一方、その頃/Another Side Story

 ――――――あの日からどれくらいの時間が経ってしまったのだろう。


 あんなに賑やかだった家の中が嘘みたいに静かになってしまった。

 家族はみんな、私を優しく労ってくれる。それが、余計に辛かった。吐き気を催している時に背中を優しく擦られるあの感覚。他者によって自分の中身をぶちまけられるあの感覚。家族は悪くない。私だって、こうなりたかった訳じゃない。だけど私の現実はこんなにも狭い部屋せかいに変わり果ててしまった。


 こうなった原因はただ一つ。


 私はあの日以来、喋ることも、文字を書くことも出来なくなってしまった。


 いや、正確には、それを許されない状況に置かれたと言ったほうが正しいだろう。


 あの日、塾を早退した私は自分に何が起きているかを理解しようとした。


「―――佳奈先生が何を話しているのか


 彼は確かにそう言った。人間の脳というものは中々に優秀なもので、聞き覚えのある音や言葉なら例え聞こえてきたものが断片的であったり、間違っていても脳内で正解のものを参考に書き直す事ができる。だが、聞いたことのない音はどうしようもない。正解がない問題は答え合わせのしようがないからだ。恐らく、彼の言っていた『分からない』とはその意味だろう。話の意味(単語の意味、何を考えて話しているのか、伝わってくるものは何を指すのか)ではない。本当に、聞いたことがないからわからなかったのだろう。そう推測した。


 部屋に戻り、姿鏡を見て手元の本に書いてある単語を適当に選んで呟いてみる。


「りんご」


 言える。


「恐ろしい」


 言える。


「歴史上の、・・・人物」


 言える。だが、何故か言葉がつかえた。


「私の・・・前は、富、――田佳奈・・・です」


 言える。言葉がつかえた。


「私は、バスと車を・・・、、り継いで大学、――まで、通っ、・・・ます。」


 言える。

 いや、。さっきの自分の名前を言った辺りから違和感を感じてからか、先程まで気づかなかったが確かに私の言葉に所々聞きなれない音が入り混じっている。だが、自分で意識して発言しているので、その音が何を意味するかは分かる。


 ふと思い立って、ノートに小説の一文を書き写してみる。

 無論すらすらと書き進められる。が、すぐに手が止まった。


「この字、ど――――うやって書けばいいの・・・?」

 声が震えているのが自分でも分かった。書き写すだけだ。自分で文章を考えて書く訳じゃない。

 なのに、分からない。この文字はどの方向にどれくらい線を引っ張って、どの位置から再び書き始めればいいのか。それがまったく分からない。

 何度も小説の一文を見る。しつこいほどに。焼けるほどに。それしか見えなくなるほどに。

 再びペンを走らせる。少し進んで、また止まってしまう。引いた線も頼りない歪曲したものだった。


「分かってる、分――かってる、かってるっ・・・!」


 無理やりペンを動かす。

 意味をなさない、混合して焼成した黒鉛と樹脂を紙に擦り付けただけのモノが目に映る。


―――そんなはずない・・・!私―――は分かってる、分かってるん―――だって!」


 頭に浮かぶ単語をいつも通りにノートに書き記す。

 白い紙がただ、ただ、黒く汚れていく。


・・・、嫌ぁ・・・」


 涙が溢れてノートにこぼれ落ちていく。

 濡れた箇所がシミのように広がっていく。

 私の書いた文字はそれと同じようなものでしかなかった。


自分の部屋を見渡す。


自分のお気に入りのアーティストのアルバムのタイトル。


分かる分かってる


3日前に読み終えた歴史小説。


分かる分かってる


今日、大学図書館から借りてきた選書。


分かる分かってる


分かる分かってる分かる分かってる分かる分かってる


ひたすらに書かれている文字を見つめて、それをノートに書き記そうとする。


声に出そうとする。


それでも、文字に起こせず、声を発せられず、部屋がおもちゃ箱をひっくり返したかのような有様に変貌していくだけだった。


「佳奈・・・、どうしたの・・・?」


 ドアの側にはいつの間にかお母さんが心配そうに立っていた。


 もうその時には私は理解していた。これ以上続けても何も変わらないと。というよりも、脳裏に浮かぶ言葉の発し方が最初よりも不明瞭になっていた。意味はわかるのに、声の発し方が、口と、舌と、顔の筋肉の動かし方がわからなかった。


 だから、何も言わいえなかった。


 多分、喋ろうとすればするほど、文字を書こうとすればするほど、私から言葉が剥ぎ取られていくのだろうとなんとなく理解していた。

 これがまだ、相手の言葉さえも分かっていなかったのならもう少しマシだったかもしれない。分からないものには声のかけようがなかったから。

 でも、分かってしまう。分かってしまっている。お母さんが、涙目になりながらペンを握っている私を、ノートをぐしゃぐしゃに汚した私に、心配そうに声をかけてきている。


「大丈夫、佳奈?何があったの?どうして何も言ってくれないの・・・!」


 お母さん・・・、お母さん・・・!

 私は・・・、私も分からないの・・・!

 助けて、助けてお母さん・・・!


 そう、叫びたかった。


 でも、分からなかった。


 私はただ、お母さんに抱きついて、呻き声を上げながら涙を流すことしか許されなかった。



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