死の征服者

「なんでそんなに頑張れるの?」


 私が図書館で講義の予習をしている時に、同級生に言われた言葉だ。これと同じようなニュアンスの言葉を何度言われただろうか。


 そんなことを言われても私にもよく分からない。私はひたすらにあの人の背中を追いかけてきた。あの人がずっと前に死んだことを知って、私は何を思ったのだろう。自分のことのはずなのに未だによく分かっていない。そんな風に気持ちもふらふら彷徨っている状態だから、今の私には今まで通りあの人の背中を追いかけるしか出来ないのかもしれない。


 この先の私は、それが分かっていますか?


「残念だけど、まだ分からないみたい」


 長い時間陽にあたり、少し変色したノートに書かれた昔の私からの問に、溜息で応える。

 私は大学卒業後、かねてからの望みどおり製薬会社に就職した。

 私はこの仕事を誇りに思っている。えぇ、本当に。顔も知らない誰かを助けるために毎日毎日細かい、同じような作業を繰り返す。

 誰かを助けるために、私は日々、騒ぐ目覚まし時計を止め、朝食を取り、身支度をし、家を出て、車を運転して、会社まで出勤する。


 これを2年。


 ひたすらに薬を作っては、顔も知らない誰かを助け続ける毎日。


 佳奈は依然、9畳の世界に留まり続けている。連絡も未だに取れない。


 今日はかねてより計画されていた新薬の開発会議だ。この新薬開発での作業チームに私も加わることになった。

 空調の音が微かにする部屋に12人程が集まっている。部屋後方にはプロジェクターが据えられており、対象となる病気の症状やそれに効果があると思われる成分が大作映画のエンディングクレジットのようにずらりと並んでいる。


 面長で三角の鼻をした色白な女性が立ち上がり、各人に病気の概要を説明し始めた。それに合わせて周囲の人間も手元の資料に目を通し始める。


 今回、新薬を開発する対象となるのは近年西アフリカで感染が確認されている急性ウイルス性感染症、「コロン出血熱」と呼ばれるものだ。

 感染すると発熱、悪寒、頭痛、筋肉痛などから、嘔吐、下痢、腹痛、発疹、肝機能障害などが出て来る。進行すると口腔、歯肉、結膜など全身に出血、吐血、下血がみられるようになり、最終的に血だるまになりながら死亡するというもの。

 名称の由来はこの感染症が初めて人に感染した理由が、ガラパゴス諸島に生息する、血液を常食するハシボソガラパゴスフィンチの突然変異種が発見され、その時に人間を襲い吸血行動を行った際に感染したことから、ガラパゴス諸島の正式名称、南米を発見したかのコンキスタドールの名、「コロンブスの群島」を意味するコロン諸島からだそうだ。


 帰国した観光客が発症して以来、多くの人間に感染し、今もなお広域の多くの人間に猛威を振るっている。


「今回の新薬に用いる成分は従来のものとはかなり異なる性質を持つものばかりです。はっきり言って、開発はかなり難航するでしょう」


 機械のように抑揚のない声で淡々と説明を続ける女性。相手が相手なだけに、この場に集った人間のほとんどが険しい表情を浮かべていた。


「ラットでの実験のみでは人体にどんな影響が出るかはわからん。そろそろ人体での臨床試験を始めてもいい頃合いだろう」


 ふくよかな白髪交じりの男性のバリトンボイスが会議室に響く。


「では、再来月には第Ⅰ相試験を始めましょう。モニターを募集しておきます」

 ラットに対して行った非臨床試験では特筆すべき副作用等は見られなかった。これが人間に対しても同様であるかは分からない。薬と毒は表裏一体の存在だ。体の不調を治す薬も用法用量を守らねば毒となる。毒もまた然りだ。


「それでは、今回の開発会議はここまでにします―――」


 時計は会議が始まってから約一時間半が経過していた。ブラインドが下ろされているので部屋に陽の斜光は差してこないが時間的にもう外は薄暗くなってきているだろう。

 他の人間が書類を纏めて部屋を立ち去る準備をしているなか、なんとなしに配布された概要資料に目を通していると気になる一文が折り込まれていた。


 "感染者のうち、約4割に言語障害のような症状が見受けられる"


「言語障害・・・?」


 ページを捲り、他の書面にも目を通すがそのことに関しては特に詳しい報告がなかった。椅子から立ち上がり、会議室から出ようとしている例の女性を留めて質問してみる。


「すいません、この感染者の4割が言語障害のような症状が見受けられる・・・というのに関しての詳しい情報を知りませんか?」

「はい?あぁ、それはおそらくはコロン出血熱の激痛によるものであり、ウィルスによるものではないと判断されているものですが、一応表記しておいたものです。それがどうかしましたか?」

「ウィルスのせいではないという確証は得られているんですか?」


 女性が困ったような表情を浮かべる。


「いえ、まだ詳しく調べているわけではないのですが。ただ、ウィルス性感染症の、おそらくはもう少し割合が高いものかと。ただ喋れないほど熱が出たり、痛かったりする人もいるだけ、と捉えたほうがわかりやすいかもしれませんね。」


 確かに、資料の文面通りなら言語障害が症状であるのならもっと多くの人間がいそうだ。症状が悪化した全身から出血した人間が意思疎通を取れている場合もあり、それよりも比較的症状が軽い腹痛の人間が意思疎通が出来ないとも書いてある。これはただ単に痛みに耐えられずに喋る余裕がないと考えるのが妥当か・・・


「そう、ですか。お時間を取らせてしまい申し訳ありません、ありがとうございました」

「いえ、お気になさらず。それでは、私はこれで失礼します」


 先刻のスライドをプロジェクターで投影するために部屋を暗くしていたから気づかなかったが、この人の髪は少し赤みがかった黒だった。改めて見ると顔立ちがはっきりしていて結構美人だなとなんとなく思った。彼女の背が遠ざかるのをずっと見つめ続けていた。


 二ヶ月後、コロン出血熱の新薬の第Ⅰ相試験が始まった。用意されたモニターの数は15人×10セットで150人。

 フェーズ1では、少人数の患者を対象に、新たな薬や機器、医療技術の候補の、人への安全性や体内動態(薬物の吸収、分布、代謝、排泄)などを調べ、最適な用法用量を確認を行う。新薬は10種類用意されており、1種類毎に15人のモニターが割り当てられた。

 1年の臨床試験を経て、何も問題のなかった治験薬がフェーズ2へ移行できる。平均的にはフェーズ1から承認申請までこぎつけるものは全体の約5%という狭き門だ。だから今回の新薬も場合によっては全種類がフェーズ1で失敗作の烙印を押される可能性が十分にあるだろう。


 私はそのチームの一つを担当することになった。やることは服役指導と、経過観察。モニターに対してアンケートを行ったりして、治験薬が相応しいものかどうかを判断する。一週間経過したが今のところは特に問題は起きていない。このまま何事もなく終了してくれればいいのだが・・・


 さらに三ヶ月が経過した。他の臨床試験チームでは副作用によりめまいや頭痛の症状を訴えるモニターが出てきた。そのチームで服薬している新薬は私のチームのものとは成分はすべて同じ、違ったのは2~3つの成分の配合分配が微量に異なっていただけだった。たったそれだけでそうした副作用が出てしまうのが薬の恐ろしいところである。この時点で臨床試験を続けられているのは当初の半分にまで減っていた。コロン出血熱はなおも感染拡大を続けている。


 そして最後の一週間。一年間の臨床試験が終わり、私の担当する臨床試験チームが最後まで残った。モニターは全員健康そのもので、このまま行けばこの種類の治験薬が承認申請までこぎつけられるかもしれない。

 ここまでほとんどの時間を経過観察等で気を張り詰めていたので流石に少し疲れた。デスクワークの連続で腰が痛い。この試験結果を踏まえて、再来月には第Ⅱ相試験(フェーズ2)が始まる。それまでに纏めなきゃいけない資料もてんこ盛りだしで・・・。


「はぁ・・・」


 さすがに少し気が滅入る。だが、弱音も言っていられない。フェーズ2、3と段階を踏む毎にモニターの数もフェーズ1とは比べ物にならないほど多くなる。また、フェーズ1での有害事象と副作用の区別で、医療費の負担などもやらなければならない。簡単に言うと現れた症状が服薬した治験薬により起きたものなのかそうでないのかの区別だ。治験薬が原因の症状は副作用、そうでないものは有害事象と言われる。と言っても、それらを区別するのは難しく、中には曖昧なままになってしまっている案件も無くはない。モニター全員がインフォームド・コンセントの上でやっているのならまだ良いのだが、中にはよく確認しないでやってくるやんちゃな学生もいたりするので厄介だ。まぁ、今回はそういった人の話が職場で話題に上がっていないのだが。


 資料を纏め終えたのでPCをシャットダウンする。青い画面がチカチカして少し目が痛い。この仕事を始めてから急激に目が悪くなりメガネをかけ始めた。初めてメガネ屋さんに行ったときのあの衝撃。メガネって、とっても高いんだなぁと寂しい懐が一気に氷点下まで持って行かれたのが記憶に新しい。

 時間は午後八時。そろそろ退社する頃合いだ。今日は疲れてるし、どこかで食べて帰ろう。


 夕食を食べ終え、店から車を発進させてから10分ほどたったころ、よく赤信号に引っかかる交差点でラジオを聞いていた時、私は思わず眼を見張った。私がたまたま見やった視線の先には佳奈らしき人物が歩いていたのだ。暗くてよく見えないが、ひと目で佳奈じゃないかと思った。もし、そうだとしたらこんな時間に一体何をしているのだろう。歩いている方向は佳奈の家だが、いや、それよりも―――――


「部屋から出てこれたんだ・・・!」


 目頭が熱くなるのを感じた。思わず窓を開けて声をかけようとしたが、ちょうど青信号に変わってしまった。後ろ髪を引かれながら、車を発信させる。どこか適当なところに止めて会いに行きたいとも思ったが、なんというか勝手に押しかけるのも迷惑な気がした。彼女はこれまでずっと何らかの事情があって自分の部屋に引きこもっていたのだ。何があったのかを知りたい気持ちもあるが、それでも彼女の迷惑になるようなことはしたくなかった。


 しかし、そうか・・・。見たところやせ細っていたり、キレイな髪がボサボサになっているようでもなかった。元気でいてくれたのなら、それで良い・・・。もう少し日が経ったら、佳奈のお母さんにも少し話を聞いてみよう。


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