植物人間は夢を見るか

 そも、人間とはいつからが「人間」なのだろうか。


 生物体としてのヒト、人の始まりはいつからだろう。この概念的探索は科学、医学的概念ではなく、文化や社会的な意味合いが大きいだろうか。それに加えて、哲学、倫理、道徳も巻き込んだものになる。


「ヒトを人として見る」


 これは以外と難しい問題に変貌することがある。


 人して見ること自体は簡単だ。何しろ、自分で「これは人間だ」と定めてしまえばいい。それは血肉、骨をも持たない現象や、そもそもの異種、他動物の猫や犬なんかにも当てはめることが出来る。擬人化がその一番の例だ。この世界が私達の大脳により造られたものだと考えるのなら、そんなぶっ飛んだ事も許容範囲内だ。人間の趣味趣向に関する懐は無尽蔵なのだ。それは、これまでの人類史上にいた様々な奇人変人が証明している。荒野に転がる岩石を愛そうが、ソファに寝転ぶ猫に婚約指輪を渡そうが、多少他の人に白い目で見られようとも本人がそうだと言ってしまえばそれは立派に「人」に成り得る。


 だが、それをとなると途端に難しくなる。

 例えば、人間の男性と女性が性交し、受精する。

 人間の元ともいえるそれは人間だろうか。そうとも言えるし、そうではないとも言える。

 では、それが体内で成長し、俗に言う「赤ちゃん」と呼ばれる形態になった時からだろうか。

 多くの人が「そうだ」と言うだろう。なにせ、人の形をしている。頭が大きいが手も足も、目だって確認できる。夫婦はそれを病院のエコー検査で確認する。


「私達の子だ」


 そう言って二人見つめ合い、笑い合うだろう。紛れもない、「人」として認めている。本人がそう意識してそうするわけではないだろうが。


 これは「人の始まり」を形態で認識する類の人である。


 では、ソレ以外で「人の始まり」を認識する方法とはなんだろうか。


 それは「自我」だ。


 自分に対して栄養を与えてくれる存在を「親」と認識する機能。

 その親に連れられた先の公園で見た一輪の赤い花を見て「キレイだ」と思う機能。

 成長して、自分の親が少し疎ましく感じるような機能。


 それらを感じる機構の「自我」の有無こそが「人の始まり」だと考える人もいる。


 これらに明確な答えはない。これまでの人類史上にこの難問の答えを見つけたものはいない。正直なところこれを深く考えたらキリがないというのも最もだ。私もそう思う。いちいちそんな事考えていたって、私よりも頭のいい人間が何人もそれに何時間、何十年と費やしても分からなかったものを私が分かるはずがない。そんなことをするくらいなら最近のマイブームのアニメを見た方が何千倍も楽しいし、幸せになれる。


 これが御陵由加の「人の始まり」についての一連の回答だ。

 ならば、と意地の悪くて頭のいい人間は言うだろう。哲学とかそういうのが好きな人間は言うだろう。


「人の終わり」とはどう考えるのか、と。


 私は病室に立ちすくんでいた。カーテンを閉め切った仄暗い窓辺に瀧波芳樹の妻がひっそりと座っていた。まるで、そこにいること自体が申し訳ないような、そんな後ろめたさを表すように、その背を丸めてただひたすらに影に身を隠そうとしているようでもあった。


「私の夫は人を殺したんです。それは償いきれるものではありません。奪ったものはかけがえのない、その人の命。この人も植物人間このような状態になっていますが、それでも贖うことは出来ます。例え、それが世間にとって罪であるとしても」


 その瞳には決意が見て取れた。その贖いの言葉を紡ぎ出す間、彼女は知ってか知らずか、私のことをずっとずっと、見つめていた。


「あなたは、それで納得しているのですか・・・?」

「えぇ。私はこの人の犯した罪を共に贖うと決めているのです。それが伴侶となった私の役目だと思っています」

「あなたはそれほどに、その人を愛していたのですね・・・」

「ふふっ、そうですね。でも、今でも愛していますよ。これまでも、これからも」


 強い人だ。自分の愛していた人が人を殺めてもなお、その愛を捧げ続けている。普通なら耐えきれずに、離婚したり、失望してしまうなんてこともあるだろう。植物人間状態の彼を放ってはおけないというのもあるだろうが、それでも彼女は共に罪を背負って生きていく覚悟を決めている。


「あの、御陵さん。顔色があまりよろしくないですが、大丈夫ですか・・・?」

「あ、あぁ、はい。大丈夫です・・・」

「そろそろ時間だ。相手がどういう人かはもう分かっただろう?」


 大館が腕時計をちらりと見て、大げさな手振りで退去を促してくる。


「は、はい。すいません、急にきてすぐに立ち去る形になってしまって」

「いえ、構いませんよ。こちらのことを知っていただけただけでもありがたいことですから・・・」

「はい・・・。では、私はこれで失礼します・・・」


 病室から逃げるように立ち去ろうとした時、後ろから声をかけられた。聞くだけでこちらまで和みそうなおっとりとした声の中に潜む、贖罪の決意。


「夫の命、どうか使ってやってください。このままただ老いて死にゆくだけでは、物置に放置され朽ちる木材となんら変わりありません。夫の命が誰かの助けになるのなら、私は何も異存はありませんから――――――」


 病院を後にして、車で会社まで向かう。大館は何も言ってこなかった。この男は知っていて、私をあの二人に会わせたのだろうか。

 その疑問を口にする気にもなれず、そのまま車に揺られながら灰色の空を眺めていた。


 始めの質問に戻ろう。


「人の終わり」とはどう考えるのか。


 心臓の鼓動が鳴り止んだその瞬間が「人の終わり」なのか。


 脳がその活動を停止したその瞬間が「人の終わり」なのか。


 脳死が問題になったのは臓器移植という医療技術が発展し始めてからだ。1970年代から盛んに行われてきた「脳死は人の終わりであるか」という問題。一時、「臨時脳死及び臓器移植調査会」が報告書を発表して「脳死状態は人の死である」とされたが、報告書には同時に、一部の委員の名前と共に反対意見が記されていた。


 臓器移植の対象となる身体はいずれも手厚い医療処置を受けている。そもそも、「脳死状態」というもの自体が医療処置によって生じる特殊な状態なのだ。その処置を続けなければいずれ心臓死に至る。


 そして、多くの国ではそこから

 それは遺族によって執り行われ、社会との繋がりを断絶し、その人が「死人」であると知らしめる行為。

 その社会的殺人事件は、「葬式」と呼ばれる。


 人は二度死ぬ。


 医師による死亡の確認は生物学的な死。


 遺族による遺体の処理は社会的な死だ。


 臓器移植が抱える問題は、社会的な死にある。

 臓器移植は医学的な死の後、直ちに行われなければならない。何日も放置すればすぐに腐り始めるだろう。故に、医学的な死の確定後、通常のように死者儀礼が執り行われることなく、遺体から臓器を摘出することになる。その際、それを知らされるのは家族のみで、それ以外の人間には知らされることはない。


 つまり、社会的に死ねないのだ。


 瀧波芳樹は今、植物人間状態にある。


 彼は、ただ朽ちていく。ひたすらに、老いていく。


「瀧波芳樹」は今、どこにいるのだろうか。


 彼は今もその肉体に住んでいるのだろうか。


 それとも、既にここではない何処かへ行ってしまったのだろうか。


 翌日、再び部屋に招集されたメンバーが、それぞれの意見を書いた紙を持ってきて、大館の前に差し出した。ゴミでも見るかのような眼で大館の前に紙を放る者もいた。他の者に独自治験に賛同したかどうかを聞くものがいたが、答える者はいなかった。


紙を提出した後、私は休憩室でコーヒーを飲んでいた。今までも多くの選択をしてきた。間違っていたかなと思うことも多々あった。だが、答えのない選択は初めてだった。私はいま、少し悔やんでいるのと同時に、終わったことに対して安心感を覚えていた。


御陵由加はどちらを選んだのか。


「賛同します」


あの紙にはただ一言、それだけ書いておいた。あんなに抵抗感があったのに、何故かそれを書き終わった後、なんだか清々しい気持ちに


私が独自治験を賛同したのはその治験体が瀧波芳樹であったからだろうか。


それとも、一人の犠牲で多くの人間を救えるからだろうか。


カルネアデスの舟板にて、私は一人彷徨いつづける。


果てのない航海で、私は何を得られるのだろうか。

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