六両目のカルネアデス 2/2
――――――三十分前、第八車両、前方。
「――――――っ!」
どうしよう、ここまで逃げてきてしまった。
離席した後、由加たちのいる六両目まで戻ろうとした矢先、数十秒間の停電の後、到るところから悲鳴が聞こえ始めた。真っ暗だった車両内がトンネルを抜け出て夕日で照らされると、割れたガラスが床に散らばっていた。
『何が起きてるの……?』
恐る恐る、先頭車両の方向を覗いてみると、黒い体を赤く濡らしたカラスがいた。
ギョロリ、とこちらと目が合う。その瞬間私ははじけるように後方車両へ逃げ出した。
『あれはなんかヤバイ……!』
そのまま私は後ろに感じる気配が無くなるまで走り続けた。その道中で見たものはいずれにしても普通の光景ではなかった。至る所から新幹線に何かがぶつかり、潰れるような音がして、至る所の車窓は割れ落ちて、至る所に乗客の血やら悲鳴やらが飛び交っていた。
『由加たちは大丈夫かな……』
ここまで逃げてしまったが彼女たちも同じような状況にあるのかもしれない。出来ることならすぐに引き返したいが――――――
脳裏に過る、あの視線。狩人の如き狡猾な目をしたアレが、恐らくこの先で待っている。
生き残ることだけを考えるのなら、どこかに一人で身を隠せばいい。他人のことを気にしていられる状況ではないのだからそれは仕方がないことだけど……。
そんなことを考えていると後方からドアを開ける音がした。振り返ってみるとそこには、血を流し、足を引きずりながらも前に歩もうとしている制服姿の男性がいた。恐らく恰好的にこの新幹線の乗務員だろう。
「ぐっ……」
彼は一歩、前に進もうとして膝をついた。されど、その顔は俯くことなく、ただ前だけを見つめ続けている。
「っ」
当然、前の方にいる私と目が合った。彼は私を見るやいなやこう言った。
「すいません、そこのあな……た……」
肩で息をしながらも、彼はぽつりぽつりと言葉をつぶやく。
「どうか、私を……先頭車両まで連れて行ってくれませんか……」
何故、彼はそんなになってまで前を目指すのだろう。マニュアルにそうあるからだろうか?有事の際にはそうしなければいけないから?それとも――――――
「前にさえたどり着ければこの新幹線に乗っている人々を救えるんです……!」
そこにあったのは義務でも何でもなく、確かな決意の表情だった。
私は言葉を話すことが出来ない。だから彼の言葉に答える言葉がない。けれども、その決意で動かされた心であるならば、彼の気持ちに応えられるだろうか。
彼のもとに歩み寄る。その傷ついた身体を支えるようにして彼と同じ
「あ、ありがとうございます」
「――――――」
私が一言も言葉を発さないことに疑問を抱いているのは表情から分かる。それでも彼にとってはわらにもすがるような気持ちなのだろう。強く握りしめられた拳と、歯を食いしばりながら立ち上がろうとするその表情には未だ、一縷の望みを掴まんとする気概があった。
「先へ、先へ進みましょう」
――――――第一車両、運転席前。
辿り着いた。しかし、運転席への扉は固く閉ざされており、窓には血飛沫の痕があった。恐らく、運転士の生存は絶望的だろう。
「どうやったら中に入れる……、考えろ、考えろ……」
速度は依然として落ち続けている。乗客たちが割れた車窓を荷物で塞いでいるが、攻撃は止まず、新幹線の外壁にあたって肉が飛び散る音がそこかしこから鳴り止まない。加えて、先程から風切り音に混じるように聞こえてくる断片的なノイズ。
どこにいても聞こえてくる耳障りなそのノイズは徐々に音量が増している。
『あの"咆哮"です。あれが再び放たれたのです。遥か彼方、厚い氷海の奥底から』
元凶はおそらく、咆哮を放ったものと同じだろう。何かに接続しているような音にも聞こえるし、テレビの砂嵐のような音にも聞こえる。正体のつかめないその音が何を示すのかは分からないが、未来予知めいた悪寒は走り続けている。
――――――何かが、何かが"来る"。
そんな不安に駆られながらも、思考は目の前の扉を破ることから離さない。
「あれだ」
周囲を見回して飛び込んできたのは、床に倒れた車内販売のカート。倒れ伏した乗務員をそっと横に寝かせて、カートを起き上がらせる。
「よし、行くぞ……!」
車両半ばの辺りから、助走をつけて扉へ突っ走る。
「やあああ――――――っ!」
勢いよくぶつかったカートから身体に衝撃が走る。勢いそのまま、カートごと倒れる。カートはひしゃげてしまったが扉は――――――
「ダメか……」
少し凹みが入っただけで全く開きそうにない。物理的に破壊するには女の私には無理か……。
そうなれば、開ける方法は一つ。この新幹線の乗務員の中から鍵を持っている人間を探す他ない。一番可能性が高いのは――――――
「大丈夫ですか!」
後方から声が聞こえてくる。振り返ってみるとそこには血だらけの男性と佳奈の姿があった。
「佳奈……!」
よかった、無事だったみたいだ。けど、隣の人は――――――
「この新幹線の車掌です、運転士は……」
「ダメです。恐らくは既に……」
その一言を聞くやいなや、彼は佳奈から離れ運転席の扉へと駆け寄った。あまりにもボロボロの状態だが、彼は転びそうになりながらも扉まで歩み寄り扉を開け放った。
運転席に入ると、壁一面が血にまみれていた。倒れ伏した運転士はガラスで頸動脈を切ったのだろうか。ところどころ割れた運転窓からは風が吹き付けてきていた。
「自動運転が切られてしまったのか……」
「運転できますか……?」
「出来ます、やってみせますとも」
肩で息をしながらも彼は運転席に座る。操作盤にまで血が飛び散っている。
彼の運転の元、新幹線は徐々に加速していく。このまま速度を上げれば攻撃の頻度も下がるはずだ。
「さて、どこでこの新幹線を止めるべきか……」
「しばらくは林間地帯です。その近辺だと動物が追いかけてくる可能性がありますよ」
「このまま最終駅まで走り続けます」
「遠すぎます!あまり時間をかけすぎれば負傷者の治療が間に合わない可能性もありますよ……!」
「途中の駅には一切止まりません。規定速度より走行速度を上げれば間に合う可能性はあります」
「けれど……」
それより先を言おうとして、口をつぐむ。もとより、選択肢はない。運転できるのは彼だけだ。私の意見なんかよりも運転技能を持ち合わせている彼のほうが信用に足る意見だ。
「……お願いします。私は車両を戻って出来うる限りの処置をします」
運転室から出る。佳奈と共に後方へ歩いていく。少し振り返った先に見えた電光掲示板には「終点:東京」と表示されていた。
たどり着くまでの間、私は負傷者の応急手当をしよう。私には今、それだけのことしか出来ないのだから。
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