ふたつにひとつの御陵さん
「着いた……!」
東京駅に到着した。予想通り、林間地帯を抜けるまで、何度か新幹線の外壁に彼ら動物が突進してくる音がしたが、速度を上げた新幹線に追いつくことはなく、それ以上の被害は生まれなかった。乗客や私が救急を呼んでいいた為、駅のホームには救急隊員がすでに駆けつけていた。
もちろん、間に合わなかった人も何人かいる。それでも、ここにたどり着くことで助かった命も確かに存在した。
「あの時、私がもし……」
その矢先だった。駅構内に、どこからか歌声が聞こえてきた。駅の構内放送かとも思ったがそうではない。そもそも、こんなに人でごった返していたら、こんなに消え入りそうな歌声が聞こえてくるはずもない。
美しい歌声だった。旋律は優しく空間を包み込み、多くの人が聞き惚れてしまったかのようにその動きを停止した。
周囲の人間の誰一人として、一ミリとして、再び動き出す様子がなかった。私一人を除いて。
「なに、これ」
倒れ伏した血だらけの女性を手当していた救急隊員もその動きを止めて、虚空を見つめ続けている。
「ねぇ、誰か……」
私の問いかけに答える言葉はない。意思を失った人々は答える術を持たない。
歌声が、歌声だけが、私の耳に入り込んでくる。
「ねぇ、佳奈、佳奈ってば……!」
棒立ちの佳奈の肩を揺さぶる。それでも何も反応は返ってこない。生きているのは分かる。けれど、何も返ってこない。
崩折れるように私は地面に座り込んだ。何が起きているのか分からない。けれども、もうどうにもならないような気がしてならなかった。胸の内にはただ、絶望が押し寄せるのみだった。
「――――――ちゃん」
どこからか聞こえてきた消え入りそうな声にハッとする。
「――――――御陵ちゃん」
声の方を見ると、そこには気絶していたはずのヴォネガット教授が横になっていた。
「ヴォネガット教授……!」
あれから何度か緊縛止血を定期的に解いていたので鬱血してはいないが、いずれにせよ危険な状態である。その証拠に、彼女の顔には血の気がなく、今にも途絶えてしまいそうな呼吸の浅さだった。
「皆が、他の皆が……!」
意味はないと分かっていても、彼女にすがりついてしまう。彼女は自分で動くことさえままならない。そもそも、既に終わりかけている命だ。彼女に出来ることは――――――
「逃げろ、御陵ちゃん……」
「え……?」
「この歌はマズい。私は気絶していたから半分までしかやられていないんだろうが、これはマズい。侵されるぞ……」
「何を言って――――――」
「いいから、逃げろ。御陵ちゃんが何故今も動いていられるのか……は、分からないけど……」
彼女の口の動きがにわかに鈍くなる。それでも彼女はひたすらに喋り続けようとしていた。
「動け……るうち……に、逃……げ……るんだ……」
その言葉を最後に、彼女は動かなくなった。切断された足から血を流し続けたまま、彼女は生きながら死に、そしてより深い死へと向かっていくのだろう。
私はわけも分からぬまま、駅から逃げるように走り去った。
地上へ出ると、そこには先程まで動いていた人混みが一切動くことなく、固まっていた。さながら、大波を捉えた写真のように、何も動かない。動作を停止した人が乗っていたであろう車たちはそのまま直進し到るところへ衝突したり、人をひいてモーセの十戒のように人の海を真っ二つに割っていた。
どこからか流れてくる歌が止まることはなく、世界に流れる音は私の呼吸音と、その歌声のみだった。
私はひたすらに、走り続けた。
逃げるように走り続けた。
何から逃げているのか分からなくなるように走り続けた。
けれど、それもこの交差点までみたいだった。どんどんと身体は言うことを聞かなくなり、思考は希釈するように徐々に薄れていった。
交差点の真ん中で立ち止まった私は、それ以上動けなかった。鳴り響く歌声に恐怖を感じながらも動けなかった。
目の前で何かが現れようとしても動かなかった。
一瞬、空間を裂けるような錯覚を覚えた。私に覆いかぶさるように影が伸びる。現れたのは多分、人のようで人ではない何かだったが、今の私には何が起きているかを判断する思考はほとんど残されていない。
私は辛うじて動く目で、辺りを見回してみる。
消え入りそうな夕陽がビル街を照らしている。ビルガラスに映し出されているのは、交差点の真ん中で立ち竦む私と、四つ目の巨人。
巨人は厳かな音の響きを以て、私に一つ、問いかけた。
『――――――汝の魂を、余に預けてはくれぬか』
ふたつにひとつの選択だ。けれど、こんなの、選ぶ余地なんてないじゃない。
だってもう、ほとんど何も分からないのだから。
巨人は言葉を紡ぎ続ける。
『汝の力を貸してほしい。汝の魂を貸してほしい。さすればこの世界は今一度救われるのだ』
なにそれ。茹で上がった頭でも分かるくらいに意味のわからない言葉。
そんな愚痴を心の中でこぼす。
驚いた。まだそんなことをする余裕が残っていたのか。
私が未だ遠く、残響のように歌声が響いていることに気づいたのはその時だった。
『――――――時間がない。どうか、選択してくれまいか』
巨人は再び、選択を促してくる。
ほとんど意識が無い。もはや彼が何を言っているかを理解する時間も、返答を吟味する思考も残されていない。
けれど。あぁ、さっきの「この世界は今一度救われる」っていうフレーズは、なんか良い。まるで、幼かった頃の夢が叶うような気分じゃないか。何も分からなくなる前に、そんな夢現の間際に、あの望みを叶えられるのなら、私は選ぼう。
いつの日か、おねえさんとした約束通りに。
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