出立

 その神父は、その喧騒の中においてでもただ一人静かに世界を見つめていた。

 その手のひらには十字架を握りしめ、視線はカウンター・テーブルの上に広げられた本に注がれている。


「事は一刻を争う。私はあの塔まで行こうと思う」


 ザックィンさんはそれだけ伝えた後、酒を飲み干すやいなや立ち上がり店から立ち去ろうとしてしまった。


「おいおい、行くってたってよ、どうするんだアレ。人の手でどうにかなる問題なのか?」

「分からん」

「塔までってどれくらいの距離になるんですか?」

「馬で七日はかかるな」

「そんなに……」


 行ったところで恐らくザックィンさんには何も出来ることはない。七日間馬を走らせ続けてあの巨塔の膝下まで辿り着いたところで、出来るのは今までと同じように、ただ見つめることしか出来ないだろう。

 それでもザックィンさんはあの塔へ向かうと言って聞かなかった。アランさんやラクトさんが諌めても彼はより強く十字架を握りしめて、決意を固くしていった。


「存外頑固なんだな」

「老いぼれなどどれもそういうものだろう?」

「自分で言うかね」

「言うとも」


 半ば諦めたような顔つきでザックィンさんを見つめるアランさん。

 夜もふけてきて、酒場には私達しか残っていなかった。先程までの喧騒とは打って変わって、静謐が夜の冷気ともに私たちに押し寄せる。

 その静かな酒の席において私は一人、迷いを抱いていた。


 あの塔に行ってみたい。

 そんな思いがいつしか芽生えていた。私自身何故そう思ったのかは分からない。


 ザックィンさんの話を聞いたから?


 違う。


 ラクトさんの酒場で働くのは飽きたから?


 断じて違う。


 そうしなければならない。


 そんな強迫観念が私の思いを支配していくような気がしていた。


「アランさん、あの塔に行くだけなら良いんじゃないですか」


 そんな言葉が私の口をついて出ていた。


「おいおい……」

「ペトラちゃん何言ってんのさ!?」


 アランさんとラクトさんが目を見開いて私を見つめている。


「なんていうか、その私も行ってみたくなっちゃって」

「……何が起こるか分からないぞ、ペトラ嬢」

「今だって何が起きてるのか分からないじゃないですか」

「そういうことではない。あれは人を惑わすことが出来るのやもしれん。もし、異変が渡り歩いていくものならまた再び件の女のような人間が現れてもおかしくはないのだぞ。もし、君が私を心配してついてくるというのならそれは不要―――」

「"私"が行きたいんです」

「ペトラちゃん……」


 皆が私のことを訝しむような目で見つめていた。


 分かっている。それは意味がないと、何が出来るわけでもない人間が果ての巨塔を目指そうなど熱に浮かされたような言葉だと。

 それでも、私がここにいるのは何か自分に出来ることが、やるべきことが見つかるかもしれないからだったはずだ。

 私があの都市ばしょからここまでやってきたのは、いつの間にか失っていた自分で選ぶという事を取り戻すためだったはずだ。

 私は心の底から、あの巨塔に行きたいと思っていた。塔に惑わされているのだろうか。そうではないはずだ。この思いは多分、憧れと言うものだろうか。


 酒を飲み下す音が、静かな店内に響き渡る。ふぅっと大きなため息をついた後、アランさんが膝を叩いて立ち上がった。懐から金を出してラクトさんに差し出すと、何も言わずにそのまま店から立ち去ってしまった。


「怒らせちゃったかな……」

「……」

「ペトラちゃん、本当に行くのかい……?」

「はい、すいません。突然来て働かせてもらっているくせに、突然また出ていくような真似をして」

「……全くだよ、本当に」


 俯いてグラスを磨くラクトさんの口から放たれる言葉にはいつものような元気がなかった。微かに漂ってくる爽やかなレモンの香りが鼻孔をくすぐる。

 磨き終わったグラスをテーブルにおいて、彼女は小さく笑い、そして私に向き直った。その目は迷いなど最初から存在しないように澄み渡っていた。


「ペトラちゃんが本当に行きたいっていうのなら、いい。行っておいで。見ておいで」

「ありがとうございます」

「それと」

「はい」

「またパイを食べにおいで!」

「……はい!」


 ラクトさんは笑顔で私の背中を押してくれた。色々文句を言ってもいいのに、そんな言葉を何一つ残さず、ただ、私を応援してくれた。


「明日の朝には出立する。用意は済ませておいて欲しい。行くのが嫌になったら来なくていいのだぞ、ペトラ嬢」

「ザックィンさん。あなたが来るなと言っても私は行きますよ」

「……そうか。それならばいい。それでは明日の朝、北門で待っている」


 店から出て、白い息を吐きながらザックィンさんは帰っていった。


 家に戻った私は、ガルツでの最後の夜を過ごす。グロスからここまでやってきた時に背負っていたリュークを再び取り出す。手ぬぐいをリュークの傍らに置いて、ズボンは椅子の上にそっと添える。グロスから出発する前夜もこんな感じだったなぁ。


 昼の疲れもあってか荷造りが終わった私は横になるとすぐに眠りに落ちていった。


 翌朝、曇る窓を撫ぜて見た街は薄明るく、早起きの働き者の人々が何人か通りを歩いていた。

 私は姿見の前に立ち、私を確認する。

 肩にかかる髪は、まだ雲と空との見分けがつかない寝ぼけた天気のように白い。

 淡く青みを帯びた瞳はまだ起きたばかりなのでぼんやりとした目つきをしている。

 アランさんからもらった黒いクマの毛皮の外套を羽織り、愛の極感錠の描かれたズボンのポケットには平穏の手ぬぐいを忍ばせている。

 私はそれをそっと、ズボンの上からなでてから荷物で膨らんだリュークを背負う。


 部屋を出て、路地を通り、広場を抜けても私は振り返ろうとは思わなかった。


 歩みを遅らせようとも思わなかった。


 心残りがあるとすれば、アランさんに別れの挨拶が出来なかったことだろうか。昨日の夜、店から出た後にアランさんの家を訪ねてみたものの、アランさんは戻っていないようだった。


 歩き続けて、街の北端の方までやってくるとだんだんと並び立つ家の数が減っていく。その少し寂れた路地の傍らに、ザックィンさんはいつもの黒衣を身に纏って佇んでいた。


「おはようございます、ザックィンさん」

「うむ、おはようペトラ嬢。今朝は冷えるな」

「そうですね、ここの所少し寒くなってきました」

「そうだな」


 ザックィンさんは街を見やると、ゆっくりと白い息を吐き出した。


「それでは向かうか。馬は北門につなげてある」

「はい」


 朝靄の中を進んでいくと、大きな扉が私達の目の前に巨口を広げていた。

 靄の向こうに馬の影が二つ浮かびあがり、近づいていくと黒毛と茶毛の馬が明らかになった。


「……む?」


 馬に荷をくくりつけている時、ザックィンさんが目を細めて何かを見つめていた。私も彼の視線の先に目を凝らすと、靄の向こうから、もうひとつ、影がより濃く、大きくなってこちらに向かってきていた。


「あれは……?」

「この時間だと、行商人ではないだろう。旅の者か……?」


 私とザックィンさんが馬の傍らで待っていると、馬の蹄が大地を蹴る音が聞こえてくる。加えて、野太い男の声。こちらに近づいてくるその影は私達がギリギリ視認できない辺りの距離で停止した。


「随分と遅いじゃないか。寝坊でもしたか」

「あなたは……!」

「……ふむ?」


 靄の向こうから顔を見せたのは、馬の巨体にまたがり、大剣を背に携えたアランさんだった。


「何でここに!?」

「お前さん達だけだと心配なんでな、俺もついていくことにした」

「アランさん……!昨日の夜、家に行ってもいなかったから怒って狩りにでも行っちゃったのかと思ってました……!」

「怒って狩りに行くってどういうことだよ……」

「いや、なんかそういうことしそうだなって思って」

「あれだな、たまにお前さん普通に失礼なこと言うよな」


 私がぴょんぴょんとアランさん馬の周りで飛び跳ねているとザックィンさんが二頭の馬を引き連れて、アランさんの隣に並び立てさせた。

 その時にようやく私は、アランさんの馬が私達の馬よりも二回りほど大きいことに気づいた。


「大きいですね、アランさんの馬」

「もしや、それは野生馬か」

「おう、よくわかったな爺さん」

「もしや、昨日の夜に家にいなかったというのは……」

「おう、捕まえてきた。昨日の夜に」

「えぇ……」

「ほっほ、頼もしい限りだな」


 私とザックィンさんがアランさんを見上げていると、頭の上から声が降り注いでくる。


「ほれ、早く馬に乗って行こうじゃないか」

「はい!」

「うむ」


 馬に跨り、手綱を握る。

 ザックィンさんは十字架を握りしめた後、額にコツリとそれをあてがい、再びそれを手放した。


「行くぞ、バベルに」


 大地の果て、人類に暁をもたらした巨塔への旅が始まった。

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