終幕

 塔の方へと手を伸ばす。触れた場所から波紋が起こり、私の手は斯壁の向こうへ辿り着いた。

 特に異常は感じない。私の手は境界を超えても私の手で在り続けている。


「大丈夫そう……ですね」

「あぁ」

「……行くか」

「はい」


 四人は斯壁の裡、断絶された世界に身を投じた。


「これは――――――」


 飲み込まれたその先、暁の巨塔はようやくその本当の姿を私たちにさらけ出していた。

 影は正しく私達を暗く染め上げ、見上げなければその頂点を視界に収めることは出来ない。

 塔の方へと歩みを進めれば、無論その巨体が塔の背後の景色を拝むことを許さない。

 距離も、大きさも、何もかもが正しくそこに在った。


 だが、それは異様だった。

 塔の外壁は今まで見ていた無疵の白亜の壁ではなく、凹凸の激しい赤黒いその壁は今にも崩れ去ってしまいそうなモノだった。よく見ると、所々に白い夾雑物が混じっていて、ソレが余計に外観の異常を訴えていた。


 煮え滾るような外壁に、ポッカリと開いたその穴からは生暖かい風が吹いてきている。

 薄暗い塔の胎内には階段のようなものが添えられていた。


「行くぞ」


 アランさんを先頭に、私たちは階段をゆっくりと登り始めた。

 胎内に入ると、外からは分からなかったモノが見えてきた。壁にヒビが走っている。頭上からは時折、崩落してきた何かが私の横を掠めていった。加えて、臭う。無機物であるはずの塔からは何かが焼けたような異臭が漂っていた。


 歩みを進めれば塔の頂上が近づいてくる。頭上に広がる最上層の床からは今もなお、砂塵がこぼれ落ちていた。落下するそれを目で追うと、この塔の内部が特異な形状になっていることに気づいた。

 この塔は丁度真ん中の辺りが細くすぼまっているらしく、登ってきた階段はその穴へと吸い込まれるような形状になっていた。


「最初に上を見た時にはこんなふうには見えなかったのに……」


 彼女たちは登ってくる間にもそれに気づいてはいなかった。通り過ぎてからようやく気づいたそれに、恐怖を覚えたが誰もそれを口にすることはなかった。


 上に登るにつれて、ゆるやかに広がっていく空間。最上層まではあと数段を残すのみだった。

 アランさんはそこで立ち止まり、続く私達の方へ向き直った。


「いよいよ、最上層だが……準備はいいか」

「うむ」


 ザックィンさんは十字架を握りしめると、ただ一言、それだけ言った。


「大丈夫です」

「私も……」


 ミルティエールさんに続くように私も返答する。ここまで来たのだ。今更引き返そうという気にはならなかった。

 ただ、漠然とした不安が胸中を満たしていっているのは拭い去ることができなかった。


 一段。


 ゴツゴツとした階段を踏みつける。


 二段、続いて三段。


 階段の先から太陽の光が射している。


 四段。


 照らされた壁はその光を喰むようになお赤黒い。


 五段。

 最後の階段を、四人は駆け上った。


 眼窩に映し出されたその光景は異様だった。

 赤黒い壁一面には金継のようなひび割れが走っていて、地面には白い槍のような形をしたモノが転げ回っている。


 だが、一番の問題はここにはそれ以上、何も存在しないということだった。この塔を創り上げた神様の像があるわけでもなく、神台や祠のようなモノも存在しない。ただ、空間がそこにあるだけ。


「辿り着いたが……」

「……何もないですね」


 ミルティエールさんが口を開いたその瞬間、塔全体が震え始めた。得も言われぬ重圧が身体に押し寄せる。壁は軋み、その亀裂はさらに天へと昇っていく。地面の槍がカタカタという軽い音を立てながらその振動に合わせて騒ぎ立てる。


「な、んだ……こいつは……!」

「これ、煩い……!」


 四人を襲っているのは音。何重にも積み重ねられた音が波のように押し寄せる。重ね、固められた音は不可視の土砂となり遍くモノを抑えつけ、震わせていた。

 重低音のような、高音のような、この世に存在する音全てを圧縮したような旋律が響き渡る。私はそれにどれくらいの間歌われていただろうか。

 辺りに雨のように砂塵が降り落ちる。旋律くもの中に何か混じっていたのに気づいたのは暫く後のことだった。


「―――、………よ」

「お……、…めろ―――」

「――て!……さんが―――」

「―――、…してやる」

「…んで急にこんな、皆どうし―――」


 声。

 悲鳴、怒号、歓喜。

 高い女の声。低い男の声。


 声、声、声。

 周囲に叩きつけられる旋律の至る所から声が聞こえた。

 何処の声だ。誰の音だ。頭に流れ込んでくる情報量が多すぎて判別がつかない。


 音、声、声、音、声、音。

 止めどなく溢れてくるモノに溺れそうになっている私はひたすらに耳をふさいだ。固く目を閉じた。

 なおもこの身を串刺す旋律が勢いを弱めたのはいつのことだったろうか。


 音の嵐は去り、震う塔身は静謐に戻っていた。目を開けると、壁の亀裂はより長く、大きくなり、私達を取り囲むように広がっていた。


 剥がれだした亀裂が、私達を捕えていた。


 左方の壁から、光を発した亀裂が引き剥がされていく。音、風も立てずに剥がれていくその亀裂は宙に浮くと同時に線になる。光線は緩やかに私の目の前に降りてきて、せわしなくのたうち回り、キレイな円形になった後、停止した。

 今度は右方の壁からも亀裂が引き剥がされて、線になったソレは先刻私の目の前で停止した線に隣り合う形で、やはりこれも円形になった後に停止した。


「これは……」

 と、ザックィンさん。


 途端、目の前の光円がその声に反応するように波打ち始めた。その波から円を形作る線よりもさらに細い蜘蛛糸のような線が二つの光円の間にするすると伸びていった。それは自分の目的地に辿り着くとそこで停止し、空に固定された。


“塔、崩壊ノ一途。修築ヲ図ルヤ否ヤ”


 そこに現れたのは選択肢だった。

 崩れ行く塔を直すのか。

 もしくはこのまま全てが塵芥に変化して行くのを許すのか。


 突然の事に動じるあまり、私は周囲にいる彼らの事を一時の間忘れていた。

 思い出したのは後方から声が聞こえてきた時だった。


「選べってのか、これ」

「そのようだが……」


 アランさんの問に応えるようにザックィンさんが頷いた。


「直してもらえばいいんですよね、これ……」

「そのはずですが、どう伝えればいいんでしょうか」

「話せばあるいは……」

「私がやろう」


 退いた私のかわりにザックィンさんが光円の狭間に立つ。彼は小さく息を吐き出すと、十字架を握りしめながら天への訴状を詠み上げた。


「人類の曙光なりし大いなる塔よ。その身の疵を癒やし、人々に再び安寧を齎し給え」


 波打つ光円。彼の願いを聞き届けた光は一条の線となり、主の元へ還るように塔壁に染み込んでいく。

 左右双方の壁に穿たれた光点は転瞬、雷の如く枝分かれし、塔全体をその光で捉えた。


 白に塗りつぶされる眼に、ここではない、私のモノではない視界が混ざり合う。


「お、おい、お前!何してやがる!」

「集わなければ」


 男は春の陽気に微睡む赤子わたしの首を搔き切った。


「悪い、悪かった、ゆるし、許して、やめ―――」

「集わなければ」


 わたしは打たれた頰を赤く染めながら男の腹を貫いた。


「集わなければ」


 広場には多くの人が集まり、多くの人が他人を殺し、多くの人が他人に殺されていた。

 それに対抗する人々は高らかに正義を謳う。

「彼奴らこそ、このルータクス王に逆らう叛逆者共よ!この際だ、悉くを蹂躙しろ!」


 混乱に乗じたのか、狂気に当てられたのか。

 王は騎士達に一切を斬り捨てるよう命じた。黒衣を纏った敬虔なる信徒も、明日の天気を憂いていた無力の女も。騎士はその全てを正義をぶち上げて叩き斬る。


 再び視界は白んで、瞼を開けた時には惨憺たる街から緑這う大地に移り変わっていた。見覚えのあるその景色はアランさんと通り過ぎたエモンの丘だった。

 その丘に二人。黒衣に映える赤の襷をまとわりつかせた男とそれに付き従う女の姿があった。


「素体の回収は不可。廃体のみ、廃体のみ」


 掘り出した頭蓋骨を手にしながら無機物のような声を出した男の傍へ女が歩み寄る。


「司祭様、司祭様」

「集わなければ。集わなければ」


 女の声に応えることなく、司祭と呼ばれた男はより大きな何かに従うように譫言を呟いている。


「司祭様―――」


 女の嘆願するような声が途切れる。口から血泡を吐き出した彼女は自らの身体に起きたことを最期まで理解することなく、泥まみれの頭蓋骨に添寝するように倒れた。


「集わなければ―――」


 襷と同じくらい赤い血を浴びた司祭はその一言の後、自らの胸に持っていた儀礼剣を突き立てた。


 三度、白く燃え上がった眼球が自分の感覚と繋がった時、私の耳朶には一人の男の慟哭が流れ込んでいた。


「妻が、アイーシャが―――」

「まさか、この塔は人間の身体で―――」


“組成ヲ開始。転輪、崩壊、修正”


 四人は再び、全てを震わす旋律に襲われた。爆ぜる旋律に合わせて塔が揺れる。先程よりも大きい音の波が全てを打ち砕かんばかりに塔の中を暴れ回る。天蓋は既にひび割れ、隙間から陽光が忍び出ていた。


「爺さん、ぼさっとしてんな!早くそこから離れろ!天井が崩れるぞ!」


 アランさんが大声で叫ぶ。


「アイーシャ、アイーシャ……」

「ザックィンさん、早く!」

「ペトラさん、離れて!もうすぐ―――」

「アイーシ―――」


 ミルティエールさんに抑えられ手を伸ばしたその先で、空虚な瞳に涙を湛えた黒衣の神父はその頭蓋もろとも瓦礫に打ち伏せられた。


 歓喜に打ち震えるように塔は大きく揺れ、砕けた天蓋の開かれた巨口が暴声を放つ。


 私の周りのあらゆるものが音を立てて崩れていく。

 骨粉が私達の身体を白く染め上げていく。

 ここまで勇敢に先導してくれた彼でさえもこの塔が崩れていくのを目の当たりにして、黒曜石のような頑強な身体を恐怖で震わせる事しか出来ないらしく、連れ添ってきた亜麻色の髪の乙女が桃色の唇から紡ぎ出す言葉には私の知らない音の響きが加わっている。

 私の目の前の床に槍のように変形した骨が突き刺さる。今も震え収まらぬ私の地面あしもとには、先刻瓦礫に頭を潰された神父の持っていた十字架が転がっていた。


 この塔の外では多くの無辜の民が死に、人々の「正義」による混沌が、この大地の人々を覆い隠してしまった。


 愚かな私達を許して下さい。


 私達はあなた達の夢を、

 あなた達の命を、

 あなた達の未来を、


 ふたつにひとつの選択を、間違えました。

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