追って、2本の木の周りをぐるぐる回っている。俺もそっちへ向かい、声を張り上げた。

「ライラ! 早く目を覚ませ!」

 俺にできることといえば、姿をさらすか、声が枯れるまでライラを呼び続けることだけだ。聴力がということは、。が、この距離では遠すぎるようで、俺は少しでも声が聞こえるように、木に巻き付いたライラの胴が触れる位置まで近づいた。

「こっちだライラ!」

 ライラは一瞬、煩わしそうに顔を向けたが、ちょこまか動き回るヒロの方が目ざわりなのか、再びヒロに狙いをつける。

 あとどれくらいで、ライラを覚醒させられるのか。もう一度叫ぼうと息を吸った。


「きゃあっ!」


 ヒロが悲鳴を上げて飛ばされた。

 ライラではない、何者かに蹴飛ばされたのだ。


「ったく手こずらせやがって」


 木陰から現れたのはエリシャだった。

「お前、ソロモンは―――」

「裏切者なら閉じ込めておいたよ。本当に君たちは往生際が悪いね」

 エリシャの結界は、人間をも封じられるのか。


 苦しげな唸り声が聞こえた。

「ヒロ!」

 ヒロは地面にたたきつけられ、よろめいている。血管が焼き切れそうだ。俺の身体の熱さとは対照的に、エリシャの声はぞっとするほど冷たい。

「本当は君だけ始末すればいいんだが、これはささやかなお返しだ」

 そう言って腕を上げる。腕輪が赤黒く光った。エリシャは、地に伏したヒロを見ている。


「…何する気だ」

「心配するな。君もすぐに一緒になる」


 叫んだ。エリシャは手を止めない。腕輪の光の方向に従うように、ライラはヒロに狂暴な牙を向ける。

「ライラ! ライラやめてくれ! それはヒロなんだよ!!」

 また蛇が、わずかにこちらを見る。しかし再び視線を戻した。


 もう俺の声じゃどうにもならない。しかも木々に遮られ、俺やヒロの姿すらまともに見えてないだろう。

 俺は辺りを見回した。足元に、拳大の石が転がっている。それを引っ掴んで無我夢中で投げた。

 石は、蛇の後頭部にぶつかった。内心で思わずごめんと詫びる。振り返った蛇は、不意打ちを受けて激している。

 そしてエリシャの命令が下る前に、標的を俺に変えた。

 俺は踵を返し、脱兎のごとく逃げ出す。

「死に急がなくてもいいのに」

 エリシャの呟きがはるか後方で聞こえた。


 俺は再び湖畔に出た。

 俺が追われている間は、ヒロは襲われない。しかしこのままではジリ貧だ。俺の体力は尽きかけていて、いつもつれて転ぶかわからない。

 俺はイチかバチか、足を止めると同時に素早く後ろへ振り向いた。そして、ライラの首の動きを睨む。

 ライラは大きく口を開き、まっすぐこっちに突っ込んできた。その動きはライラと俺の位置を最短で結ぶ直線。なら、タイミングさえ合わせれば。


 俺はもちうる動体視力をすべて使い、ライラの牙を寸前で避けた。

 俺の肩とライラの顔が、間一髪ですれ違う。

 翻ると、ライラは湖の岩場に激突していた。

 ライラの後ろに回る。ライラは俺に飛びかかった勢いのまま頭をぶつけたので、ふらついている。

 その隙に、もう1度名前を呼ぼうとした。

「っ、ら、らいっ…」

 空気を吸った瞬間せき込んだ。息が上がって、ろくに声も出せない。

 いや、どのみち言葉ではもう暗示は解けない。あれだけ叫んでも届かなかったのだ。


 どうする。視覚や聴覚に働きかけても、ライラを覚醒させる決め手にはならなかった。時間をかければあるいは可能かもしれないが、そんな猶予はない。

 嗅覚もあてにならない。あと残っているとすれば―――



 馬鹿げている。が、もうこれしか方法がない。



 ライラが体勢を立て直した。そしてまた俺に狙いを定める。

 集中しろ。さっきと同じなら、見切れるはず。

 何度も避けられているので、ライラは慎重になっている。俺も神経を研ぎ澄ませ、ライラと呼吸を合わせる。


 瞬間。牙が上下から襲いかかる。


 わずかに軸を倒す。


 ライラの上顎が被さる。


 牙の先端が、体に触れた。




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