墓國<ボコク>

「ペトラはガルツから旅立った後、宿を探しに止まったムラのローシャ教会でミルティエールとオヴィスパに出会う」

「ふむふむ」


 ヴォネガット教授は白紙にさらさらと微妙な教会らしきものの絵を書いて、その中になんとも頼りない見た目の棒人間を二人書いた。


「このローシャ教会の描写によれば、ローシャ教会のステンドグラスにはクマが描かれている」

「はい」

「ほら」

「え?」

「んー、まだわからないか」

「どう分かれと……?」


 私が困惑しているとヴォネガット教授は新たなヒントをくれた。


「"ローシャ"ってなんか聞いたことない?」

「"ローシャ"ですか?うーん、なんだろう……」

「"オヴィスパ"とかそのままなんだけど……、いや流石にそれは難しいか。……よし!」


 そう言うと、彼女はパチンと手を叩く。手袋をしているのでさほど音は響かなかった。

 彼女はさっと立ち上がり、ティーポットをひったくるようにつかむと、ティーカップへ紅茶を注いだ。それを呷り飲み干してから彼女はこう言った。


「うん、流石に難しかったねぇ。ま、答えを言うとだ。このローシャ教会はね、今で言う"墓國ぼこく・ロシア"なんだよ」

「は……、ロシア、ですか?」

「うん、ロシア。聞いたことあるだろう?」

「え、えぇ。でも、随分と旧い言い回しをするんですね。教科書にくらいしか出てこないですよね、"墓國"って」

「まぁそうだよねぇ。かつての"国"はすっかり表立って使われることはなくなったからねぇ」


 今や世界は一つの国になった。統一された言語を話す、不揃いの人々。そうなってからはかつての"国"というせせこましい区分なぞ不要なモノだった。かつて、この星には193もの国が犇めいていたそうだ。だがそれは大昔の話で、今ではそれはただの一地名に等しい。ヴォネガット教授に言わせれば、今のソレは"墓國・日本"にあった"県"という単位に近いそうだ。


 現在、地球PETRAには七つの都市が存在する。


 かつてエジプト、ギニア、マダガスカルなどが存在した大陸都市、フォールド<Fold>


 かつて日本、インド、タイなどが存在した大陸都市、カスプ<Cusp>


 かつてオーストラリア、ニュージーランド、パプアニューギニアなどが存在した大陸都市、スワローテイル<Swallowtail>


 かつてブラジル、アルゼンチン、ペルーなどが存在した大陸都市、バタフライ<Butterfly>


 かつて、アメリカ、カナダ、メキシコなどが存在した大陸都市、ハイボリック<Hybolic>


 かつてイギリス、ロシア、バチカンなどが存在した大陸都市、パラボリック<Parabolic>


 そしてPETRA極南点、この星最大の銀氷の大地、エリプティック<Elliptic>


 これら七大都市のうち、エリプティックを除いた六都市がそれぞれの裡に有象無象の墓國と文化と人類を孕んでいる。


「"オヴィスパ"というのは墓國・ロシアにおいての墓語らしくてね。確か表記はー……、"убийство"だったかな」

「じゃあ本当は人名ではないと?」

「うん。意味はね、"殺人"だそうだ」

「さ、殺人って、なんでそんなのが名前になってるんです?」

「描写によれば、ミルティエールは彼がそう言っていたからとあるが、もしかしたらこの時に惨劇を見た"彼"が譫言のように呟いたのが"殺した"という墓語だったのかもしれない。恐らく、彼女はそれを名前だと勘違いしたんだろう。まぁこの時点では彼女は言語剥離については全く知らない状況だからね」

「となると彼はずっと"殺人くん"って呼ばれてたということに……?」

「そうなるね。彼からしたら非常に迷惑というか失礼な話だけどねぇ。あ、ちなみにロシアではクマは知恵のある存在、豊かさの象徴として神格化されてたそうだよ」


 大きな欠伸するヴォネガット教授。この本棚に収まりきらない本の数々があちらこちらに積まれている部屋の惨状など気に留めないようで、本の表面にはうっすらとホコリが被っていた。

 彼女はカチン、カチンとティーカップにデコピンを食らわせていたが、何かを思い出したように「あっ」と声を上げた。


「そういや気になってたんだけどさ、なんて彼は"オヴィスパ"って名前が違うってことを伝えようとしなかったんだろうね?全く知らない言語だったとしても少しはニュアンスでわかりそうなもんだけど」

「あー、もしかしたら、言語剥離症には段階があるからそのせいじゃないですかね?」

「段階?」

「えぇ。最初は言語の乱れが生じ、その後完全に剥離が完了すると一定期間は何も喋ることが出来ないとかなんとか……、私もまだよく知らないんですけどね」

「何も喋れないっていうのは墓語もかい?」

「そうだと思います。それで一定期間を過ぎると墓語を話し始めるそうですが……」

「ふーん、それは知らなかったなぁ。さすがは医学関係者だねぇ」

「あ、ありがとうございます?」


 最近のニュースで結構流れてるんだけどなぁ、と思いながらも彼女の知識量には圧倒されていた。

 そんな密かな感銘なぞ露知らず、目の前ではヴォネガット教授がクッキーを口に放り込んでいた。


「んぐ。あれ、なんでこんな話してたんだっけ?」

「ええと、LITERAL・PETRAを使って言語剥離症の原因をどうにか出来ないかという話でした」

「あぁ、そうだったそうだった。まぁ、ペトラ伝承が"伝承"であるなら原因の、"暁の巨塔"とやらもあるんだろうけどねぇ」

「ロシアが出てきたってことはその周囲にあるのでは?」

「んやー、そもそもそんなのあったらとっくに皆騒いでるでしょ」

「た、たしかに……。じゃあその、"ガルツ大陸"というのは一体何処にあるんでしょう」

「さぁー、分からん。どっかにはあるんだろうけどねぇ」


 再び、研究室には彼女がティーカップにデコピンを食らわせる音が鳴る。今度はさっきと違って手袋をしている右手なので甲高い音は響かない。


「それとも、本当に最初から統一されていたのかねぇ……」


 独り言のように小さく呟いた後、彼女はティーカップの青い装飾をそっとなぞる。その背後のブラインドから滲み出た夕陽は、彼女の揺れるポニーテールを照らしていた。

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