10、挽回

10、1

「ガハッ、ハッ、ハッ…ハァハァ…」


 さむい。苦しい。痛い。

 息をするのがつらい。


 背中に何かが当たっている。地面か。仰向けになっている。位置が安定してるから、岸に打ち上げられたようだ。たった今生まれたばかりのように懸命に息をしている。酸欠で身体があえいでいる。呼吸があまりにも乱れているので、肋骨や横隔膜がミシミシと軋んだ。


 やがて呼吸が落ち着くと、だんだん頭が冴えてくる。俺、谷に落ちたのか。落雷かもしくは地割れか、足元が崩落したんだ。落ちていたのは俺だけだったが、ヒロやライラは無事だろうか。あれほどの濁流にのまれて再び目が覚めるとは、もう一生分の幸運を使い果たしたな。


 思考が戻ると同時に、体も痛み出した。しかも半端じゃない。全身の骨が折りたたまれるのと同時に内臓がはちきれそうだ。わずかな深部感覚によって、俺の身体は原形をとどめているらしいことが分かる。試しに右腕を上げてみた。動いた。信じられない。


 こんな痛いのに、なんで生きているんだ? いや、もしかして、これから死ぬのか?


 しかし俺の恐れとは裏腹に、痛みは和らいでいった。五感はあるから、瀕死のために痛覚が消えたわけでもなさそうだ。

 仰向けのまま目線を下げると、体中が汚れていた。父さんのコートは、目も当てられないようなボロ雑巾になり果てていた。あちこち破れていて、かろうじて体にまとわりついているような状態だ。右肩には、奇跡的にデイバッグが引っ掛かっていた。


 流されたのは間違いない。しかし何とか生き残ったようだ。そう結論付けられるくらい知能が回復して初めて、すぐ傍らに何かが“居る”のに気が付いた。


「ぎぃやああああああああ!!」


 反射的に叫んだ。殺される。死にかけたのに殺される。息が続くまで叫んだ後、別に殺されるわけじゃないことに気づいた。生命の危機に瀕したため、危険に対し過敏になっていたようだ。冷静にその何かを観察してみた。

 驚くことに、それは人の形をしていた。しかも見覚えがある。激流にのまれた際に体と一緒にかき回された記憶を整理していくと、それはすぐに見つかった。

「マタル……?」

 これは、この子は、前回この世界に来た時出会った少年のドラゴンだ。よく見ると、マタルは両手を俺の腹に当てている。そのあたりに意識を集中すると、温かくて心地よかった。

「マタル、だよな?」

 今度は尋ねてみた。少年は俺を見てうなずいた。


「なおった?」

「えっ、ゲホッ、た、たぶん…」


 予想外のことに俺はむせた。マタルの様子を見る限り、俺の治療をしてくれてるらしい。

「もしかして、治してくれてるのか?」

「うん。いっぱいこわれてたから、なおした」

 おお、なんと恐ろしいセリフだ。重傷を負っていたということもさることながら、それを壊れていたと表現するマタルの無機的な言い回しもぞっとしない。せめて笑ってくれてさえいれば安心できるんだが、マタルの表情は目が覚めたばかりのようなぼんやりとした顔だった。


 やがてマタルが俺の腹から手を離した。治療は終わったらしい。手のひらを地面について腹筋に力を込めると、体を起こすことができた。手であちこち点検してみるが、いっぱいこわれてたとは思えないぐらい健康的だった。服の破れ具合から察すると、かなり大怪我だったのは間違いない。骨折や、下手すると内臓も破裂していた。それをここまで

「ありがとう、マタル」

 マタルは答えない。ただぼうっと俺の顔を見つめている。初めて会った時と同様、感情表現が乏しい。ライラや竜の森に住むラエドのことを考えると、他のドラゴンにも感情があると思うのだが。


 あたりを見回すと、ひどいありさまだった。川岸には、折れた木や黒い土砂など、嵐の残骸が散乱している。雨は止んでいるが、川の水はまだ濁っていた。

「ここ、どこ?」

「しらない」

 つれない答えだ。とは言っても、ドラゴンの少年に、人間基準で地理を把握しておけというのは無理がある。せめて人間に聞こう。

「ソロモンはどこ?」

 俺は、当然マタルと一緒にいるであろう男に助けを求めようと思った。


「いない」

「は?」

「ソロモン、かえってこない。ナビーのこども、たよれいわれた」


 ソロモンがこの子を残して消えたらしいことは分かったが、マタルの説明はどうも要領を得ない。なぜかは分からないが、ライラよりも言葉が拙い。

 もちろん、人間以外の動物の言葉に文法はない。俺が、鳴き声や表情や動作や、あるいは五感以外の何かで察知した情報を、俺自身の母語という形で知覚しているだけである。いわゆる共感覚のようなものだ。だからそれがまとまっていないということは、マタルが発する情報が不足している、つまり、意思表示が下手ということなんじゃないだろうか。いやそもそも、この奇妙な能力と奇妙な現象を、論理的に解釈しようとすることが間違っているのかもしれないが。

 それでも俺は、なんとかマタルから情報を聞き出そうと思った。


「ソロモンはなんで帰ってこないんだ?」

「しらない」

「探さないのか?」

「おれ、さがせない」

「ナビーの子供って、俺のこと?」

「うん」

「なんで俺を頼れって言われたんだ?」

「しらない」

 圧倒的情報不足。これじゃあなにがなんやらさっぱりだ。


 しかしそれ以上に、ソロモンとマタルの関係が余計にわからなくなった。マタルの言動から察するに、どうも自ら好んで人間と暮らしているわけではなさそうだ。ソロモンに対する愛情も感じられないし、少なくとも親子と呼べる関係ではないだろう。しかしそんな複雑なこと聞いても、マタルには答えられないだろうな。


 俺は、まっさきに思い浮かんだ案を口にした。

「とりあえず、ティナンの森で仲間に聞けばいいんじゃないか?」

「なかまって、なに」

「他のドラゴンだよ」

「しらない」

「は?」

「ドラゴン、しらない」

 俺はマタルの顔をまじまじと見た。相変わらずぼうっとしている。嘘をついているようではないし、そもそも嘘がつけるのか疑わしい。

「お前、ドラゴンだろ」

「しらない」

 いよいよわからなくなってきた。植物を成長させたり俺の身体を治療してくれたのは、自然を司るドラゴンの力にまちがいない。「しらない」とはどういうことだろう。


 俺の頭は疑問でいっぱいになったが、しかし疑問の解消が事態の解決になるとも思えなかった。とにかく、俺がなによりも優先すべきは、セイレンに戻ってヒロとライラと合流することだ。セイレンには、大勢のドラゴンたちもいる。

「マタル、セイレンはどっちの方向かわかる?」

 マタルは、振り返って後ろを指さした。


 視線ををさかのぼっていくと、1キロくらい先で突然大地がせり上がっていた。川は、その台地を分断するように流れて来ている。これだけ流されて、よくもまあ生き残れたもんだ。ことの重大さに、今更背筋が寒くなる。

 とはいえ、あの台地の上にセイレンの町はあるらしい。空を見上げると、分厚い雲の切れ間に、赤い夕陽が反射していた。かなり長い間気を失っていたようだ。時計を見たが、当然のように壊れていた。急がないと日が暮れる。


「ソロモン、さがす?」


 俺が移動しようとする気配を察してかマタルが尋ねてきた。正直、自分のことでいっぱいだし、そう何件も人探しを請け負えない。

 とはいうものの、どのみち同じ町が目的地だ。

「お前、ワタリはできるの?」

「なに、それ」

 ラエドは、ワタリには技術が必要だというようなことを言っていた。幼い(少なくともそう見える)マタルにできないのも無理はない。それに、できるんだったらとっくにやってるだろう。

「ソロモンのこと、探してやるとは言えないけど、一緒にセイレンに行くか?」

 マタルは、ぼうっとした目でしばらく俺を見つめてから、コクンとうなずいた。俺が歩き出すと、後ろをついてくる。


 コミュニケーションは取りづらいが、異世界を歩き回るのに、これほど心強い味方はいないだろう。

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