初歩的な話をしよう
独自治験は密やかに、ゆっくりと身体を侵していく毒のように水面下で進行していった。
瀧波芳樹、加えて他数名の植物人間状態患者を治験体とした開発はこれまでの開発よりもより迅速に、より大胆な調査法を取ることが出来た。何しろそれは、何も喋らない。
とは言っても、映画のマッド・サイエンティストよろしく血みどろになりながら患者を切り裂くわけでもなく、超人的な怪力を持つミュータントに仕立て上げようという軍の秘匿実験でもないので絵面自体は地味だ。チューブにつながれた治験体に注射器で薬を注入するだけ。異常があれば、体表面が若干かぶれたり、モニタリングしている数値が変動するので、随時治験薬の影響を確認できるようになっている。投与間隔や成分を橋本拓海に投与していたものから調整したということもあり、これまでのところ治験体の心臓が止まったりすることはなく、臨床試験は順調に進んでいる。世間では既に凍結されたことになってはいるが。
もしこれが、世間にバレたら村八分どころでは済まないだろう。人々はよく知りはしないが世の常識の元にそれを糾弾するだろう。あらゆる手段を用いて。
手段には、手段を用意、実行するために必要な要素がある。
「言葉」だ。
世界には「言葉」が溢れている。
ソファでぐうたれながら見るテレビ、眠る前にSNSを覗く時に手に握りしめているスマホ。加えて、朝起きた時によくおじいちゃんが見ていた新聞、電車の吊り広告に街を行き交う人々の話し言葉と学校での友人との会話。
これら全ては「言葉」によって形成される現象であり、事物である。
そして、言葉はそれらを説明するために生成されたコミュニケーション・ツールである以上、その「言葉」自体からそれ以上の要素を理解するのは難しいことがある。
今の私の置かれている状態から「言葉」を紡ぐとするならば。
例えば、「勝手」
よく使われる意味合いはこの3つだろう。
1.他人の事など微塵も気にせずに、自分だけに都合が良いように振る舞うこと
2.何かをするときの物事の良し悪しを測ること
3.自分がかかわる物事の様子
1の意味は今の私に最も当て嵌まるだろう。許可も得ずに勝手に臨床試験を行っている。正しく、自分だけに都合のいいように大義名分を振りかざしている状態だ。まぁ、大義名分なぞどれもそんなものではあるが。
2の意味は道具を用いた例文で言えばわかりやすいだろう。
「この掃除機は高いところまで届くので使い勝手が良い」
「この物件の間取りは狭くて勝手が悪そうだ」
この通り、物事の程度を表すのによく使われるものだ。
3の意味は新しい環境に放り込まれた人間がよく使う意味だ。
「転職先の仕事の勝手が分からない」
「自分の住んでいた島と勝手が違う」
と言った風に、自分の持っているモノサシと周囲の人間や文化が持つモノサシが異なる時に使われる。
もうひとつ、「言葉」を抽出してみよう。
次は「独自」だ。
1.他の影響を受けずに、ひとつのやり方や発想で物事を行うこと
2.他と異なる、そのものだけにあるもの、こと
1はよく偉い人やとびっきりの商品を開発した企業なんかがよく使う。
「今回、私が研究で独自に発見しましたのは・・・」
「弊社が独自に開発した新薬は、無辜の民を襲うコロン出血熱への特効薬になります」
2は物自体というよりも、考えや状態を表すのに使われるだろうか。
「あの作者独自の世界観は中々人を選ぶ」
「あの国は国際社会において独自の立場を築いている」
などが主な使用方法だ。
既に気づいているだろうが、この二つはほぼ同じ意味だ。
「独自」も「勝手」も、自身だけで世界が完結される言葉だ。どちらも他者の入り込む余地のない状態を表す言葉だが、「属性」が違う。
「勝手」は世間一般的に「悪いこと」というイメージが強い。
では「独自」はどうだろうか。おそらく「悪いこと」というイメージが真っ先に浮かぶ人間はいないし、善悪云々で使う言葉ではないと思う人間が大多数だろう。
ここでもう一つ重要なファクターになるのが「理由」だ。
「勝手」を悪しきモノたらしめるのは、それが自己の基準で他者を侵食するからに他ならない。
「独自」は同じく自己の基準があるが、それは結果を生み出すのに必要な資源だ。
つまるところ、「勝手」は自分の思想を武器に他者の世界をこじ開けようとする侵略行為であり、「独自」は自分の思想から生み出した可能性を他者の世界に提供するということである。
言葉を構成する要素は二つ。
「言葉」から生成されるイメージの善悪を左右する「属性」。
「言葉」になぜその「属性」が付与されたかを示す「理由」。
「言葉」 - 「属性」 - 「理由」
これは三位一体の存在であり、一つでも欠けたり、何かしらの夾雑物が混ざれば「人間の世界」が崩壊するとされている。
これは私達の世界においての最も初歩的な決まりごとだ。
故に、ほとんどの人間はそんなことをいちいち考えたりはしない。「何故スプーンはスプーンという名前で、この形状なのか」なんてことをディナー中の夜景のキレイなレストランで考えている男なんていたら面倒くさいことこの上ないだろう。
そう、私たちは「モノの始まり」を煩わしく感じ、そして忘れる。
「そんな基本的なこと、いちいち言わなくても分かってるよ」
人の怠惰は、その一言に集約される。
それは暗闇で手探りでモノを見つけ、その輪郭をなぞって理解するような、町中で見かけた顔が厳つくてガタイの立派な男を見た目で恐怖するような曖昧で浅い理解だ。
輪郭をなぞって理解するとしてもこの世に丸いものなんていくらでもあるし、見た目が厳つくても誰に対してもかしこまった態度を取る凄腕営業マンだったりするかもしれない。
「人を見た目で判断しない」というのは大人が子供によく言うセリフだ。
だが、その大人たちは理解しているだろうか。上辺だけを見て判断するのが良くないという言葉が、「言葉」にも通用するということを。
「私達の世界」というモノが、どれほど脆弱な「言葉」により支えられ、不定形な概念なのかを。
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