5、4

 冷たく、湿った空気が触れた。まぶたをきつく閉じているので何も見えないが、見るのが怖いような気もする。俺は恐るおそる目を開けた。


 あたりは、霧が漂っていた。雨上がりか朝方か、気温も低い。ゆっくりと空気を吸い込むと、肺の内側がしっとりと濡れる。

 視線を巡らせると、地面がなだらかに下っているのが見えた。丘の上か、山の中腹に立っているようだ。大地には短い草が生えていて、露でしっとり濡れている。少し離れたところには、木も立っていた。


 俺たちがさっきまでいた神社とは明らかに違う場所で、本当に移動している。少なくともこんな土地、俺の記憶にはない。もしこの光景が妄想である可能性を疑うとしたら、俺は水槽に浮かんだ脳みそである可能性からいちいち反証しなければならなくなる。

 ようするに、今見ている世界は、議論の余地ないほどの現実味を五感を通して俺に教えていた。


 唖然とする俺の手のひらに、ヒロが鼻先を押し付ける。

「兄ちゃん、ここ、どこ?」

 足元を見ると、ヒロが不安そうに身を寄せていた。よかった。ヒロも一緒に来れたようだ。

 でも、ヒロもここがどこだかわかっていない。じゃあ本当に、ここは異世界なのか…?

 俺は、はっとしてあたりを見回した。

「ライラ? ライラ!」

 ライラの姿がない。焦って呼ぶと同時に、ヒロが何かに向かって吠えた。俺はヒロの視線の先を見た。

 何か、黒くて大きなものが俺たちの背後に横たわっていた。黒というより、逆光で陰になっているようだ。焦点が合うにつれ、その異様さに息をのんだ。


 高さは2m弱。それが左右に広がっている。正確には、幅2mのものが横に伏せているのだ。左手の方に目を向けると、視線の3mほど先に、頭部があった。

 口先はとがっている。顎は平たく、上あごの先に黒い穴がある。その穴を筋に沿って上がっていくと、球がった。下半分が隠れているが、光を映している。目だ。わずかに開いた切れ長の目から瞳孔がのぞいていた。


 そいつは、ゆっくりと体を起こした。長い首をもたげ、4つ足で立ち上がる。大きく息を吸って胸が大きく膨らむと、背後で何かが広がった。


 翼。薄くて広く背中に生える膜の呼び方は、それ以外に思いつかない。


 俺は、初めて目の当たりにするその生き物に、目を見張るしかなかった。まともに回らない頭が、そいつの名前を探し当てる。


 蛇のような頭、翼竜のような翼をもち、四本足で立つそれは、俺たちがドラゴンと呼んでいる架空の生き物の姿をしていた。



 冷汗が滝のように流れる。錯覚? 幻? いや、そいつにも、まぎれもない実態があった。

 その皮膚は瑞々しく、人が作ったものとも思えない生々しい質感を持っている。


 俺は声も上げることができずに、じりじりと後ろに下がった。ほんとは一目散に逃げだしたいのだが、膝から力が抜けているので、走り出したらすぐに転びそうだ。なんとか懸命に気配を殺してそいつから離れる。

 なんとか10mの距離まで遠ざかった。そろそろ走って逃げよう。そう思った時、なんと俺の目の前で、ヒロがお座りしているのが目に飛び込んできた。

「おい! なにしてんだよ!」

 俺は喉を震わせずに無声音で叫んだが、ヒロには届いていないようだ。

 必死に危険を知らせようとしたが、ヒロときたら尻尾を振って巨大生物を見上げている。こいつには、これが何なのかわかっていないのか。

「ヒロ! 早くこっち来い!」

 俺の叫びがようやく聞こえたらしく、ヒロがこちらを振り返る。

「どうしたの、兄ちゃん」

 事の重大性をわかってないヒロが普段通りの声で答えて、俺は身をすくめた。そんなんじゃ、気づかれるだろ!


 こわごわ視線を上げると、俺の祈りとは裏腹に、やつが、ドラゴンが、ゆっくりとこちらに顔を向けた。ああ、もうおしまいだ――――



 そして、深い青緑の瞳とまっすぐに目が合った。



 その瞳の色に、なぜか懐かしさを覚えて俺は放心した。懐かしい? 初めて見る生き物に対して?

 その違和感のせいで、俺はちょっと恐怖を忘れた。ドラゴンの瞳を見つめると、なんというか、落ち着きというか、親しみというか、そんな色を帯びているような気がした。少なくとも、こうして数秒見つめ合っていても襲ってきたりしないことから、敵意はないようだ。

 とはいってもどうしたものかて俺が迷っていると、ヒロがドラゴンに駆け寄った。呆気にとられる俺の前で、ヒロはドラゴンにすり寄ったのだ。しかも、ドラゴンの方も首を垂れて、ヒロにほおずりしている。ヒロは一層激しく尻尾を振った。いきなり異種間の友情を見せつけられて俺は混乱するばかりだ。


 すると、ドラゴンが再び俺の方に顔を向けた。


「カイさん、お怪我はありませんか?」


 懐かしいどころの騒ぎではない。ドラゴンは、聞き違いようもない、ライラの声でそう訊ねた。


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