裏切り

「もう終わりだ。終わりなんだ。俺はもう 」

 そう言うと、石田アキラは、5年間使ってきたグラブを教室の隅のゴミ箱に投げ捨てた。

「何するんだ、石田!」

井上は叫んだ。

 思わず石田の胸ぐらを掴んでしまう。が、その手は、信じられないほどの力でふりほどかれた。石田はうつむいて、視線を合わせずに言った。

「お前には言ってあるだろ。俺の肘は重症なんだ。治るのには1年以上かかる。もう……俺が野球部にいる意味なんて無い」

井上には、石田の言うことが信じられなかった。

「バカヤロー、たかが1年じゃねえか。3年の夏には間に合うだろ。お前がピッチャーで俺がキャッチャー、一緒に甲子園いこうって約束、どうするんだよ!」

幼いころした馬鹿みたいな約束。

 だが、二人ともそれを支えにこれまでずっと野球をやってきたのだ。確かに肘の怪我はピッチャーにとって致命的なもの。しかし、そんな理由で、誰よりも野球が好きな石田が甲子園という夢を諦めるなんて、井上には納得できなかった。

 井上のなじるような視線に、石田はかぶりを振った。

「お前を裏切ることになって、本当にすまない」

 裏切り。まさに裏切りだ。たとえどんなことがあっても、二人の夢は変わらないと信じていた。

 石田は床を見たまま続けた。

「だけど、怪我が治っても前のように投げられる保証はないんだ。ここで辞めるのが一番いいと思った」

「それでいいのか、石田?」

 井上の拳は悔しさに打ち震えた。

 5年間ずっとバッテリーを組み、泥だらけになって白球を追いかけていた二人に、こんな最後が訪れるなんて。何が親友をこうしてしまったのだろう。何故、二人が別々の道を歩まなくてはならなくなったのか。

 そのとき。

 がらり、と教室のドアが開いた。

 入ってきたのは、長い髪を二つにまとめた小柄な少女だった。たしか二人と同い年で、石田と同じクラスの女子だ。話したことはないが、ラグビー部のマネージャーをやっている姿を見かけたことがある。名前は……山本、だったか。

 澄んだ声で、少女は言った。

「ここにいたんだ、アキラく……石田くん。いま平気?」

「ああ、いいよ」

 明らかに、うわずる石田の声。

「あのね、今日、部活のあとでラグビー部のみんなとカラオケに行くんだ。だから石田君にも来て欲しいな、って。あと2週間ぐらいで、肘、治るんでしょ」

「あっ、ああ、わわわかった」

 目が泳ぎ、唇が震えている。

「みんな喜んでるのよ、これで人数がそろって大会に出られるって。じゃあ、私は部活があるからこれで」

彼女はふわりとスカートをひるがえすと、教室の外に出た。それから、ちょっとだけ振り返って――はにかみながら微笑んだ。

「この前の日曜日。遊園地、楽しかったよ」

 小走りに去って行く彼女。

 たったったった……。

 足音が遠ざかっていく。

 それが完全に聞こえなくなってから、井上は、こちらに背を向けてあらぬ方向を見ながらダラダラ汗を流している石田に言った。

「おい、アキラくん」

 びくっ!と石田の肩が震えた。

「この前の日曜日は、検査で病院じゃなかったっけ?」

「いや、病院が混んでて……」

「2週間で肘は治るって?」

「どどどーなんだろな、医者はそう言ってたんだけど、たただ正しいとは、か、限らないしなー」

「ラグビー部に入るって!?」

 ついに、井上は石田の肩を掴んでムリヤリこちらを向かせた。石田は神妙な面持ちで、ぎゅっと拳を握り、うつむき加減で、こう言った。

「裏切ることになって、本当にすまない」

「やかましいわ!!」

 井上は目の前の色ボケ男を殴り倒した。

「おーまーえーはー!」

 床に転がった石田だったが、起き上がって反撃してくる。

「なんだよ! 俺に言わせれば、お前の方が裏切り者だぞ!」

「なんでだ?」

「小学校の時も、中学校の時も、かわいい彼女つくりやがって! 高校でもそうだ、野球部のマネージャーの吉田先輩あっという間にモノにして!」

「知るかぁっ!!」

「俺なんかずっと彼女いなかったんだぞ! やっと出来た彼女と一緒にいたいと思って何が悪いッ!」

 絶叫。二人はぼかすかと殴り合った。

 そして。

 石田は2週間後にラグビー部に入り、1月後に彼女に振られ、2月後に野球部に帰ってきた。甲子園は、予選の1回戦で負けた。

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