第5話 テストの一夜漬けは評価できないものらしい。

「高井くん」

 俺の名を呼ぶ片瀬の声は、淡々としていた。

 俺にとっては、逆に怖かった。

「高井くんは、わたしのこと、別に好きでも何でもなかったってことだよね?」

 片瀬の質問に、俺はすぐに答えることができなかった。どうすれば、最小限で傷つける形で済ませるかどうか、頭を巡らしていたからだ。何も害はないということはまったく思い浮かばなかった。

 俺はゆっくりと顔を上げる。

 片瀬は便箋を持っている手を震えつつ、潤んだ瞳を必死そうに堪えていた。

「片瀬……」

「高井くんは悪くないよ。悪くない。悪いのは、この佐々木さんを誘拐した犯人だよ」

 片瀬は口にするも、実際は俺に文句をぶつけたいに違いない。だから、俺はうなずくことはせず、ただ、「ごめん」と言うだけだった。

「謝らないで。それ以上、謝られると、わたし、耐えられないよ……」

「けどさ、俺には片瀬に、こういうことしかできなくてさ」

「いいよ。それで、わたしの、さっきの質問の答えは?」

 片瀬の問いかけに、俺は目を一瞬逸らしてしまった。

「言わなくても、その、わかるだろ……」

「ダメだよ。わかっていても、はっきりと本人の口から聞かないと。わたし、納得がいかない」

 視線を向けた片瀬の顔は、頬に涙が伝っていた。俺が渡したハンカチを使おうとせず、ただ、返事を待ち続けているようだった。

 俺は内心、自分を殴りたい気持ちを抱えつつ、口を開いた。

「ああ。片瀬の言う通りだ」

「だよね。やっぱり」

 片瀬は指で涙を拭いつつ、笑みをこぼした。

「なら、誘拐犯を捕まえないと。そうしないと、高井くんもわたしも、気持ちがすっきりしないと思うから」

「いや、俺は千恵香が帰ってこないと」

「そうだね。ごめんね」

 片瀬が謝ってきたので、俺は慌てて、歩み寄り、かぶりを振った。

「謝るのは俺の方だろ?」

「ううん。今謝るのはわたしの方だよ。だって、犯人が捕まっても、佐々木さんが戻ってこなければ、意味ないもん」

「それはそうだけどさ……」

「それに、高井くんは」

 片瀬はいつの間にかすっきりとした表情で僕と目を合わせた。

「この子、好きなんだよね?」

 片瀬の言葉に、俺は間を置いた後、ゆっくりとうなずいた。

 そう、俺は千恵香のことが好きだ。

 幼なじみとして、長い期間いる内に好意が芽生えていったのだ。

 千恵香は俺のことをどう想っているのかわからない。

 けど、俺は最近、淡い恋心を持っていることは確かだ。

 他の人、しかも、俺が好きだった女子に知られると、とてつもなく恥ずかしい。

「顔が赤いよ。高井くん」

 片瀬は腹を抱えつつ、遠慮がちに笑っていた。

「そんなにおかしいのか?」

「おかしいよ。女の子相手に」

 片瀬は再び涙をこぼしていた。だが、さっきとはおそらく、違う形でのものだろう。

 彼女はようやく、スカートのポケットにしまっていたハンカチを取り出した。

「このハンカチ、どこかに捨てていってもいいかな?」

「それで、片瀬が満足するなら」

「満足しないよ」

 片瀬は不意打ちを突くように、俺の額にデコピンしてきた。けっこう痛い。

「それで、これからどうするの?」

「どうするも何も、この便箋を俺の下駄箱に入れてきた奴を見つけ出すってところだな」

「わたしも手伝うよ」

「人手が増えるのは嬉しいけどさ、本当にいいのか?」

「いいよいいよ。もう、好きだった人にフラれて、当分、恋はいいかなって思ったら、何だか、気持ち、余裕が出てきたから」

「その、悪いな」

「それ以上、謝られたら、わたし、今度はビンタとか、物理的な攻撃を仕掛けるよ?」

 口にする片瀬は俺の鼻先へ指を差してきた。

 俺は、「わかった」と言い、階段に腰を降ろした。

「疲れたの?」

「まあな。今ので色々とあってさ」

「だらしないね」

「うるさい」

「まあ、そういうたまに気を抜いてるところが、高井くんのいいところだなって思うけど」

 片瀬は言うなり、俺の横に並んで座り込む。

「それ、俺のいいところか?」

「いいところだよ。何でも全力過ぎて、肝心なところで力を発揮できなくなるよりも、時々力を抜きつつ、いざというところで本気を出すところとか」

「まあ、テストとか一夜漬けだしな」

「そこはどうかなって思う」

「そこはダメなのかよ」

「ダメだよ」

 片瀬は口を尖らすと、手にしている便箋の方へ視線を移す。

「高井くんの下駄箱にあったんだよね、これ」

「ああ」

「だとしたら、佐々木さんを誘拐した犯人って、学校の中にいるってことだよね?」

「かもな」

「もしかしたら、わたしたちのクラスメイトの中にいるかもしれないよね」

「それは考えたくないな」

「でも、この手紙を見る限り、わたしが高井くんのことを好きだってわかってるみたい」

 片瀬は言ってから、「あっ」と何かに気づいたような声を漏らした。

「片瀬?」

「もしかしたら、もしかするかもしれない」

「心当たりがあるのか?」

「心当たりがあるというより、わたしが高井くんのことを好きって知ってる人はひとりしかいないかもしれない」

「マジか」

「でも、わたしは信じたくない」

 片瀬は顔を曇らした。

 俺はすぐにでも誰なのかを知りたくなったが、片瀬の様子を見て、聞くのをためらった。

「誘拐は犯罪だよね」

「そう、だな」

「そういう犯罪は止めなきゃいけないんだよね」

「ああ」

「高井くん」

 気がつけば、片瀬が俺の方へ正面を向けていた。

「わたし、探りを入れてみるから」

「大丈夫か?」

「大丈夫」

 片瀬は言うと、立ち上がるなり、制服のスカートを手で払った。

「この便箋、借りていい?」

「いいけどさ、何に使うんだ?」

「いざという時のために使う」

「いや、それなら、俺が持ってた方がさ」

「大丈夫だから。わたしもそこまで危ない橋を渡るようなことはしないから」

 片瀬は手を伸ばそうとした俺を振り切るようにして、階段を駆け下りていってしまった。

 ひとり取り残されてしまった俺は、追いかけることもせず、ただ、座るだけだった。

「にしても、誰なんだ? 片瀬が心当たりのある奴って」

 俺は頭を巡らしてみるも、浮かんでくる人物は出てこなかった。

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