泥濘の赤
冷たい夜気に包まれながら、絡みつく泥を撒き散らしながら、男は走り続けた。
月に背いて。
惨劇に瞑して。
塔に慄いて。
男はただ恐怖した。
男はただ震えていた。
男はただそこに辿り着いただけだった。
その男はガルツからやってきた。目指した先は巨塔から少し離れた場所にある小さなムラ。ガルツからはかなりの距離があるその村へ、男は行商目当てにやってきた。
そのムラでは虫の糸を紡ぎ合わせてそれはそれは豪奢な絨毯を作るという。男は友人からその話を聞きすぐにそのムラへと旅立った。
男がそのムラに辿り着いた時には既に陽はその姿を地平の果てへと暗ませていた。
ムラには入り口となるような目印がある訳でもなく、特筆した建物がある訳でもない。周辺を牢のように森に囲われたそのムラは、夜ということもあってか人の姿は一つもなかった。人々の話し声も聞こえず、辺りには木々が囁くような音を残すのみ。
ここに辿り着く前に雨が降っていたのだろう、ぬかるんだ地面に足を取られながら男はムラの奥へ奥へと歩みを進めた。
「おかしい」
男はぽつりと独り言ちた。
あまりにも静かだった。友人の話によればそこは小さなムラながらもそれなりの数の人間がおり、日夜その絨毯を紡いでいるという。だが、どうしたことか物音が一切しない。家を覗いてみても、明かりはついているが朧気な人影も見えない。
ふと、男が地面を見下ろすと、そこには何かを引きずったような後と、複数の足跡が一つの家へと続いていた。
男はその家を訪ねてみることにした。
「すいません、どなたかいらっしゃいませんか」
返答はなく、辺りにはただ風の音が木霊するのみ。
よく見るとドアが完全に閉まりきっておらず、隙間から暖かな優しい灯りが漏れ出ていた。
次の瞬間、家の中から椅子から立ち上がったような音が聞こえてきた。どうやら人がいたようだ。
男は自分の靴が泥まみれなので近くの大木に靴底をなすりつけた。泥が幹に付着し、どろりとその表面を覆っていく。その泥が少し赤みがかっていたが男は気にもせずにようやく見つけた人の気配に安堵した。
だが、扉の隙間はそれ以上広がらない。確かに音はしたはずだが、内から開けられる様子はなかった。
しびれを切らした男はドアノブに手をかけ、押しのけた。
外見から想像したよりも広いその部屋には赤と黄色の糸で紡がれた絨毯が敷かれていた。そこには一人の女と小さな子が震えながら女にしがみついていた。女は少し興奮しているのか、肩を上下に動かし、顔が赤く火照っている。髪は乱れているが衣服は乱れている様子が見られないのが奇妙だった。
男は女に話しかけてみた。
「突然すいません、私は旅の者です。どこか泊めてくれるような場所はありませんか」
だが、女はただ男を睨みつけるだけで何もしゃべらない。何度話しかけても何も反応をしない女は来るもの全てを拒んでいるようだった。傍らの子が少し身動きを取ると、女はそれを制するように手で後ろへ追いやった。
埒があかないのでその家を後にしようとしたその瞬間、男はその部屋の奥から流れる、赤黒いソレを垣間見た。気味の悪い音を立てて転がり出たソレを垣間見た。
「――――――」
女が口を開いた。だが、聞こえてきたのは今までに聞いたことのない響きを有した言葉だった。
声を聞いた瞬間に身体が強張り、息が一瞬止まった。
ここにいてはいけない。
直感がそう訴えていた。
何しろ、この家に暮らす人々を優しく包み込む天井につけられた灯りが照らし出していたのは、赤黒い血が纏わりついた人間の手だったのだから。
「うわああああああああっ!」
「――――――、―――!」
男の悲鳴と、女の怒声のようなものが部屋中に響き渡るのは同時だった。
男は扉を蹴破る勢いで開け放ち、ムラの外へと逃げ出した。
女は部屋の片隅に隠していた血がこびりついた斧のようなものを持ち出して逃げる男を追いかけた。
男が松明を取り出して、他の家の玄関の灯りから火を点した。
辺りを照らして再び走り続けると、ぬかるんだ地面には凹凸に沿うように枝分かれした血液がその泥の山脈の間を川のように流れていた。
このムラに誰もいなかったのは恐らくそういうことだったのだろう。惨劇の理由は分からない。その凶行の原因は分からない。何もかもわからない状況ではただ逃げることしか出来なかった。
男はひたすらに走り続けた。
何度も後ろを振り向いて女が追ってきているかを確認した。
女の訳の分からない金切り声が自分の呼吸で掻き消されるまで走り続けた。
やがて背後に突き刺っていた凍えるような殺意が空が白むのと共に消え去っていった時、男は再び振り返った。
暁に浮かび上がる巨塔。
太陽が姿を表し始めその朝日に目を眩ませた数瞬の間。
男は、巨塔がその大いなる身体を陽炎の如く揺らめかせたのを見た。
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