13、2

 離れたところに、ソロモンの姿が見えた。リーフは逃がして、自分は残ったようだ。しかし、巨大な蛇が俺を拘束しているので、迂闊に近づくこともできない。


「やってくれたね」


 エリシャがゆっくりと近づいてきた。ドラゴンたちが逃げのびた上空へ目をやり、舌打ちする。

「なんか企んでいる予感はしたんだが、泳がせたのは間違いだったな。してやられたよ」


 月明りしかないので、エリシャの表情ははっきりとはわからない。しかし落ち着いた口調から発せられる烈しい怒気に、俺は思わずつばを飲み込んだ。

「ここまでドラゴンを集めた苦労が水の泡だ。どうしてくれる」

 エリシャの怒りに応じるように、蛇の締め付けが強くなる。エリシャが目の前に立った。


「さて、ドラゴンの暗示を解いたのは君か?」

「…さあ、そんなこと知ら―――」


 突然息が詰まり、俺は激しくむせ返った。エリシャの手の動きに合わせて、蛇が胸を締め上げたのだ。あばらが歪み、呼吸もままならない。

「手間をかけさせるな」

 冷淡な言葉に、反抗心が挫ける。

「……そうだよ。俺がやった」

「驚いたな。本来、かけた本人にしか解けない暗示なんだよ。そんな能力を持っている人間を引き入れたなんて誤算だ。それとも、君の計算通りか?」

 エリシャは多少は意外そうな気配だが、それ以上動じる様子もなかった。


「まあ、ドラゴンはまた集めれば済む。しかし、君の能力は私の計画にとって非常に迷惑だ」

 言いながら、エリシャは左手を振りかざした。

「それじゃあね」


 俺が恐怖する間もなく、蛇の強靭な筋肉が収縮し肺がつぶされた。

 意識が消えかけ、大蛇が血のように赤い口を開いて迫ってくる。

 蛇の緑色の瞳と、まともに目が合った。


 蛇が、わずかに動きを鈍らせた。


 かと思った瞬間、蛇が突然のたうった。体をそらし、鋭い息とともに吐き出された舌が、怒りに燃えている。

 蛇がにらみつけた先には、太い胴体に噛みつく見知った影があった。


 俺がその影に目を見張っていると、ソロモンが声を上げた。

「カイ、早く逃げるんだ!」 

 俺はハッとして、大蛇がひるんでいる隙に、体をくねらせてとぐろから這い出した。影に向かって「来い!」と呼ぶと、影は大蛇からさっと離れて俺についてきた。



「ヒロ、お前どうやってここに!?」

「ソロモンさんが、ここに来れば兄ちゃんを助けられるって教えてくれたんだ!」


 久しぶりの再会だが喜んでいる暇はない。全力で蛇のリーチから逃げ出す。こうなたら、結界の外まで走って抜けるしかない。でも、あんな大きな蛇に速力で勝てるのか?

 とにかく、一刻も早く離れないと。ところが、ヒロが急に足を止めて大蛇を振り返った。


「なにしてるんだよ、早く逃げるぞ!」

「どうしよう、びっくりして噛んじゃったけど、痛くないかな?」


 こんな時に、化け物の心配か。呆れてため息をつきかけたが、とある考えが閃いて、俺は愕然とした。


「ヒロ、あれは、なんだ?」


 まさかと思ったが、俺の希望は見事に裏切られた。


「ライラちゃんだよ! どうしてあんなにおっきくなったんだろう?」


 俺は大蛇の顔を凝視した。俺の目には、ライラと感じさせるものは何も見当たらない。しかし人間の夜目と犬の鼻では、どちらを信用するべきかは明白だった。

 俺はめいっぱい息を吸って叫んだ。


「ライラ! 目を覚ませ!」


 蛇は、蛇に変化へんげしたライラは、なおも舌をちらつかせこちらへ向かってきた。白い牙には殺意がきらめいている。いくら相手がライラでも、今の凶悪な姿には脅威しか感じない。


「ライラ、俺だよ、カイだよ!」

「やめろ、カイ!」


 俺の呼びかけにかぶせるように、ソロモンが叫ぶ。そうは言っても、ライラの名を呼んで思い出させないと、暗示が解けないじゃないか―――

 と思っている間にも、ライラが体躯を引き伸ばし、俺とヒロの間に突っ込んでくる。間一髪、飛びのいて避けた。ヒロが、悲痛な声で吠える。


「もしかして、それが暗示を解く方法なのか?」

 反射で顔を上げると、エリシャが俺を見つめていた。そんな問いに答える義理も余裕もないので必死に体勢を立て直していると、エリシャが喉を鳴らしていた。

 やがて、場違いに朗らかな笑い声が響く。


「そんな単純な方法で解けるなんて、予想外だったよ。でも、そういうことなら、

 さすがに無視できずに訊き返そうとする。が、後ろから襟をつかまれ声に詰まる。

「ぐえっ」

「無駄だカイ! 今は彼女から離れるんだ」


 何がなんだかわからず、ソロモンに引っ張られるまま後退する。ソロモンは、俺とヒロを木立の陰に引き連れた。

 ソロモンが切迫した声で告げる。

「カイ、ここはいったん退こう。兵たちがまだ動けないうちに、結界を出てドラゴンと合流するんだ」

「あれは、あの蛇は、ライラの変化した姿なんです!」

「わかっている。でも、今はあきらめろ」

 俺はとっさに抗議した。

「ライラを置いてけません、もう少し呼べば暗示も解けるはずです」

「無理だ」

 ソロモンは俺の要求をはねつける。


「駄目なんだ、今の彼女には、君の言葉は届かない」

「それってどういう―――」

「彼女が見た通りの蛇なら、音はまず聞こえない。


 俺は口を半開きにし、呆然とした。

 つまり、現状では、ライラを解放する術が、ない?


 俺が立ち尽くしていると、殺気だった吐息が後ろから近づいてくる。

 回り込まれた!

「カイ、こっちだ!」

 言われるがままに、ソロモンについていく。


 どこに向かっているんだと思っていると、やがて茂みから出た。視界が突然拓け、地面の縁と、その底に溜まる広い湖が見えた。

「飛び込むぞ」

「は!?」

 突飛な命令に思わず聞き返すが、ソロモンはお構いなしにローブを脱ぎ捨て、飛び込む体勢になっている。俺がためらっている間にも、背後から大蛇の、いやライラの荒い息遣いが迫ってくる。

 ええい、ままよ!

 俺もローブを脱いで腕をまくった。高さは3メートルくらいか。水温はどのくらいだろう。努めて考えないようにする。

「ヒロ、大丈夫か?」

「うん!」

「行くぞ」

 ソロモンが掛け声とともに、水上に躍り出る。俺もその勢いに任せて湖岸から飛び降りた。


 

 一瞬体が宙に浮く。そして水面にしたたかに打ち付けられた。

 衝撃の後、冷水が皮膚を貫いた。身構えていても、急激な温度の変化に心臓は縮みあがる。無我夢中で水をかき、ソロモンを追って泳ぐ。

 ソロモンが後ろを振り返る。俺もつられて岸を見た。

 水辺には、ライラがいた。首を伸ばし、得物を探すように左右に頭を振っている。かなり派手な音を立てて水に飛び込んだのに、ライラは俺たちを見失っているようだ。

「やはりな。この暗闇なら、温度と匂いを断てば彼女を振り切れる。このまま反対側の岸まで渡って、彼女をまこう」


 俺は、ライラの姿から目を離せなかった。

 突然目標を失った蛇は、しきりに首をかしげている。もちろん、記憶も封印され、自我さえ持たない大蛇は、主人に命じられた獲物を盲目的に探しているだけだ。

 でもその仕草が、俺の目には、初めて異世界に渡っておろおろしていた時と同じライラにしか見えなかった。


「…これから、どうやってライラを連れ戻すんですか」

「エリシャたちの拠点は分かっている。もう一度あの地下へ潜り込んで」

「無理に決まってるじゃないですか。今更侵入できっこないし、第一、こんな失敗した後で、同じ拠点を使うとは思えません」

 ソロモンは何も言わなかった。


 考えれば考えるほど、ライラを取り返すのは無理な気がしてきた。エリシャにとっては唯一手元に残ったドラゴンで、絶対に手放したくないはずだ。しかも1頭だけなら管理もしやすい。結界の扱いも慎重になるだろう。厳重な監視の中、再びライラに接触するのはどう考えても不可能だ。

 だとすれば、チャンスは今しかない。


「…もしかしたら、思い出させられるかも」

「カイ、気持ちは分かるが―――」

「さっき、俺に噛みつこうとした時目が合って、一瞬ためらったんです。何かきっかけがあれば、記憶が戻るかもしれない」


 ソロモンは、呆れたような、憐れんでいるような、複雑な目をした。

 実際俺だって、苦し紛れで言っただけだ。そもそもあれがためらいによるもかどうかも確証はない。しかし、なんとかこの場でライラを目覚めさせなければ。


 不安をこらえてソロモンを見つめ返すと、ソロモンはため息をついた。

「…ドラゴンはほとんど解放できた。1頭だけなら天変地異を起こすような脅威にはならない。正直なところ、彼女は諦めるべきだというのが私の意見だ」

 俺だって、理屈ではそう思う。

「だが、君の決意は固そうだし、ここで口論する方がよほど不毛だ。だから1度、ライラが覚醒する可能性にかけよう」

 肩から力が抜けた。

「ありがとう…ございます」


 ソロモンは岸辺をうろうろするライラに目をやった。

「私はエリシャを捕らえて結界を解かせる。カイは、ライラの気を引いて隙を作ってほしい」

「わかりました」


 もし結界が解ければ、上空で待機しているドラゴンたちの力を借りられし、うまくいけばライラを目覚めさせることができるかもしれない。

「カイ。さっきも言ったが、彼女が狙っているのは温度と匂い、それと振動だ。水から出た直後、しばらくは体温と匂いを誤魔化せるだろうが、そう長くは続かない。その間に、君は彼女を覚醒させるきっかけを作れ。もし無理だと感じたら、すぐに退くぞ」

「はい!」

 時間はない。長引けば長引くほど、ソロモンを危険にさらすことになる。


 俺とソロモンのやり取りを聞いていたヒロが、顔を上げた。

「兄ちゃん、ライラちゃんのところへ行くの? ライラちゃんはどうしちゃったの?」

 ヒロは心配そうに、俺と蛇になったライラを交互に見た。

「ライラは今、操られてるんだ」

「操られてるって、どういう意味?」

 俺は適当な言葉を探した。

「つまり、ライラは、悪い夢を見てるんだ」

「そっか! じゃあぼくも行く!」

 ヒロは勇ましく一吠えした。


「悪い夢なら、早く覚ませてあげなくっちゃ!」


 俺はヒロの頭をわしゃわしゃした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る