女と少年

 蹄が地面を踏みしめる軽快な音が曇天の空の下に鳴る。

 乾き始めた大地に申し訳程度の色彩を与えている緑からは生命の気配をあまり感じられない。

 ガルツから出立してから三日が経過したが、依然として巨塔までの距離が縮まっている気配がない。あまりに大きすぎるからなのか、それともそれはそうあるものなのか。恐らくザックィンさんの話からすれば後者なのだろうがどちらにせよ、終わりが分かりにくい旅というものは存外精神的に辛いものがあった。


 馬を走らせていると、少し湿っぽいような独特の匂いを微かに感じた。


「雨が降ってきそうですね」

「鼻がいいなペトラ嬢。確かに向かう先に黒雲が立ち込めているぞ」

「ありゃあ結構降りそうだな」

「だが幸いなことに、もうすぐこの近くに小さいがムラがあったはずだ。そこで泊めてくれるような場所を探そう」

「分かった。少し飛ばすぞ、ペトラ、爺さん、ちゃんとついてこいよ」

「はい!」

「うむ」


 私達がそのムラに辿り着いたのは、雲が黒く陰り、ちょうど雨が降り始めてきた時だった。

 小さな家がひっそりと身を寄せ合って出来たそのムラでは、何人かの女が慌てて外に吊るしていた服を家に放り込んでいた。


「さてと、宿探しと行くか」


 巨躯の馬から降りて辺りを見回すアランさん。どこが良さげかを判断しているのかと思っていたのだが、「よし」と小さく呟くやいなや手前の家の扉を叩いた。

 少し開けられた扉の隙間から訝しげにアランさんを見つめる女は、一言二言会話したあと、申し訳なさそうに扉を閉めてしまった。

 どうやら断られたみたいだが、アランさんは気にもせずに、というかしらみつぶしに探すつもりなのだろう。私が三度瞬きをした後には、すぐ隣の家の扉を叩いていた。


「ペトラ嬢、私は馬をつないでくる」


 ザックィンさんは一言そういうと、馬の元へと行ってしまった。

 ムラの広場に一人ポツンと残されてしまった私は、ムラの端の方にある薄汚れた青い屋根の建物を見つめていた。

 その建物はムラの他の建物よりも一回り大きく、絵画のような色彩豊かなガラスが窓枠にはめられていた。


「なんだろう、あそこ気になるな」


 何となく興味を抱いたのでふらふらっとその方向へ歩く。私の背後でアランさんが箒で追い出されていたような気もしたけど見なかった事にしてその建物に向かった。


 その建物の前に辿り着くと、広場の方からはよく見えなかったガラスに描かれた絵が見えた。


「なんだろうアレ。魚かな」


 見た感じでは荒れ狂う波間から金色の魚みたいなやつが飛び出しているように見える。どういう意味の絵なんだろうか。

 私がその絵を見上げて眺めていると、目の前の大きな扉がギギギッという少し耳障りな音を立てながら開いた。


「おや?」

「んぉ?」


 視界の外から飛び込んできた声にびっくりして上を向きながら素っ頓狂な声を上げてしまった。

 視線を下ろすと、鈍い色彩豊かな光を背にたたえた亜麻色の髪の女性が私は不思議そうに見つめていた。


「あっ、えっと」

「見ないお顔ですね。もしや旅のお方ですか?」

「はい。その、広場からここの建物のキレイなガラスが見えてそれで……」

「あぁ、あれですか。それならこちらに。あ、案内をさせていただく前に自己紹介をさせていただいても?」

「あぁ、はい。そうですね」

「私はミルティエールと申します。どうぞ、よしなに」

「私はペトラです」


 鷹揚に頭を下げた後、ふふっと柔らかい笑みをこぼした彼女はゆっくりとした動作で私を内に手招きした。

 薄暗い室内に、鈍い光が窓を通して降り注いでいる。扉を閉めると静かな世界が私を歓迎した。

 光の射す方を見上げると、広場からは見えなかったガラスに描かれた絵が曇天の空を背景に淡い色彩を放っていた。独特の雰囲気が室内を満たしていて、私はそれが妙に気に入ったらしく、気づくと自分の口が半開きになっていた。それは、ガラスに描かれている絵を見た結果でもあったが。


「あれって……」

「えぇ。クマですね。ここではクマが神様なのです」

「クマかぁ……」


 脳裏に一瞬、私に飛びかかってくるクマの姿が過る。


「おや、クマはお嫌いですか?」

「あはは、ちょっと、苦手、ですかね……」

「そうなのですか?見たところ、クマの毛皮の外套をお召になっている様ですが……」

「あぁ、これはその貰い物でして」

「そうでしたか。でも、クマも意外と可愛いですよ?」

「そう、ですか」

「そうですとも」


 この人、おっとりとした見た目とは裏腹に結構強者なのでは。襲われた身からすると申し訳ないが好きになれる気はしなかった。


 私が顔をしかめながら描かれたクマを眺めていると、光が当たらず影になっている所から微かに物音がした。

 どうやらそこには扉があったらしく、開かれた扉からは浅黒い肌をした少年が顔を覗かせていた。


「お……?えーっと、こんにちは?」


 挨拶をしてみたが、少年はすぐに顔を引っ込めて扉を閉めてしまった。


「ありゃ」

「すいません、あの子、少し恥ずかしがり屋でして……」

「なるほど」

「あの子はどういう……」

「そのなんというか、迷い子とでも言えばいいでしょうか・・・」

「えっ」

「最近、ムラにふらふらとやってきて、広場で倒れているところを私が保護したのです」

「一人でやってきたんですか」

「えぇ。何故そうなったのかは分かりませんが……。最初に私の元で目を覚ました時、とても怯えていました。とても怖い思いをしたのかもしれません……」

「可哀想に……。どこから来たんだろう、あの子」

やってきたようなので、おそらくはあちらの方のムラの子なのかもしれません」

「塔の方、から……?」


 ここから塔への直線状に存在するムラは一つしかない。ガルツで噂になっていた、理解不能の言葉を話す女のいたムラ。そして、その噂の中には女が子供を連れていたというのもあった。


「あの、すいません。あの子とお話してもいいですか?」

「え、えぇ。しかし、あの子、自分の名前以外何も話してくれないんです。まだ怖がってるのかもしれないので……」

「少しだけ、少しだけでいいですから……」

「……分かりました。オヴィスパ、少し出てきてくれますか?このお姉さんがあなたとお話したいみたいなの」


 ミルティエールさんが扉の方へ声をかけると、ゆっくりと少年が顔を出した。


「オヴィスパくん、こんにちは」

「……」


 反応はないが、先程と違い、彼はそのままこちらを見つめていた。だが、その顔が少し翳りを見せたような気がした。


「少し、聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」

「……」


 少年は相も変わらず何も言わなかったが、小さくコクリと頷いた。


「君は、森に囲まれたムラの子?」

「……」


 少年はコクリと頷いた。


「そのムラで怖い目にあったの?」

「……」


 引きつったような表情を一瞬見せた後、少年はコクリと頷いた。


「何が怖かった?誰かに襲われたの?」

「……」


 少年は首を横に振って否定した。


「じゃあ、何が怖かったの?」

「……」


 少年は困ったような表情を浮かべた。口を開こうとしては、なんと言おうか迷っている風だった。

 質問は二択で答えられるようにしてみよう。


「怖かったのは、男の人?」

「……」


 少年は頭を振った。

 つまり、怖かったのは女性ということになる。


「じゃあ怖かった女の人は、他人?」

「……」


 再び頭を振った少年の目からは涙がこぼれていた。

 他人でないのなら。

 それはより親しい女性であるということ。

 この歳の男の子で親しい女性というと……


「それは、お母さん?」

「……」


 少年は首を横に振った。


「……お姉さん、なんだね?」

「……」


 少年は、コクリと頷いた。


 森に囲まれたムラに住んでいて、そこで起きた怖かったことには彼のお姉さんが関わっている。


 恐らくそれは、彼が、オヴィスパがあの惨劇の起きたという噂のムラの子供であるということだった。

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