2、3
居心地が悪い。
俺はどちらかというと人見知りがするたちだ。そのうえ相手に言葉が通じないとなると、もうどうすればいいのかわからない。ただ黙って、気まずい沈黙に耐えるしかなかった。
俺をじっとと見つめるアラブ系女子の視線を感じる。うかつに目線を上げると少女と目が合ってしまうので、俺はリノリウムの床を食い入るように見つめた。
母さん、早く戻ってきてくれ。そう念じていると、少女が動く気配がした。反射的に顔を上げてしまう。
少女は口を開きかけて、そっと閉じた。再び、何か言いかけると、やはり声にならずにうつむいた。日本人離れした顔には、悲しそうな表情が浮かんでいる。
急に目の前の少女が心配になった。どういう成り行きかはわからないが、言葉も通じない、気持ちも伝えられない異国の地で1人ぼっちになったのだ。すごく心細いだろう。
俺は少女を気遣おうという気持ちと、間を持たせたいという思いから、サイドテーブルの水差しを取り上げた。そしてきれいな水をグラスに注ぐ。何と言ったらいいのかわからなかったので、無言のままグラスを差し出した。
少女は差し出されたグラスと俺の顔を交互に見た。やがてゆっくりと腕を伸ばしてグラスを受け取る。彼女はグラスを自分の胸元に引き寄せて、水面をのぞき込み、そして、
「ありがとう」
俺は耳を疑った。幻聴かとも思った。しかしその声は聞き覚えのある―――そうだ、初めて彼女を見つけたとき、彼女が助けを求めて絞り出した声と同じだった。俺は言葉を失って少女を凝視した。
すると、俺の視線に気づいた少女が顔を上げる。俺があまりにも間抜けな、それこそ鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていたのだろう。彼女の方も俺の動揺ぶりに戸惑っているようだ。
「あんた―――」
そう言いかけた時、病室のドアが開いた。
「おまたせー」
母さんが歩いてきて、緊張した空気をカチ割った。飛び出しかかった俺の質問は、びっくりして引っ込んだ。
母さんはナイフとタッパーを持ってきた。さっとリンゴの皮をむくと、塩水の入ったタッパーにリンゴを並べていく。それをテーブルに置いて、爪楊枝を指した。
「はい、どうぞ」
そして自分も楊枝を持ってリンゴを食べ始めた。
母さんの様子を見つめていた少女は、おそるおそる楊枝をつまんだ。そしてリンゴを一口かじる。すると、その両目がみるみる大きくなった。
「……!」
よくわからないが、感極まっているようだ。そして、リンゴを次々と口に運ぶ。
「お腹がすいていたのね」
母さんはにっこり笑う。少女はあっという間に1個分のリンゴを平らげた。母さんは再びリンゴとナイフを手に取る。次は皮をむかずに、櫛切りにして切れ込みを入れる。リンゴにはたちまち耳が生えた。
「ほら、うさぎさんよ。ぴょんぴょん」
桐島智子、御年43歳だがまる恥じらう様子もない。思春期の息子としては複雑な気分だ。
しかし少女の方はというと、少しずつ表情をほころばせた。そして母さんにつられるように笑う。ずっと緊張し、ふさいでいた少女の顔が、初めて明るくなった。
それを見た俺も、まあいいか、という気持ちになる。
いろいろ気にかかることや不可解な謎はあるが、じきに警察が解決してくれるだろう。
母さんはしばらく少女と戯れ、俺はそれを眺めていた。
そろそろ帰ろうかという頃、母さんは棚のどこに何が入っているかということを身振り手振りで彼女に教えた。
「それじゃあ、私たちは帰るけど、もし困ったことがあったらここに連絡してね」
母さんはメモを渡した。どこまで通じているのか、むしろ通じてはいないのだろうが、少女は連絡先を受け取って頷いた。
部屋を出る途中に振り返ると、少女の寂しそうな顔が見えた。寂しそうな表情に後ろ髪が引かれる。俺がためらいがちに手を振ると、彼女―――ライラも、それを真似するように小さく手を振りかえした。
「早く身寄りが見つかるといいわね」
駐車場に向かいながら母さんがつぶやいた。体調の方は思ったより快方に向かっているようだが、帰る当てがなければ、退院しても彼女はどこにも行けない。
「でも、名前はわかったし、手掛かりにはなるんじゃない?」
俺は何の気なしにそう言った。振り返った母さんは、不思議そうな顔をしていた。
「名前? あの子、名前なんか言ってたの?」
「え、母さんが訊いた時、ライラって答えてたじゃん」
「ライラ? そんな風には聞こえなかったわよ。なんだか不思議な音だったし、やっぱり外国の名前ね」
それじゃあ、俺が今まで聞いた彼女の声は、一体なんなんだ?
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