35 セルクとヴィッツ


 息ができない。


 だが、肺は空気を取り込めている。


 身体中に纏わり付く水のような感触は温かい。


 どうにかしようともがいても、手は空を切るだけ。


 どうすれば――


「スイト!」

「……た、つき……?」


 タツキの声が聞こえた。

 伸ばしていた手が強く握り締められて、水が纏わりつく感覚が薄れる。


 俺は思いっきり深呼吸をした。


「――……はぁっ、はぁ、はぁ……」

「大丈夫か、スイト」

「……あ、ああ」


 タツキは『嫉妬』に首を絞められて、気絶していたはずだ。一応、ハルカさん辺りが回収して回復魔法を使った事は想像出来る。

 ただ、タツキの首にまだ痛々しい痕が残っている。ハルカさんだったら傷の類を完全に癒すだろうから、自分で治したのだろうか?


「タツキ、お前が目を覚ましてどのくらい経った?」

「30分くらい。俺の場合、スイトと違ってあの魔力の奔流が起きた時の衝撃で目を覚ました」


 という事は、その魔力の奔流とやらが起こった時に、俺は気絶したってワケか。

 俺は、セルクにとりついていた『嫉妬の欠片』を消去した。そこまでは覚えている。そしてそれが上手くいったその瞬間、目の前が急に真っ白になった。更に、呼吸がままならなくなったのだ。


 何が起こったのか。何が、どうして、どうなったのか。


「俺もよく知らない。けど、簡潔に言えば、要救助者がお前で最後だったって事だ」

「俺が、最後?」

「おう。魔力は質量体だからな……。結界の中にいたハルカさんや他の連中は、転移魔法で既に上に出た。けど、どうしてもお前だけが見つからなくてさ。地下9階でようやく見つけた」

「地下、9階?」


 最上階から最下階まで流されていたというのか。それだけ濃密で大量の魔力が、セルクから放出されたらしい。一体どこからそんな魔力が……。

 ああ、いや、先程まで『嫉妬』によって支配されていた身体だ。前回における、聖剣に支配されたタツキ然り。身体に『嫉妬』の力が残っていたのかもしれない。


 タツキとは違い、それをコントロールできなくて、暴発した。そういう事だろうか?

 だとしたら、いずれ力が枯渇して、事態も丸く収まる、はず。そうであって欲しい。


「いぃーーやぁあーー! おにいちゃんといっしょにいるぅうーーー!!!」

「だぁかぁらぁ! スイト兄ちゃんは今忙しいんだってぇのー!」


 遠くで耳鳴りを起こすほどの大声で叫ぶエフ。セルクにとりついていた『嫉妬』が余程怖かったらしく、全力で俺にしがみつこうとしている。

 それを引き止めているのはナツヤだ。


 ……ん? ナツヤ?


「お兄ちゃん! 大丈夫?!」


 ツルが小走りで俺に駆け寄って、抱きついた。

 いつもより抱きつくスピードも威力も抑え目。どうやら、俺がいない30分で駆けつけて、俺だけが見つからない事をひどく心配していたらしい。


 案の定、俺もまだ魔力酔いで若干ふらついていたから、威力を抑えたわけだ。

 優しいなぁ、ツルは。俺は大丈夫だと伝えるついでにいっぱい頭を撫でてやると、ツルは困りつつも笑顔を見せてくれた。


「それにしても、大きいな。あれ」


 そう呟いたのはひぃ先輩である。

 俺は、やけに真剣な表情をするひぃ先輩の視線を辿る。


 俺達がいるのは、セルクの魔力から逃げるために移動した学園の屋上だ。屋上は全校舎から上がれるようになっており、どこかの都市を再現したテーブル状の建築物となっている。


 この学園でいう屋上とは、校舎の屋上ではなく、校舎の隣に位置する大きな建築物を指す。多分、言語理解が翻訳するとそういう意味合いの建物なのだろう。

 そこからは、先程まで俺達がいた地下施設の位置から魔力が噴出す光景が見えた。


 輝く金色の魔力が、スライムの形状に膨らんでいる。地面から透明な風船が膨らんでいるようなもので、ゆっくりと膨張を続けていた。


「大きすぎる魔力ですが、あれほどに大量でも時間を掛けて空気に解けます。だから、この学園がどうにかなる事は無い、はず」

「ルディの言っている事は本当だぜ。エルフの子から聞いた事がある」

「暴発の可能性は?」

「そもそもこれが暴発の状態だろ」


 ルディの言っている事が本当に本当だとして、それまで待っているべきなのだろうか。

 俺の感じている悪寒が、当たっていない事を祈ろう。


「嫌な予感がするよね」


 ハルカさんがポソッと呟いた。


「という事は、また、嫌な事が起こるのか」

「え? ……あっ」


 ハルカさんの直感は、正確率が脅威の100%! その彼女が『嫌な予感がする』と言えば嫌な事が起こるのは必然である。

 そしてやはり、こちらに向かって走ってくる人影が。


「ハルカさん! スイト君! 大変だ!」


 屋上は広く、全校生徒が寝転んでもスペースが余る。今校舎内にいるのは危険ということで、冒険者共々屋上へ全校生徒+教師が来ていた。

 俺達に駆け寄ってきたのは、高等部生徒会長のヨルシュさん。ハルカさんの友達ミールさん。更に何故か満面の笑みを浮かべているメルシーである。


「大変なのよぅ! フロートタイムの事で……」


 息があがっているミールさんが、必至に説明してくる。


 フロートタイムはたしか、この学園が建っている土地を浮かばせている鉱石の事だよな。一定量が集まると浮力が生まれて、それ以下だとただ軽いだけの鉱石になるってやつ。

 それがどうかしたのか?


「ふ、フロートタイムは、太陽属性の魔力を吸収すると、途端にその性質が無くなるらしいのよぅ。今はまだ吸収するような段階じゃないからいいけどぉ」


 曰く、3時間から6時間、太陽属性の魔力にさらされると、鉱石が魔力を吸収してしまうのだそうだ。そうなると、フロートタイムは浮力が無くなり、ただの宝石になってしまうのだとか。


 実の所、フロートタイムが浮力を持つ一定量がどの程度の量なのかは解明されていない。実験するだけの設備も資金も持っている者がおらず、それを解明したところで何の役にも立たないためである。今正にその情報が必要になっている気がするのだが。


「セルク君の魔力って、月も混じっているけど太陽属性でしょ? だから、このまま2時間くらい放置すると、途端にこの浮島が落ちるって事よ! あっははは!」


 何でそこで笑えるのかな、メルシー?!


「ルディ、その、魔力が空気に解けるには、どのくらいの時間が要る?」

「……5日間、くらいかと」


 長い!


「じゃあ、仮にセルクの魔力がこの島を覆い尽くしたら、この学園は……」

「地面に真っ逆さま。運が良ければ建物は残るかもしれないが、衝撃でタダでは済まないだろう。それに、学園の下には、王都に入ろうとしている商人やそれを客にしている商売人がごった返している。想像するだけでも、被害が尋常ではない」


 下の町、というと……ミグリトさんもか!

 ヨルシュさんの台詞からその事に思い至ったのか、ツルが不安そうな顔を俺に向けてきた。


 俺は……ツルの頭を優しく撫でてやる。


 その時。途端に地面が揺れだした。


「っ、何だ?」

「多分、だけど、魔力が濃すぎるのかも。既にフロートタイムが魔力を吸収し始めていたとしたら……」

「この揺れが、この島の落ちる前兆だと?」


 もう一度言おう。ハルカさんの直感は、正確率が100%だ。

 既に、機能を失ったフロートタイムが現れ始めているという事なのだろう。


 仮に落ちたとして、魔法で浮かばせて被害の軽減を図るとしよう。俺の魔力を使っても、地上に降りるまでの浮力をまかなえるかどうか分からないぞ……。

 しかも、セルクの魔力が魔法に影響を与えそうで怖い。


 普通気体から固体へ一気に凝華するのが魔力というものだ。魔力に温度変化による凝固はないので、圧縮による凝固しかありえない。


 それが、液体として空気中に拡散している。加えて固体に変化しようとするほど濃密だ。魔法を使う瞬間に反応し、結晶化するならまだ良いが、正直、そうなるという確信が持てない。


「大陸全体に浮遊魔法をかけるのは、やめた方がいいよね」

「ハルカさん、その根拠は?」

「魔法があれに反応して、発動を阻害されるから」


 ハルカさんのお墨付きをもらいました! 浮遊魔法案は却下だな。

 ああもう、まったく。


「俺達、入学したばかりなんだけどなぁ」

「まだ一週間しか経っていないよね。一週間目にして濃すぎる一日だよ」


 ハルカさんは、真剣な面持ちで魔力ドームを睨みつける。一応転移魔法陣が屋上にもセットされているとの事で、避難は開始されている。

 万が一の事があっても、生徒達の安全は確保できるだろう。


 もっとも、彼等の住む場所は問題になるだろうが。王都に住んでいる者よりも、遠方から来た寮住まいの生徒の方が圧倒的に多いし。


 せめて、あの魔力を『消去』できればいいのだが、あの力はあくまで俺と触れている物を消し去るだけ。魔力は液体でも空気のように掴みどころが無く、力を発動させてもあの量を消すにはかなりの時間を要するだろう。しかも、根本的な解決にはなりえない。


 ならばどうするか?

 ……どうしよう?


「うーん、セルク君の魔力なら、拡散しても良いのに……」

「拡散……そうか、拡散だ!」


 俺は歯車を取り出した。

 この歯車を使う事はできない。歯車が使えるのは、あの聖剣と対峙した時だ。


 歯車が持つ力は、エフ経由で手に入れた『消去』の力。元から存在する休憩所への鍵。そして、邪悪な物の力を無害な力へ変換、拡散する力である。

 液体状の魔力を気体に変換、更にフロートタイムに影響が出ないくらいの濃度で上空へ拡散する。


 これなら……!

 そんな魔法はこの世界には無い。だが、俺達の使うイメージ法による魔法なら、可能だ。

 俺は既に諦めムードが漂い始めていたみんなを集めて、耳打ちした。


「……大丈夫か? スイト」

「ああ。俺が魔法を使えば、ギリギリいけると思う」

「セルクはどうするよ?」

「後から考える。とりあえず、この場所から離れればどうにでもなる。……多分!」

「お前って時々アバウトだよなぁ」


 タツキは呆れたような笑みを浮かべて、俺の手を握った。




 ― セルク ―



 眠い。

 とにかく眠い。


 けれど、寝たらダメだとでも言うように、頭の中でけたたましいアラートの音が響いている。

 でも、身体が動かない。


 僕は……もう……。



『はいはい、諦めない! 意識をしっかりと保って、深呼吸して!』



 ……?


 誰の、声?


 浮上した意識の中で、僕は深呼吸をする。ただ、空気はいやに重たくて、呼吸がしづらい。


『ゆっくりで良いから、吸ってー、吐いてー。そうそうその調子』


 若い男性の声だ。

 貴方は……誰?


『僕の名前? 名乗るほどの者じゃない……っと、いや、呼ぶ時に困るか。僕は、そうだね。ヴィッツとでも呼んでくれ。愛称だから』


 ヴィッツ、さん。


『そう。ああ、一応君より年上だけど、さん付けはしなくていいよ』


 ……何気に、僕の心を読んでいませんか。


『ああ、うん。喋るのは無理そうだから、勝手に読ませてもらっているよ』

「……そん、な、こと……っ!」


 勢いに任せて、横倒しになっていた身体を起こす。しかしひどい眩暈がして、起き上がりかけてまた倒れてしまった。加えて、ムリヤリ声を出したせいでむせてしまう。


 う、気分もそうだけど、視界もぐにゃぐにゃしているし、気持ち悪い。


「ああ、無理しないで。ゆっくりで良いから、ゆっくりで」

「……貴方が、ヴィッツさん?」


 きれいな金髪に金色の瞳。凛々しい顔立ちの青年が、僕を覗き込んでいるのが見えた。

 あれ? この人ははっきり見える?


「視界がおかしくなっているわけじゃないよ。強いて言うなら、この場所の光景が異常なだけさ」


 言われて、僕は周囲を見回した。魚の姿は無いし、美しいサンゴ礁なども無いが、金色の魔力が漂う様はまるで、海の中にいるようだった。


 揺らめきによって出来た、自然な歪みの景色。本来なら見られない、深い深い海底のような光景が、僕の前に広がっていた。キラキラした粒子が所々に浮かび、影は見当たらない、不思議な光景。


 とろみのある液体化した魔力は、見て分かるほどのとんでもない濃度である証拠だ。しかし、不思議とその中で動けている僕自身に、少し驚いた。


 僕は魔族領の中心地で育ったため、高濃度の魔力の中でも自由に動ける。でも、こんな目に見えるほどに濃縮された魔力の中では、古くから高濃度の魔力に慣れている魔族でさえ、ただでは済まないはずだ。このような魔力濃度は人工的に作る、もしくは普段人が入らないような聖域にしか発生しないし。


 普段から濃い魔力の中にいれば、人は案外その環境に慣れてしまえる。要は急に刺激を与えなければいいのだから、簡単なのだ。

 ただ、僕の体内時計は、僕があの人……ウルルによって気絶させられてから、あまり時が経っていないと告げてくる。はたして、これほどの魔力に身体が慣れる時間があっただろうか。


「食べるかい? その場しのぎにはなると思うけど」

「……どうも」


 体内時計がしっかり機能してくれている事は助かったけど、見知らぬ人がいる所では鳴らないで欲しい。頼むから、その「くきゅぅ」って、妙にかわいい音を出すのだけはやめて!

 うぅ。おかげで飴玉をもらう事になっちゃったよ。知らない人から食べ物をもらっちゃダメだって、言われているのに。


 あ、不思議な味。カリベリーの味かな? あれは皮がパリパリしていて美味しいけど、飴玉だとパリパリ感が無くてちょっと分かり難い。こんなに美味しかったっけ。

 って、そうじゃない。


 つい空腹にほだされてしまったけれど、依然としてヴィッツさんが怪しい事に変わりは無いのだ。


 大体、この魔力濃度の中で自由に動けるなんて、ちょっとおかしい。僕もだけど。

 それに……この場所だ。


 ウルルによってここに連れてこられたけど、そもそもここは誰が作ったのだろうか。まさかウルルが作ったわけでもあるまいし。


「この施設は何に使われていたのでしょうか。というか、いやに広くないですか? まるで国の重要施設にいるみたいです。下手すると、そこらの重要施設よりも大きいですよ」


 むしろ、城に次いで大きいのではないだろうか。今僕のいる場所だって、途轍も無く広い。かろうじて、王都一番の図書館が匹敵するくらいの場所だ。壁の高さといい、縦と横の長さといい。


 ほぼ何も置かれていない分、余計に広く感じる。それに窓が1つも無いから、地下なのだろう。つまり、地上にも建造物があるという事。少なくとも、先程まで僕のいた所は、潰されてはいたけど、窓らしき物のあった痕跡があった。

 地下と地上で、少なくとも2階層まであるのだ。他にも階があると考えるのは普通だろう。


「この施設はね、その昔、偉い人が作り出した孤児院さ。地上は6階。地下は9階まである建物だったよ。孤児院にしては大きいと思うだろうけど、当時はここが抱えきれないほどの孤児がいたという事だね。創設者はずっと、孤児のいなくなる世界を望んでいた」

「……それは……」

「分かっていたさ。無理難題だということは」


 ここがどのくらい前に作られた建造物なのかはさておき、結果的に孤児が多い世の中に変わりは無い。いくら奇跡と呼ばれる魔法があるこの世界でも、その魔法に耐性を持った病気やケガにはお手上げだ。魔族領は比較的戦争の少ない領地だけれど、それでも、疫病や自然災害には勝てない。


 僕の友達の何人もが孤児だ。学園は孤児も受け入れているから、それなりに多い。更にそのほとんどが、疫病、自然災害によって生まれた孤児だった。


「決して叶う事のない願いだとしても、願わずにはいられない。創設者は孤児ではなかったけれど、孤児に似た境遇の子供を見てきたらしい。

 その全てが親を望んでいたわけではないし、死んでいく事に恐怖しない子供だって幾人もいただろうね。それでも引き取って、ここに住まわせていたんだ。私財を投げ打って、子供達に資金的な負担がかからないように配慮までしていた」

「……優しい人だったのですね」


 昨今の孤児院や教会は、子供を拾っても重労働させている所が多い。それも、資金援助をするべき立場の貴族は私腹を肥やすばかりの状況で。

 たまに変わり者の貴族が資金援助もするらしいけど、それは大抵、平民上がりの人達である。


「創設者はこうも言っていたよ。孤児を集めて育てることは、世間体で言えば良い事なのだろう。同時に、それはある種の欺瞞で、自身の自己満足だと。孤児となった子供達の感情を考えずに集めている事は、自分のエゴだと。

 この施設の名前はEGO。‐Education Genial Orphnage‐というのさ」


 かつて、この孤児院が掲げていた看板には、そう印字されているのだと。ヴィッツさんは遠くを眺めながら教えてくれた。


 エゴか。

 まるで直接見てきたかのような物言いだ。そう考えた事が顔に出ていたらしく、ヴィッツさんはふわりと笑う。


「当然ですよ、直接見てきましたから」

「なっ」

「ありえない話ではありません。ここは魔法が存在する世界で、時空間魔法もまた、存在するのですから。時間を行き来する魔法は、魔力を多量に使いますが、実行不可能というわけではない。

 見るからに人族で、長い時を生きる事が出来なくとも。僕はこの目でしかとそれを見てきた。加えて言えば、僕は今より未来の時代から来ている。過去に遡る事は、今の僕なら簡単なのさ。もっとも、行き先がちょっと、不安定なのだけれど」


 ヴィッツさんは疲れたように呟いて、僕の頭を撫でる。その手は柔らかくて、少し大きい。声は若いけどちゃんと大人なのだ。

 ちょっと、物凄く、怪しいけど。


「それで、その……エデュケ……?」

「ああ、覚えなくてもいいよ。どうせ、この世界では使われていない言語だし。たしか、エイ語という言語だったかな。興味があれば、スイトさん辺りに聞いてみてください」

「師匠を知っているのですか?!」

「……あの人は有名だからね。僕のいたここより未来の時代では、どこでも彼の名前が知れ渡っていたほどだったよ」


 僕から目を逸らしつつ答える。


 何だろう。目をそらす時は、大抵嘘を吐いている時か隠し事をしているときだと相場が決まっている。

 何に対して隠し事をしているのかは分からない。けど、何かを隠そうとしている事は間違い無い。


 とはいえ、ここでそれを問い詰めるのは野暮だろう。この人は僕を助けてくれようとしているのに、わざわざこちらが不快にさせる事はない。

 隠し事は、何かしらを隠したいから隠すのだ。


 そこを部外者である僕がつついても、何にもならない。


「……あの、出口は、どこですか?」

「んっと、分からない」

「……はい?」


 いやに迷い無く歩いていたヴィッツさんから、トンデモ発言が飛び出した。

 僕は思わず、ヴィッツさんを睨み付けた。


「ああいや、一箇所に留まっているのがいけないから、こうして歩いているだけで、特に目的地も無く歩いているから、出口に向かって歩いているわけじゃないのさ」

「何で出口に向かわないの?」

「多すぎる太陽属性の魔力に、空間がかなり歪んでいてね。一歩踏み出すだけで、一部屋二部屋またいでいる事も、最上階から最下階に飛んでいる事もある。逆に、全力で何時間走っても、実際の空間では1ミリも動いていない事もある。

 この、方向も正確な距離も分からない状態で、出口を目指すなんて事は不可能だ。

 ただ、その場に留まっていると、僕達を起点として魔力が集まってしまう。そうなれば僕達の許容範囲を超えた魔力が集まって、最悪、結晶化した魔力の中で窒息死してしまう」


 窒息?!


 ヴィッツさんは笑ってジェスチャーしているけれど、その内容は軽く話せるものではなかった。


 結晶化した魔力は加工する方法がほとんど無いし、結晶の中に閉じ込められたまま固まってしまった生物を綺麗に取り出す方法は見つかっていない。

 まさか、窒息して死んでしまっている状況とは。


 いや、どうしてその事を知っているのやら。まあ、未来でなら解析方法も分かっているのかもしれないけども。


「じゃ、じゃあ、どうやってここから出るんですか?!」

「ああ、そこは心配ない。……もうすぐだから」


 もうすぐ? 何がもうすぐなのか。優しい笑みを浮かべるヴィッツさんは、ただひたすら歩く。僕の歩幅に合わせてゆっくり歩いてくれている。

 何か怪しいけど、優しい人ではあるのだろう。


 だからこそ、この怪しさが残念である。


 飴玉は受け取っちゃったけど、手は繋がないからね! 怪しい人とは手を繋ぐなって言われたから!

 ……お母さんに。


「……あの、もうすぐって……」

「もうすぐは、もうすぐ。ああ、ほら」


 相変わらずキラキラしている景色。歪んで、光っていて、影も何も無い空間。それが、さっきよりも色が薄く、暗くなっている。


 歪みは段々消えていく。


 光も段々失われて。


 影が段々戻ってきた。



『 ――……! 』



「あ、今、誰かの声が……」


 元に戻っていく空間の中、僅かに聞こえてきた声。かろうじてそれは声だと分かったくらい、小さな声。とても何と言っているのか聞き分けられない。


 けど、何だろう。

 胸の辺りがふわっとした。


 何でか、あまり聞こえないはずの声が聞こえた途端、途轍もなく安心した。

 こんな、わけの分からない状況になっているのだから、人に会えただけでホッとしたという事も充分ありえる。けど、そうではないと、感覚が告げてきた。

 僕達のいた場所は、徐々に広場へと形を変えていく。


 そして、やがて……。


「―― セルク!」


 聞こえてきたのは、スイトさん……師匠の声。

 上からの声に僕は見上げる。薄暗くなった空間の中で、声も、明かりも、騒がしい足音も、上から来たからだ。階段付近の廊下に、師匠の声が響いていた。


 そうして僕を見つけたらしい。師匠が僕目掛けて、走ってきた。

 足取りが若干危なっかしいけれど、焦った様子で、僕の目の前までやってきて、跪く。


「無事か、セルク!」


 僕が答えるよりも前に、師匠はぺたぺたと僕の身体を慎重に確かめていく。ちょっとくすぐったいけど、心配してくれたからこその行為なので、大人しくしておこう。


 そうして満足したのか、僕を抱きしめた。

 強く、それでいて柔らかく。


「……良かった。無事で」

「師匠……」


 長いような、短いような。どれくらいの間抱きしめられていただろうか。ようやく離してくれた師匠は、睨み付けるようにヴィッツさんへと視線を移した。


 たしかに、先程までの空間に、僕がいたというだけでも驚きだ。普通はいられなさそうな魔力濃度だったもの。そこにいたもう1人の人物が怪しく見えて当然だよね。


「アンタは?」

「あ、師匠。その、この人は、僕を助けてくれた人……です。ヴィッツさんというそうです」

「……ヴィッツ?」


 師匠は首を傾げる。


「ああ、そう名乗ったから、そう呼んでくれるかな。スイトさん」

「……ヴィッツ、ね。後で話を聞いても?」

「もちろん、喜んで」


 ヴィッツさんは笑顔で応じる。


「……師匠?」

「大丈夫。ただ話を聞くだけだ。簡単に言うと、お礼を言うだけさ」


 師匠も笑顔だ。

 ただ、ちょっと、怖い笑顔だ。


 明らかに、ただ御礼をするだけではないのだろうと。そう思ってしまった。


「どこでお話するのかな?」

「付いてきてくれ。あ、セルクはハルカさんに治療してもらえ。ケガがあるかもしれないから」

「あ、は、はい」


 師匠達が向かったのは、下の階だった。

 何故出口へ向かわないのでしょうか?


 お礼なら帰る途中で出来るのでは?

 そう問おうとした時には、既に師匠は階下へ消えていた。


「さ、行こうぜ。ああ、俺はスイトの友達だから、怪しまなくていいぞ」

「は、はい」


 跳ねた髪をした、師匠と同い年くらいの男性がそこにいた。師匠と同じ服に妙なマントを羽織った姿で、とりあえず師匠の知り合いである事は分かる。

 人懐こそうな笑顔のまま、僕の顔を覗き込んでくる。


「大丈夫だって。ケンカとかじゃないから」

「そうでしょうか」


 かなり物々しい雰囲気でしたけど。


「あれはなー。かなり動揺しているだけ。ああいう時って、作る表情を微妙に間違えるからな。まあ、会って一年の奴でも、見抜けないような違いの事が多いけど。ありゃ相当だわ」

「はぁ……」


 とにもかくにも、僕が知っているお話はここまで。

 タツキさん、というらしい勇者さんは、やんわりと、絶対に階下へ行かせようとはしてくれなくて、その後の話を僕は知らない。


 ただ1つ言えるのは。


「そういえば、ヴィッツさん。僕と同じにおいがしました」

「……におい、だぞー?」


 後からやってきたマキナさんは、息を切らしていた。あ、そういえば、この人って体力がからっきしだったような。大丈夫かな。


「はい。僕が自分で作る、香水もどきで。消臭剤代わりに作っているものです」

「香水……たしかに、そんな香りがするなー」

「そ、そんなに強くはないのですが……」


 僕は自分の服のにおいをかぐ。さすがに香りが消えかけているが、そもそもこれは香りが薄いはず。

 薬草とか、中には雑草も混ざっている香りだ。消臭と匂い付けを同時にこなすもので、便利である。ただ香水もそうだけど、臭いがきついと辛い。


 香りを薄める工程も合わせて、僕しか配合は知らないはず。


 それが、どうしてヴィッツさんからしたのだろうか。




 この時の僕は、面白い偶然もあるものだ、くらいにしか考えていなかった。


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