10、3

 両側を崖に挟まれているので、谷底には日が届かず薄暗かった。川の流れはさっきの濁流が嘘のように穏やかだ。こんな短時間でここまで水位が増減するのはやっぱり異常だ。ライラの言っていた、「ドラゴンの力によるもの」という言葉も気になる。ライラの言葉とマタルの反応から推測すれば、町にいるドラゴンたちとあの異常気象は関係しているに違いない。一番短絡的に考えるなら、セイレンのどこかにいたドラゴンたちがあの嵐を引き起こしたということになる。でも、なんのために?


 考え出すときりがないが、今は考えてる時ではない。答えを知るためには、まずあの町に戻らないと。



 日が沈み、あたりはすっかり暗くなっていた。じきに何も見えなくなってしまう。

「マタル、平気か?」

 振り返って聞くが、マタルは首を傾げた。

「なんのこと」

「いや、なんでもない」

 正直、俺の方が参っていた。今のところ動物などの気配はないが、灯りなしじゃ危険すぎる。人間にとって視覚を奪われるのは外界の情報をほぼすべて失うに等しい。本能的に恐れて当然だ。つーか怖い。


 俺は何か火をつけられそうなものはないか探してみた。バッグからライターを取り出し、適当な太さの枝を拾ってあぶってみる。

 が、案の定湯気が立つだけで火はつかない。それに、仮に火が付いたとしても枝だけじゃすぐに燃え尽きてしまうだろう。

「マタル、何か火をつけられそうなものってない?」

 試しに尋ねてみる。するとマタルは、いきなり川に足を突っ込んだ。

「ちょ、ちょっと」

 俺が困惑していると、マタルは浅瀬にある何かをつかんで持ってきた。黙って俺に差し出す。

「え、えっと」

 これ、さっきの石、もとい、サファイアもどきじゃないか。まさか、からかってるのか。マタルをまじまじと見ると、相変わらず何を考えてるのかよくわからない顔をしている。

 マタルは何も言わずじっと見返すだけだったので、俺は半信半疑でライターの火を寄せてみた。


「あっつっ!」


 熱さと驚きで手を離すと、火の玉が足元で弾んだ。火は一瞬で石を覆った。地面に落ちても、煌々と燃え続けている。なんなんだこの物質は。

 ともあれこれで光源は確保できた。さっきの枝を火の玉に強く押し当ててみると、先端が刺さった。おそるおそる持ち上げると、玉はしっかり固定できていた。

 落ち着いてからマタルに顔を向けると、一部始終を静かに見つめていた。ふう、とため息をつく。やけどしかけたが、明かりを得られたので人心地つくことができた。

「ありがとう、マタル」


 マタルは何も答えなかった。が、わずかに目じりが下がった気がした。



 松明を掲げると、少し先が見通せるようになった。蛍光灯と比べると明るさは落ちるが、目が暗闇に慣れてきたので3m先まではおぼろげながら見える。その光をたどって、ゆっくりと足を進めた。日没後の谷は、世界中の陰を集めて煮詰めたような濃い闇で満たされている。音までも闇に吸収されたかのように、あたりは静まり返っていた。

 ここはいったい台地のどの辺なんだろう。谷に入ってから3kmぐらいは歩いた。そろそろセイレンの近くに着くか、もしかしたら通り過ぎてるかもしれない。これ以上の距離を流されたとしたら、さすがに俺は生還不可能だっただろう。


 そう思い始めた頃、水音が聞こえてきた。進むにつれて大きくなり、やがてそれは水が落ちる音だとわかった。滝か?

 水音は左手、川の中央の方から聞こえてくる。あたりを注意深く探ってみると、すぐ目の前に壁が立ちふさがっていた。灯りが届かないので高さははっきりしないが、見える限りでは4、5mはある。壁はほぼ直角に崖からのびていて、どうやら谷を横切っているようだ。壁に触れてみると、崖の壁面に比べて滑らかだ。自然にそうなったというより、加工したような感じがする。はて、これはなんだろう。


 頭をひねっていると、突然閃いた。

「マタル、町が近いよ!」

 そう言いながら振り返ったら、マタルの姿がない。

「マタル?」

 俺は慌てて道を引き返した。マタルは少し後ろで立ち止まっていた。俺はため息をつきながらマタルに近づいた。

「脅かすなよお」

 こんな場所ではぐれるなんてシャレにならん。文句の一つも言おうと松明の明かりを寄せた。


 マタルの両目は見開かれていた。眉間にはしわを寄せている。今まで見たことのないほどはっきりとした表情で、それは嫌悪をありありと表現していた。


「大丈夫か?」

 焦って聞くと、マタルは小さく首振った。かなり深刻そうだ。俺は嵐の時のライラのことを思い出した。きっとセイレンに近づくほど、ドラゴンにとって不快感が増すのだろう。

 かといって、ここまで来たのに戻るわけにもいかない。なにか役に立ちそうなものはないかとバッグを探ったら、板チョコが出てきた。濡れているが食べられないことはない。俺は包みをはがしてマタルに差し出した。マタルは受け取って、茶色い板を見つめた。

「それ、食べてみて。ちょっとは落ち着くと思うから」

 ライラはおやつに喜んで食べていたから、ドラゴンには毒にならないだろう。もちろんヒロやミケには食べさせないが。

 マタルはチョコを小さくかじった。直後、固まる。かと思うとがつがつほおばった。リアクションがライラと全く同じだ。


 そういえばライラが、人とドラゴンは昔、お互いにない技術や能力を提供し合っていたと言っていたのを思い出した。この世界にチョコがあるのかはわからないが、あるいはこんな風に食べ物を交換していたのかもしれない。

 そんなことを想像していると、俺もお腹がすいてきた。気を張っていたせいで空腹を忘れていたが、俺もカロリーを摂取しておいた方がよさそうだ。俺はもう1枚の銀紙をはがした。




 チョコレートのリラックス作用のおかげで、だいぶ心を落ち着けることができた。マタルも少し気持ちがほぐれたようだ。

 セイレンは、このすぐ上にある。マタルが気分を悪くしたのもそういうことだ。加えて、前方で川をふさいでいるのは、取水のためのダムに違いない。後は、どうやって崖を登るかだ。


 俺は松明を崖に近づけ、上から下までくまなく照らしてみた。すると、崖とほぼ同じ色の何かがぶら下がっていた。2組の太いロープの間に、等間隔で横木が取り付けられている。ラダーだ。

 両手でつかんで何回か引っ張ってみても、びくともしない。当然人間用に作られているものだから、そうそう切れたりしないだろう。でも、あの雨の後で弱くなってないかとか、たまたま見つけたラダーに体重を預けていいものかとか、不安はぬぐえない。しかし、他に上へあがれそうな場所はなかった。


「マタル。ここから上に行こうと思うんだけど、どうする」

 マタルも緊張した面持ちをしていた。しかし意志は揺るがない。

「いく」

 俺はうなずいた。


 ラダーは一人分の幅しかない。どれくらいの耐久性かわからないし、まずは俺が登って確かめた方がいい。マタルの方がどう見ても体重は軽いから、俺が登り切れればマタルは問題ないはずだ。万一ロープが切れても、下でマタルが待機してくれてれば治してもらえる。10mの高さで下がぬかるんだ地面なら、悪くても骨折で済むだろう。

 俺は浅瀬へ歩いて行って、サファイアもどきと折れた枝を調達した。それをバッグにしまう。そして崖に向かうと、松明をマタルに預けた。

「マタル。俺が上にあがって呼ぶまで待ってて」

 マタルはコクンとうなずいた。俺はロープをつかんで、ゆっくりと体重をかける。


 湿ってはいるが頑丈に作られていて、切れる心配はなさそうだ。ただし、ロープでできているから、足を踏み込むたびにラダーが揺れる。しかも明かりが遠ざかると手元がまったく見えなくなった。俺は手探りでロープをつかみながら、一歩一歩慎重に登った。

 落ちてもせいぜい骨折だが、落ちないに越したことはない。


 神経をとがらせて登ること数分。かすかに、空気が流れるのを感じた。さらに上がると風が吹いてるのがはっきりわかる。もう少しで頂上だ。見上げると、星が輝いている。最後に右手を伸ばすと、ロープが途絶え、縁に手が触れた。背伸びをして、念入りに調べる。ロープをたどると、太い杭が刺さっていた。それに手をかけて、腕と足の筋肉に目いっぱい力を入れた。


 視界がパッと開ける。満点の星空と、町の明かりが広がった。気を抜かないように足を地面に乗せ、重心を前方に傾ける。登り切った瞬間、俺は前のめりに倒れた。


「っはああああぁぁぁ……」


 張りつめていた神経が一気に解放され、大きいため息が出た。セイレンはすぐ近く。時間はかかったが、これでヒロたちと合流できそうだ。

 俺は、バッグから木の棒と燃料を取り出した。あらかじめ枝の先端に燃料を突き刺してから、再びライターで火をつけた。

「マタル、松明を置いてここまで上がれるか?」

 谷底のマタルに呼び掛ける。小さく「うん」という答えが聞き取れた。マタルは足元に松明を置き、ラダーの手をかけた。なるべく目印になるように、新しくともした松明を崖の上にかざす。

 マタルは、なんのためらいもない足さばきでぐいぐい崖を登ってきた。あっという間に縁に手をかけぐいと体を持ち上げる。鈍い反応とは裏腹に動きは機敏だ。

「…すげーな、お前」

 思わずつぶやくが、マタルは相変わらずの無反応。ドラゴンにとってこれぐらいの運動は朝飯前ということか。


 なにはともあれ、一番の難所だった崖は踏破した。あとは、セイレンに入ってヒロとライラを見つけるだけだ。

「今からセイレンに向かうけど、平気か?」

 再三マタルに確認した。昼間のライラの様子から考えれば、ドラゴンにとってはかなりこたえるだろうと思ったのだ。マタルは、かすかに眉根を寄せたままうなずいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る