星に歌えば/暁の幻影
お腹いっぱいになった私はベッドに寝転がりながら窓の外を見上げていた。
雨の止んだ空には星が輝いている。
目を閉じると、小さな歌声が聞こえてくるのに気づいた。
体を起こして窓を覗くと、内庭にミルティエールさんがいた。
「……行ってみようかな」
外套を羽織って部屋の外へ向かう。
内庭へ続く扉を開くと、澄んだ風が私の髪を揺らし、肌はひんやりとした冷気に包まれた。
雨露で輝く花々に囲まれながら彼女は星に歌っていた。
「――――――♪」
その歌声は彼女を包む空気のように透き通っていた。紡がれる音色に惹かれるように花々は風に揺られて踊っていた。
私はしばらくの間、その旋律に身を委ねていた。
「ご静聴ありがとうございました、ペトラさん」
歌い終わった彼女は振り返って私に笑みを向けた。
「とっても素敵でした!さっきの歌はここらへんで歌い継がれてるものなんですか?」
「そうですね。あの歌は祈りの歌なのです。誰もが皆、幸せで在れるようにという祈りがこめられています」
「へぇ……」
ミルティエールさんは微笑むと少しだけ顔を曇らせた。
「ミルティエールさん?」
「私はこれくらいしか出来ませんから」
「そんなことはないですよ!料理だってとっても美味しかったですし!」
「ありがとうございます。でもそうじゃないんです。私は、すぐ側にいる彼すら救えない」
「それは……」
彼女が浮かべていたのは普段の笑顔ではなく、唇を噛み、己が無力さを恨む表情だった。
俯いた彼女が顔を上げてその言葉を毅然と言い放ったのはその直後のことだった。
「私も、あの塔へ連れて行ってくれませんか」
「えっ」
「お願いします」
「……オヴィスパくんはどうするんですか」
「大丈夫です、ムラの信頼できる人が彼を息子として迎えてくれることになったんです」
「本当に?」
「はい。それもあって私は旅立つ決意をしたのです」
「でも、何があるかわからないし……」
「ここにいては、何も出来ないんですっ……!」
彼女が声を荒げる質ではないことはこの短い間でも分かっていた。そんな彼女が悔しさに顔を歪めながら胸中を世界に訴えた。
「私はここで人の安寧を祈るように、幸せを願うように育てられました。歌もそのカタチのひとつです。歌うことは好きです、でも歌ったところで実際に誰かが救われるわけじゃないっ」
叫びは壮烈に私を貫く。
「あなたの歌のお陰で救われたと息子を亡くした人が私にそう言いました。でも、救われてなんかない、歌ったところで亡くなった事には変わらない!熱に浮かされ苦しみながらも大丈夫と言って死んだ子供がそれでどう救われたというんですか!」
星空は涙に濡れた彼女の頬を冷たく照らしていた。
「歌うだけでは何も変えられないんです……。だから、どうか……」
「ミルティエールさん……」
「お願いします、私も連れて行ってください」
彼女の瞳は私を捕らえて離さなかった。
「……行きましょう、一緒に」
「ありがとう、ペトラさん」
涙を拭った彼女の顔にはやわらかな笑顔が浮かんでいた。
「ということでよろしくお願いしますね」
「お、おう」
翌朝になり、颯爽と馬に乗り登場したミルティエールさん。
「馬乗ったことあるんですか?」
「えぇ。結構得意ですよ、乗馬」
藍色の外套をたなびかせて手綱を握るその姿は普段教会にいる人間とは縁遠いものだった。
ザックィンさんが地図を黒衣の懐にしまい込み、手綱を握りしめた。
「ここまで来れば塔まであと少しだ。道中に件の森があるが、そこは通り過ぎよう。無駄な危険を犯す必要はない」
「……そうですね」
「まぁ、いざとなったら俺がどうにかするさね」
アランさんが得意気に背負った大剣を後ろ手で叩いた。
「さぁ、行こうか」
「はい!」
晴天、暖かな日差し射す旅路を四頭の馬が駆け抜ける。
「良い天気だ」
「えぇ、風が心地よいですね」
周囲を囲むように木々が並び立っている。
森は逆らうこと無く、拒むこと無く、訪れた四人を裡へと招き入れる。
誰も言葉を発さなかった。
ただ、その場を通り抜けた。
乾いた泥を蹄が砕く。
開け放された家々の入り口には落ち葉が吹き溜まり、そこにあるのは自然の胎動のみ。人の気配はもはやそこには存在しない。
道すがら通り過ぎた一本の木には斧が突き刺さり、その
辺りを満たすのは木々のさざめきと、小鳥の鳴き声。加えて、誰もが嫌悪する人の死臭のみだった。
森を抜けると、再び青い空が見渡す限りに広がる。前方には聳え立つ巨塔が私達を見下ろしていた。
もう幾分の距離もないはずなのに、塔は未だにその大きさを保ち続けている。道が塔の麓で途絶えているはずなのに、塔はそこには存在しないかのようにその姿であり続けている。
どんなに近づいても、その塔は空への視界を巨体で塞ぐことはなかった。
どんなに遠のいても、その塔は自らの存在を人々から忘れさせることはなかった。
風が髪を撫ぜる。私の目に映る草っぱらは確かに駆け抜けてきた旅路の方へ靡いているはずなのに、私の白い髪は目の前にあるのであろう塔の方へとその毛先を向けている。
私の背に当たる追い風に歯向かうように道端の小さな花はこちらへ向けて咲き誇る。
明確な境がここにあった。
後ずさり、全てを視界に収めるように眺めると、前方にある塔の姿が切って貼られたようなちぐはぐの風景であることがよく分かった。
太陽は塔の後ろに隠れているのに、塔の影は私達の足元を暗く染めていない。かわりに伸びている塔の影は太陽の方へ向かっていた。
あるはずの影はそこには存在せず、ないはずの影はそこに存在した。
まるで、中天に浮かぶ燃える星へその切っ先を突きつけるかのように。
眼に映し出される
大地の果て、斯壁にて断絶された世界に聳え立つ暁の巨塔は、確かにそこに在った。
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