私が『私』であるために

 ――――――私は、物心がついた頃から自分の身体が大嫌いだった。

 白い肌と、銀色の髪。母親譲りの翠の瞳。何ひとつとして不自由ない身体を持って私がこの世に生まれた。

 何ひとつ。そう、何ひとつとして足りないものなんてない五体満足の喜び。私にはそれが苦痛でしかなくなっていった。


 始まりは些細なことだ。いつものように朝、眠たい目をこすりながら母親に起こされて学校へ行くために身支度を整えているの最中。私は鏡の中に映っている私の右腕と、自分の目に映る私の右腕を見比べた。

 白く、細い右腕。ただそれだけのことなのに、私はそれを『気持ち悪い』と思った。

 分からなかった。何故自分が自分の右腕を見てそう思うのか、幼い私は皆目見当もつかなかった。


 細い指で右腕を撫ぜてみる。すると、にわかに鳥肌が立っていくのを感じた。こそばゆく感じたからではない。これは生理的な嫌悪。自分のモノであるはずの右腕がこの上なく不快なモノに感じた。まるで、この右腕が末端から腐りきっているような感覚だった。

 私はすぐに右腕に触れた左手を執拗に洗い続けた。いつまでたっても洗面所から現れない私を疑問に思った母が、私の肩越しに声をかけるまでずっと洗い流し続けていた。


「こんなに石鹸を使ってどうしたの?もったいないじゃない」


 母親に叱られた私は仕方なく、左手を洗うのをやめた。


「どうしてこんなことをしたの?」


 そう聞かれても、私には答えるすべがなかった。だってそれは、自分でもよく分からなかったことだから。

 爾来、私はずっと私の右腕を娼嫉し続けた。ある人に聞いた話だが、人間の感情には、人間の想像以上に身体システムが関わってくるものだという。私のそれは強迫性障害だと、その人に言われた。

 強迫性障害は本人もこんなことは意味のないことだと分かっていてもやめられないものであり、それは頭の中で起こっているセロトニンなどの機能異常によって起こるものだとかなんとか。

 つまり、心の裡に生じるものであれ、それは自分の考えや感性の問題なのではなく、身体の問題なのだと言われた。

 でも。

「でも私は、あの嫌悪が意味のないことだとは今まで一度も思いませんでした」

 私がそう答えるとその人は「無理をしなくてもいいんだよ」と優しく私の頭を撫でてくれた。私はその時も、その人にばれないように自分の右腕に爪をたてていた。


 それから社会人になるまではどうにか私の右腕は私の身体についていた。自傷行為の痕は日毎夜毎に増していったが、それは肩の辺りにとどめていたので誰にもバレることはなかった。

 それでも、その不快感は消え失せてくれることはなかった。むしろ、傷つければ傷つけるほど、私は私の右腕がおぞましい何かに変わっていくような気がしていた。

 心まで侵されるような嫌悪の果て、夜に自分の右腕が私を喰らう悪夢を見たその次の日。私はついぞ、その選択をした。

 職場に欠勤の旨を連絡したあと、私は買いためておいたドライアイスをたっぷりバケツに詰め込んだ。私はそのバケツに右腕を何の遠慮もなく差し込んだ。

 凍傷になるまでは半日程度かかっただろうか。私は、私の右腕に感じる痛みに涙しながら、私の身体に取り憑いていた怪物みぎうでを殺しているという事実に喜びを覚えていた。

 その後、私は救急車を呼んで無事に右腕を切り落としてもらった。自宅にあったバケツからして私が自らそうしたことは火を見るよりも明らかであった。私の右腕を切り落としてくれた医者は私にこう問いかけた。


「――――――なぜ、このようなことをしたのですか?」、と。

 私はただ一言、

「私が『私』であるために」

 そう答えた。

 医者は何も言わず、病室から立ち去っていった。


 右腕を切り落として以来、私は今までに感じたことのない生の喜びを感じていた。

 自分に取り憑いていたものがない。

 自分がずっと嫌っていたモノがない。

 自分の何の変哲もないただの腐りきった右腕がない。

 その事実だけで私はこれまでの陰鬱とした人生をなかったことにしてもいいくらいには嬉しかった。


 それでも当然、周囲の私を見る目は変わった。うつ病だの希死願望だの四肢欠損性愛だの。色々なレッテルを貼られたが私としてはどれでもない。

 あなた達にとって、自分の身体が五体満足であることが理想的な姿であろうことは分かっているし、自らその身体を失うという行為がどれだけ愚かな事に見えるかも分かっているつもりだ。でも私は、それが不必要であったとしか言いようがなかった。


 私はその後、義手を取り付けた。当然、多くの人からは首を傾げられたが、私が嫌いだったのは自分の肉の一つだったあの右腕だけなのだ。別に、この機械の腕には何にも不満を感じることはない。むしろ、それはとても自然なもののように感じているくらいだった。


 これこそが、『私』だ。そう思っていた。その時は、よもやあの怪物が癌のように転移するものだとは思っていなかったのだ。

 だから。


――――――だから私は、切り離された右足を見て思わず恍惚の表情を浮かべてしまったのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る