斯壁<カクヘキ>

 その男がガルツへ逃げ帰ってきたのは三日前。旅に出たときとは打って変わって、焦燥と恐怖に顔を歪ませた男は友人に事の顛末を話した。


 巡り巡って。その男の話は街中に広まり、ラクトさんの酒場では酒に酔った客達が伝え聞いた話をまるで自分が見てきたかのようにろれつもろくに回らぬまま饒舌に語っていた。しかもそれが語り手によって細部が全く異なっているあたり人の伝聞は当てにならない。

 当初、これを本当に体験してきたという男が語ったのは"惨劇"だったはずなのに、いまや広場の建物をぶち壊してきた男や服を紡いでいる女が語っている話は人々の娯楽に成り果てていた。


 だが。人々が勝手気侭に話している物語には一つだけ不変なるモノがあった。


「その時朝日に照らし出された塔が、大きく揺らめくのを見た」


 この一文だけは、誰もが最後に神妙な面持ちで話していた。


「どう思うね」

「気になりますね」


 ラクトさんが騒ぎ立てる客達を眺めながら私に耳打ちする。


「ザックィンさんの話と何か関係があるんですかね」

「アタシに聞かないでおくれよ。そういう難しいことは当人に聞いてくれ」


 ラクトさんがつまらなそうに返事をした後、店内から注文の声が飛ぶ。今日のメニューはレモンパイ。爽やかな酸味と香りが客達の心を鷲掴み。普段あまり出ないメニューなので多くの人が珍しがってパイを頼んでいた。といっても、ここに来る人はラクトさんの焼くパイ目当てに来ているようなものなので作る側はいつもどおり忙しい。


 私が焼かれたレモンパイをテーブルへ届けた後、甲高い鈴の音を喧騒に紛れ込ませながら店のドアが開かれた。


「いらっしゃいませー、っとなんだアランさんか」

「なんだってなんだよ」

「いやだって昨日も来てたじゃないですか」

「そうだけどよ……」


 アランさんはいつもどおり、その巨体をどうにか縮め込みながら(アランさんにとっては)狭い入り口をくぐり抜ける。店内に入って真っ直ぐ立つとドアがほとんど見えなくなるくらいには大きい。なので彼の後から入ってくる客は、彼が席へ案内されるまでは入り口で待たないといけない。


「そこにいると邪魔になっちゃいますよ」

「おう、そうだった。今日は連れがいるぞ」

「連れ?珍しいですねアランさんが誰かを連れてくるなんて」

「ここに来るまでの道であってな。どこ行くか聞いたらここだっていうもんだから一緒に来たのよ」


 どかどかと勇ましい歩みでドアから離れながらアランさんがラクトさんに手を振る。彼女の方はというと、パイを焼くのに忙しいので彼を一瞥するとすぐにまた作業へ戻っていった。


「失礼する」


 アランさんが離れてようやく店内へ入れるようになった客が嗄声と共に現れた。


「あっ!」

「空いている席はあるかね、ペトラ嬢」


 穏やかな笑みを浮かべながら店内へ入ってきたのはザックィン神父だった。


「いらっしゃいませ!席はえーっと……」

「おう、爺さんここで良いだろう」


 声の方を振り返ってみると、そこではアランさんが酒をかっくらいながら自分の隣の椅子をバンバン叩いていた。


「アラン!あんた椅子壊したらただじゃおかないからね!」

「おう、すまないな姐さん」

「それやめろって言ってるだろう!」

「すんません……」


 先程まで浮かべていた満面の笑みは何処へやら、ラクトさんに怒られたアランさんは何処と無く縮こまって小さくなっているように見えた。なんというか、毛量のすごい犬を洗った時のあの何とも言えない哀しさがある。


「えっと、あそこでいいですかね……?」

「かまわんよ」


 ゆっくりと静かに椅子に歩み寄り、アランさんの横に腰を下ろすザックィンさん。この二人の組み合わせは対照的で面白いなぁ。

 ザックィンが来たことに気がついたラクトさんが少しの間手を止め、彼の方に向き直る。


「いらっしゃい神父サマ。何にするよ?」

「酒と……。そうだな、今日はパイにしよう。先程からレモンの良い香りがする。私はレモンが好物でな」

「ほう、そりゃ初めて聞いたよ。分かった、ちょっと待ってておくれ」

「うむ」


 注文を取り終えたラクトさんは再び料理に戻る。アランさんはなんだか少しむくれ面をしていたが私は見なかったことにして二人に酒を運んだ。


「それで、何か話は聞いたかね」


 酒を半分ほど飲み進めたところでザックィン神父が件の質問を持ちかけてきた。


「えぇ。ご存知かと思いますが、塔に関する話が今噂になってます」

「噂とな。それはどういう話だね」

「なんだ、爺さん知らないのか。今や街中で色んなやつが好き放題言ってるぜ?」

「書物を読み漁っていたのでな」

「漁ってたつっても、もう三日前くらいからその噂が広まってるんだが……。爺さん、一体どんだけ長い間読み漁ってたんだ」

「三日程だったか」

「おう……」


 アランさんが閉口する。そりゃそうでしょう。アランさんあまり本読まなそうだし。その腕っ節の強さだと読んでるページをビリッビリにやぶきそうだし。


「さて、それで如何様な話なのだ、その噂とやらは」

「そうだった。俺も聞いてはいるが、ここで働いてるペトラのほうがより詳しいだろう。ほれ、ペトラ。ちょっと来てくれないか。あ、こっち来る時俺の酒を持ってきれくれると嬉しい」


 音が聞こえそうな感じでブンブンとこちらに手を振るアランさん。


「はい、お待たせしました」


 酒を持ってくるやいなや、アランさんは喉を鳴らしながらそれをかっくらう。彼の隣にいるとザックィンさんがとても小さく見えた。


「忙しい所すまないな」

「いえ、約束してましたからね。私が聞いた話の概要でよければささっとお話出来ますけどそれでも大丈夫ですかね」

「ありがたい」

「えっと、大雑把に話すと、ある男がムラに行商に行って、そこで訳の分からない言葉を話す女に襲われて、逃げてる途中に振り返ってみたら塔が揺れてたっていう話なんですけど」

「ふむ」

「どう思う、爺さん。これはただの暇つぶしの娯楽かね?」

「いや、真実であろう」


 ザックィンさんが胸にある十字架をそっと撫でる。アランさんはそれを物珍しげに見ていた。

 暫くの間、何も言わず思案していたザックィンさんが再び口を開いたときには、アランさんは持ってきていた酒を全部飲み干していた。


斯壁かくへきが崩れ始めているのやもしれん」

「かくへき?」

「聞いたことがないな」

「そうだろう。それが記されているものは殆ど残っていないからな」


 そう言うと、ザックィンさんは懐から一冊の本を取り出した。それは、この前に説明を受けた時に広げていたものと同じ本だった。


「塔の周囲には人々の語り継いだ"塔についての物語"が可視化したモノがベールのように纏わり付いているという」

「物語が……?」

「ぬぅ……?」


 この時点で既にあまり話についていけていないが熱の入ったザックィンさんは気にせずに語り続けた。


「人々の言葉がカタチとなったものである信仰、物語はあの塔に蒐集されると言われている。そして塔は、それを元に"人々の信じる塔の在り方"に変幻する。今見えている塔は、私達が斯くあるものと信じる姿が映し出されているモノに過ぎないのだ」


 神父はなおも語り続ける。私はアランさんが既に寝こけかけていたので背中をバレないようにぶっ叩いて目覚めさせた。


「その斯壁が崩れさりつつある。塔が揺らいだのはそれが原因だろう。予兆だ。塔に異変が起こりうる事を示す予兆だろう。いや、既に始まっているのかもしれん。解せぬ言葉を話す女は、塔に統一された言葉を、塔に起きた異変により剥奪されたのやもしれん」


酒場の喧騒の中、私たちは得体の知れない恐怖に密かに身を震わせた。

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