78 猫と魔王と吸血鬼



 ― スイト inアスター ―



 結界前まで来た。


 いやぁ、長かった。本当、ここまで来るのが異様に長かった!


 何があったかと言えば、こだまさんに睨まれ続けて精神をすり減らす事態に陥ったためだ。


 野生の勘って凄い。俺がスイトじゃないって、すぐに気付いたらしい。見た感じ穏やかで、懐いてはくれたけれども、俺への視線がやや冷たい。


 勘違いだったら良かった。これが自意識過剰だったらまだ良かった。

 けど、ハルカの鶴の一声が無ければ、居心地最悪なままここに来ていたと思う。


 でも、ね? ハルカ。


「これ、乗せてあげて?」

「くぇ」


 っていう説得の仕方は、どうかと思う。

 そして彼女が満面の笑みで言い放った説明で、素直に頷くのもやめてほしい。

 さすがに、傷付く。


 俺は決して、完璧超人なんかじゃない。それをどこかで示さなきゃいけないと思う。それも、かなり切実に、早急に。


「あー、大丈夫大丈夫。完璧超人じゃ無い事は理解しているから」

「それで?!」


 明らかに人の事を考えた発言じゃないよね?!


「そんな事より、スイト君。この結界をどうするつもり?」


 サラッと流さないで欲しいな!

 まぁ、そんなふざけている場合ではない事は、俺も十分承知している。だから、水に流そう。うん。決して後で見返してやろうとか、考えていないけれど。


「……どうでも良いけど、さっきから心の声が漏れているからね?」

「この結界は、強度と構成がしっかりしている。だからめったな事じゃ壊れないし、それなりに魔法の知識が無いと術式への介入も出来ないわけか」

「おーい」


 ハルカが何やら言っているけど、気にしない。だって時間が無いからね。時間が無いから急いで来たのであって、決してお話するために急いだわけじゃないもんね?


 というわけで、調査続行である。


 パッと見、ガラスのドームのようなものだ。

 近くで見ると無色透明で、触れなければ結界があるとは思えない。遠くから見ると薄く発光して見えるはずなのに。ふっしぎー。


 ……コホン。この結界の向こう側に行く方法だけど、まずどんな魔法なのかを調べる必要がある。


 とはいえいちいちスキル:鑑定で調べるのも面倒くさい。あれは結界の簡単な説明をしてくれるだけだからね。それよりは、こっちの方がより多く、より詳細を調べる事が出来る。

 俺は、米神に指を当て、魔力を流し込んだ。


「……【全智】……」


 ボソリ、と、誰にも聞こえない程度に声を発する。

 途端、漆黒の瞳がぼんやりと蒼く輝き、他の誰にも見えないものが映り始めた。


 今この瞳には、あらゆる「情報」が、光る文字として表れる。

 パソコンのモニターを見るように、俺はそれを睨み付けた。


 横に並んだ文字が、ハイスピードで下から上へと流れていく。上から順にゆっくり追っていては、すぐに視界から見たかった情報まで零れ落ちる。

 だから、集中する。


「……空間、遮断、拒絶、……あぁ、驚いた。この結界を張った奴は、結界に【強欲】の力を流用しているのか。暴走一歩手前の【強欲】から力を奪うなんて、とんでもない芸当をするものだ」

「え、どういうこと?」

「言ったままだ」


 粗方調べた辺りで【全智】を切る。すると、横にいたハルカが首をかしげているのが見えた。

 【強欲】の力を流用する。なんて、普通の人間には思いつかないからね。意味が分からなくても仕方無いだろう。


「今【全智】って言ったけど、……使えるの?」


 小声で聞かれたのは、俺が考えていた事とは違う問いだった。

 そうだよね。まずそこだよね。ハルカ達の場合、まずそこに疑問を抱いてもおかしくなかった。

 とは言っても、俺も使えるとしか返せないけど。


「ほんの僅かな間ならな。本体ならともかく、欠片の俺には使いこなせない。劣化版のスキル:不完全知はスイトの固有スキルだから使えないし」


 だからと言って、超劣化版のスキル:鑑定を使うよりかは、随分と良い情報が得られる。

 というわけで、俺は今【全智】を使った。


 ……どこに持っていたかって?


 【グレイミー】とは、要するに人の心を構成する感情や欲が具現化したものだ。誰しもが持つ欲求、執着なんかを一瞬でも、異常なまでに増幅させれば、擬似的なそれを作り出せるのである。

 オリジナルとはまた違う効果になることもしばしば。


 少なくとも、知識欲や探求心を組み合わせた、擬似【全智】は欲しい知識を毎回くれる。

 あくまで擬似的なものだから、侵食される事も無いわけだ。


 それでも、あまり使いすぎては副作用が出そうなので、あまりやらないけど。

 限界まで使った事は無い。普通に怖い。


「えっと、それで? 結局のところ、通れるの? 通れないの? どっち」

「通れるに決まっているだろ。そのために結界のことを調べたわけだし」


 どこに、どのように、どうすれば、結界を破壊せずに済むのか。それを調べるために結界を調べたのであって、壊せるか否かを調べたわけじゃない。

 ぶっちゃけ、壊せない結界なんて存在しないのだ。


「1つの魔法を、魔法陣に書き換えることが出来る、というのは知っているだろ?」

「うん。その逆もまた然り、だよね」

「そうだ。その魔法陣に干渉して、結界の性質そのものを書き換えてやる。それで結界の一部を通れるようにすれば良い」

「うん?」

「分かりやすく言うと」


 俺は結界に手を伸ばす。パチリパチリと静電気の音が聞こえてくるけど、残念。俺はあらゆる属性に耐性を持っているのだ。全属性無効となると、ちょっとこの世界の規格に合わなかったし、スイトに化ける分には必要なかったけど。

 普通なら弾かれて終わる。けれど、今は一瞬でも触れられればそれで良い。


 うん。触り心地はまんまガラスだね。つるつるして、ひんやりしている。

 触れると同時に、俺は自分の魔力を流し込み―― 術式に介入した。


 どんなに扱うのが難しく、複雑な魔法でも、結局は魔力と魔法式、人の意思が混ざった現象だ。人の意思やその魔力へ干渉すれば、魔法そのものが壊れかねない。加えて魔法式への介入は、更に難易度が高まる。円周率は3,14の後に続く数字を、勝手に書き換えられるのか? そういう事だ。


 だが、本当なら出来ない所を、ムリヤリ出来るようにする。


 介入し、書き換え、時間にして一瞬の接触が終わる。


「こういうことだ」


 台詞を言い終わると、結界の色が変わった。人1人が通れる大きさの長方形の壁。そこだけが、無色透明から透明な赤へと変色し、更には僅かに発光し始める。

 壁と結界の境界は曖昧で、ギリギリ長方形に見える程度である。グラデーションになっているそれに、俺は満足げな笑みを浮かべた。


「え、何したの」

「結界の性質を変えた」

「だから、どうしたの」


 訝しげなハルカの視線が、意外と痛い。


「えっと、一部穴を開けてしまったら、そこから吸血族が出るかもしれない」

「そうだね」

「じゃあどうやって通るかと言ったら、結界の内と外、どちらにも通行不可の所を、外から内への一方通行にすればいい」

「そう……あ、でも、それだと誰かが間違って入っちゃうかも」

「だから、これだ」


 俺は、壁を指差した。

 他を変えず、この一部だけ変化「出来るように」した。結界全体の性質を変えても、消費する魔力は膨大だし非効率だからね。


 一時的にこの一部を消す、というのも、ちょっと無理があった。何せ魔法陣に「拒絶」の文字があったから。元がイメージ法で出来た魔法のようで、これがあるとかなり面倒くさいのだ。

 一部でも破壊可能にしてしまうと、すぐさま拒絶反応が出る。術者や魔法自体に、深刻なダメージを与える恐れが出てしまうのだ。


 結界を壊す事態になってしまえば、終わりである。


「とはいえ俺が介入できるのはここまで。むしろ、今も介入中で、手を出せない」

「えっ」


 ハルカが素っ頓狂な声を出して、目を丸くする。

 けど、やってもらわないと困るのだ。

 結界術式の、書き換えを。




 ― ハルカ ―



 常闇の結界、その中央に展開された、半球ドーム状の結界。

 スイト君、もといアスターによれば、それは実質破壊不可能らしい。


 私達の、技量では。


 それをどうにかする手助けをして、その結果、術式を書き換えることの出来る部位を生み出す。これだけでも凄い事なのだと、結界に精通している私は、分かる。

 結界魔法は、込められた魔力の量や、術者の精神状態によって、その様相がガラリと変わるのだ。


 呪文を使った、大して心のこもっていない結界は、正直言って脆い。

 生命力や精神力と言い換えられる魔力だけど、その魔力自体は心というものが作り出している。と、いう学説の通り、精神状態が、そのまま魔法の威力に直結するからだ。


 現代の魔法が弱い理由もここにある。

 呪文に頼りきること。そして、身分による優劣の思考が、ダイレクトに魔法へ表れるようになってしまった。魔法に必要な思いの強さが、身分や血筋によって変わるのもそのためだ。


 魔法学校で、私の魔法を見せ付けてやった生徒達。あれから何回か、彼等の自尊心を大いに砕いておいたのだけれど、面白いように魔法の出も悪くなっていった。


 くだらない自尊心。ただそれだけが、魔法に表れていたのだ。それがなくなれば、そりゃ、魔法の威力も効能も大幅に下がる。

 無意識ながら、学説を証明する形となったわけだ。


「あぁ、あの超絶グロッキーな生徒達の記憶はそのせいか……」


 アスター。じゃない、スイト君は、心底呆れたような面持ちで私を一瞥した。


 そういえば、スイト君って一応全部のクラスを回っていたからね。Aクラスも見たわけだ。


 あ、話が逸れちゃったね。

 私が言いたいのは、要するに、今目の前にあるこの結界は、ちょっとやそっとの魔法で解けるわけではない。そして結界を破壊するよりも、結界の魔法そのものを書き換えるというのは、より難しいのだ。


 リンゴをただくし切りにするよりも、白鳥の飾り切りにする方が何倍も難しい。

 破壊する事が出来ないなら、書き換える事はもっと出来無いという事。

 まぁ、その書き換えに近い事を、彼はやってのけてしまったけれど。


「ハルカ、説明するよ」

「やる事は決定事項なの?!」

「じゃないと通れないじゃないか」


 そうだけども!

 私はせいいっぱい睨み付けるけど、彼は全く気にする素振りすら無く話を進めていった。


「この結界は、術者から切り離されて動いている。つまり、大きな変化さえ起こさなければ、術者側からの妨害を受けずに済むという事だ。ここまではオーケー?」

「……オーケーじゃなくても進めるくせに」

「まぁ、そうだけど」


 スイト君は頬をかいた。


「まず、変化出来る結界の位置を固定する。今のままだと、範囲指定をどれだけ狭めても、変化した部分とそうでは無い部分が混じって、拒絶反応を起こす危険性があるからな。

 次に、結界の書き換え。とは言っても、これは君の結界を使って上書きをするだけだ。俺が変化出来るようにした部分の、結界としての強度はかなり低くしてある。この結界にピッタリはまるよう、形と威力、そして意識を同調させて、一部だけ結界を入れ替える。

 これを、俗に言う魔法の上書き、という。攻撃魔法にも応用できるから、俺が見守っている今の内に練習するといいよ」


 ニコニコと笑って、無茶振りをしてくるアスター。


 最初はいい。この赤と透明の境界線を、今の状態のまま「固定」するだけだから。一時的に、溶けない氷を作る時にも使う魔法である。

 私はまんま、フリーズと呼んでいる魔法だ。


 だけど、その後の書き換え方法。

 形はともかく、威力と、意識の同調。


 えっとぉ。


「どうやるの、それ?」

「ん? 簡単だ。ありったけの魔力を込めて、相手の気持ちになる。これだけ」


 それ、地味に難しいやつだよね。

 顔も名前も知らない人の心を読めって言われているような物だよね?!


 私が唖然としていると、スイト君は目を細め、笑みを深める。


「簡単だって。……ハルカの能力を使えば」

「……え?」


 能力、って。


 アビリティの事かな? でも、あれは、ただ勘が当たるだけだよ?

 などと考えていて、思い出した。


 そうだ、私の勘は当たるのだ。と。


 ここ最近、勘を無意識に使う事が多かった上、スキルやアビリティの使用禁止エリアとかもあって失念していた。

 私の勘は、何の制限も無い今、必ず当たるのだ。


「――……っ」


 あ。

 私、出来る。




 ― スイト inアスター ―



 俺の言葉に戸惑っていたハルカが、急に冷静な顔つきになった。

 慌てていたそぶりはどこへやら。

 目を細め、意識を集中させ、補助魔法:魔法固定を発動させる。


「―― 【フリーズ】」


 途端、ハルカの全身から、柔らかなオレンジ色の光の粒子が舞い上がる。

 魔力効率が良い魔法、とは、お世辞にも言えない証拠。いや、むしろ、無駄に魔力を使用していると言える光の奔流は、美しかった。

 制御力が圧倒的に足りていないようだが、潜在的に所有している魔力量がそれだけ多いのである。


 光る魔力の粒子は、赤と無色の間でブレる境界線を、カチリと留める。


「―― 【シンクリンク】」


 続いて、赤い結界に意識を集中させ、自らの勘を頼りに同調していく。魔法的な補助を使っているから、同調できない、なんて事にはならないはずだ。

 心配するべきは、どれだけ周囲と同じ強度へ持っていけるか、か。


「結局、ハルカは何をしているんだぞー?」

「結界の一部を、自分の結界に置き換える作業だね」

「お、ナユタ戻ってきたのかー? 速かったなー」


 マキナの弾んだ声に振り向くと、確かにナユタがそこにいた。

 無事に起きたらしい。かなりスッキリした様相で、装いも新たに駆けつけた。


 どこで用意したのか、泉校中等部生の夏服である。


 ……まぁ、ナユタは一応、中等部2年くらいの姿だから、それはいい。ただ、制服に刀って微妙に非現実的で良いと思う。

 こっちの世界は大半が西洋アンタジー系の装いが多い。東洋、もっと言えば日本人風の刀使いは珍しいのである。


 合わせて髪も黒く染めているし、むしろ何でマキナは気付いたのだろうか?


「ところで、何で黒いんだぞー?」

「神様としての力をやや抑えたら、自然と黒くなった」

「おぉー。不思議な事もあるもんだなー」

「ハルカさんにそれは出来るのかな? 見た感じ、物凄く強度のある結界だよね」

『術者の意思が存在しない、設置型の結界だから出来るんでない? 結界大大大得意なハルカのことだし、大丈夫だって!』


 おぉっとぉ、プレッシャーのかかる台詞が来た!

 集中していても聞こえてしまったのか、ハルカの口元が歪む。ついでに頬が赤くなる。


「イニア、しっ。集中が乱れるとまずい」

『ふふん、そんな事は知っているのだよ。でもね、応援って大事だと思うの。ね?』

「ね? じゃない! 猿も木から落ちるってことわざがあるだろ? 万が一にもそうなったら、どうしてくれる!」


 激昂し、思わず声が大きくなっているナユタ。

 ハルカの眉が、ピクリと動いた。


『んん? 私がやるよ~。出来ないけど』

「じゃあ最初からふざけるなって……!」



「―― ケンカはそこまでにしよう、ねっ?」



「『あっハイ』」


 反射的に、2人が謝る。


 あれ? 今まで、ハルカは俺の真横にいたはずなのに。

 いつの間に、後ろへ?


 って、あ! 結界の書き換えが終わっているし! それも、俺が予想していたのより、ずっと強固で馴染んでいるみたいなんだけど?!


「イニアちゃん、とりあえず、人型に戻ろうか」

「ふぁい……」


 にっこりと微笑んだハルカが、ナユタとイニアを正座にさせていた。それも、とても硬そうな岩の上に。かなりちゃんとした正座である。


「あれ、失敗しちゃいけないって、分かっていたよね? 2人のことだから、スイト君がいれば問題ないやって思ったかもしれないけれど。それはちょっと、違うと思うの。ねっ?」

「「仰るとおりです」」


 と、こんな感じで説教が何分か続いた。

 もう魔法を解除しても大丈夫そうだったので、まったりと3人を観つつルディの配ったお菓子を頬張る。うん、美味しい。


「神様を叱れる人間は、後にも先にもハルカっちしかいない気がするぞー」

「同感だよ、マキナ」

「わ、わたくしも、です」

「スイト様にも出来そうな気がしますよ?」

「……右に同じ」

「兄としては、しっかり者に育ってくれてありがたいけどね」

「あの2人、特別。意外と誰でも、叱れる、よ?」


 ミュリエルさん? 何で俺を睨みながらそんな事を言うのかな?

 たしかに、スイトが俺を叱っている光景は、ありありと想像できるけども。


 くっ、スイトの立場じゃ迂闊に突っ込めないじゃないか!


「さて、そろそろのはずだがな」


 サッと気を取り直して、俺は立ち上がり、ルディへと目配せする。

 ルディはそれだけで、俺が兄を言いたいのか気付いてくれた。ある物を取り出し、俺の前へと置く。


 置いた時の音は案外大きく、夜色の景色に響いた。


「……スイト君、それ何?」


 説教を続けていたハルカも気付くような音だったため、3人は一旦切り上げて、近寄ってきた。

 ルディが取り出したのは、木製の棺桶。十字架の装飾や縁取りは鉄製で、十字架以外飾り気の1つも無い棺桶である。


 死んだ人を入れているわけじゃないぞ?


 入っているのは―― 例の吸血族である。


「あっ、顔色がいいね! もしかして、もうそろそろ目覚めそう、って事?」


 俺はハルカに頷き返す。そう、俺の血をたらふく飲んで拒絶反応を起こした子だ。


 サラサラした黒髪は、肩にかからない程度に切りそろえられている。その髪からぴょこんと出ている耳は猫のもので、こちらも綺麗な黒。

 いわゆる、猫の亜人だった。


 ただし。俺の血を飲んだのだから、吸血族に違いは無いのだろう。彼女は何らかの理由からか、後天性の吸血族になったわけだ。

 年齢は大体、14歳くらいだろうか。ただ、猫の亜人だろうが吸血族だろうが、長寿名種族なのでもっと年上かもしれない。


 それでも、俺より年上という事は無いだろうけど。


 俺達はみんなして、棺桶の中で静かに寝息を立てる彼女を覗き込んでいた。

 その中で、フィオルだけは、俺達と違う様子だった。


「……クロトーラ?」


 フィオルが、小さく呟く。

 その表情は驚愕が強く滲み、目を見開いて、少女の耳から足先までを舐めるように眺めた。

 そして、真っ白な手で、少女の頬を優しく撫でる。


 ……途端、少女の瞼が、静かに開き始めた。


「……?」


 寝ぼけ眼の彼女は、ゆっくりと起き上がる。

 周囲が見えていないらしく、大きく口を開けて欠伸をし、軽く身体を伸ばした。


「……ここ、どこですの……?」


 非常に気だるげな様子で、開ききっていない目をこする少女。

 吸血族特有の紅い瞳が、ゆっくりと俺達を覗いた。


 起きぬけの一言に答えたのは、フィオルだった。


「常闇の結界内、です」

「あら、そう……えっ。常闇? あれって確か、ずっと西にあったような……」


 西どころか、現在地である。

 記憶が飛んでいるのだろうか? 【グレイミー】による影響で記憶が飛ぶのは、普通の現象である。どれほどの記憶が無くなっているのかによっては、あれの影響ではないとも言えるけど。


「って、あら? 貴方達、誰かしら。私、あなた達の事をほんの欠片ほども知らないのですけれど?」


 未だ開ききっていない目を何とか半目にして、少女が問いかけてきた。起きてから意識がハッキリするまで、そう時間が要らない子のようだ。羨ましい。

 ただ、意識とは反対に、身体はゆらゆらと揺れているのだが。


「彼等はわたくしの友人ですよ。クロトーラ」

「私の名前を知っているなんて、誰で……フィオル?」

「やはり、クロトーラ、なのですね」


 フィオルの声が、震えていた。

 その空色の瞳は潤み、頬は赤く染まり、口元が緩んで弧を描く。


「生きて、いたのですね。クロトーラ……っ!」


 フィオルはとても嬉しそうな顔で、クロトーラと呼ばれた少女に抱きついた。

 クロトーラの服は黒を基調としたものであり、フィオルの纏う白の服とは対照的である。瞳の色も澄んだ空色と血のような紅。ボディラインも、こう言っては何だが、対照的だった。


 また、フィオルは勝手に感動の再会を喜んでいる。の、だが。

 クロトーラはというと、目を白黒させて、戸惑っていた。


「え、え? えっと?」


 イマイチ状況が飲み込めない様子のクロトーラは、胸元で泣き始めてしまったフィオルに聞くわけにもいかず、俺達へ目配せした。

 とりあえず、スイトの記憶に、思い当たる節は無いよ! 多分。


「……あ」


 しかしほんの数秒考えて、思い当たる節があったのか、クロトーラは目を細めた。


「そう、ですわね。随分と待たせてしまったようですの。……ごめんなさい、フィオル」

「う、うぅう」


 クロトーラはそっとフィオルの頭を撫でてやる。

 すると、いつものどこか上品な態度をかなぐり捨てて、フィオルは大声で泣き始めてしまった。


 クロトーラはそんなフィオルに優しい眼差しをかけながら、瞳から一筋の涙を流した。




 彼女の名前は― クロトーラ=シシリエル ―。


 約300年前、フィオルにとって数少ない友人となった者の、1人だった少女であった。


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